第35話 悪夢
気が付けば悟は学校の教室に居て、周囲を中学生が囲っていた。
全ての人が、悟へと非難の目を向けている。
「あいつ、佐倉さんを振ったらしいぞ」
「これで何人目だよ。澄ました顔してるし、何様のつもりだっての」
隠しもしない嘲りの声と視線は不快だが、その程度なら何も問題ない。
むしろ胸を満たすのは、振った人に対する申し訳なさだけだ。
それを表に出す資格は悟になく、毅然とした態度で顔を上げていると、周囲の人だかりから決して忘れられない声が耳に届く。
「そういえばよー。こいつって、家族でもない小学生を毎日迎えに行ってるらしいぜー」
声の方を見れば、悟を不快そうに睨んでいる男子生徒がこちらへと歩いてきた。
「しかも滅茶苦茶可愛いんだってさぁ。モテる奴は違うねぇ」
明らかに侮蔑の感情が乗った言葉に、周囲がざわめく。
小学生の女子を迎えに行く男子中学生となれば、良い話題のネタだ。
しかし周囲の喧騒よりも、悟の意識は目の前の男子生徒に向けられている。
「同年代の告白を全部断って、その子に熱中してるんだろ? いい気なもんだな。さてはお前、その子を――」
「やめろ!」
その先の言葉を聞きたくなくて、耳を塞いで顔を俯けた。
なのに、嘲笑混じりの声は止まらない。
「お前、気持ち悪いよ」
彼の言葉が、鋭い刃となって悟の心を抉る。
一刻も早くこの場を去りたくて、逃げ出したくて。押しのけるように彼に触れた。
すると、彼の口が裂けたような笑みを形作る。
「ほら見ろ、何が良い子だ馬鹿馬鹿しい。お前は子供を信用させて、都合の良いように操る最低最悪の男なんだよ」
悟の胸の一番奥に沈めた醜い自分を指摘されて、視界が真っ赤に染まった。
「うるさい!」
声を張り上げ、激情のままに彼へ拳を叩きつけようとする。
その目前で景色が歪み、悟の自室が視界に映った。
「……最悪だ」
どうやら、彼を殴ろうとした所で跳ね起きたらしい。
夢の中とはいえあっさりと手を出そうとしたみっともなさに、顔を掌で覆って重い溜息を吐き出す。
昔の嫌な出来事を凝縮した夢を見たせいで、気持ちの悪い汗がシャツにべったりと張り付いていた。
「今何時だよ。というか、昨日はどうなったんだっけ……」
時間を確認すれば、普段悟が起きるよりも一時間以上前だった。
ようやく冷えて来た頭で昨日を思い返し、飲み過ぎたものの、何とか家まで帰って来たのは記憶にある。
そして風呂を遠慮し、シャツに着替えて寝たまでは覚えているが、細部が記憶から抜け落ちていた。
「アリスに何かした気がするんだけどなぁ」
おそらく、家に辿り着けた事で気が緩んだのだろう。
頑張って考えたものの、亜梨栖に何かした、という所までしか思い出せなかった。
「仕方ない、後で聞こう」
嫌な事をされていたら怒るはずだし、今日の態度に出るはずだ。
焦る必要はないと気持ちを切り替えたものの、あまりにも酷い夢を見たので二度寝する気分ではない。
寝汗が酷いというのもあるが、昨日は風呂に入っていないせいで体がベタベタだ。
ちょうどいいので、風呂場へと向かう。
浴槽に湯は張っていないので、シャワーで体を洗っていく。
「はぁ……」
もうあれは過去の事だし、忘れるのが一番だ。
そう理解していても、悟の転機となる出来事だったがゆえに、簡単に頭から離れてくれない。
溜息をつきつつお湯が肌を撫でる感覚に任せて、胸に渦巻く苦い感情を少しでも洗い流す。
ようやく心の整理が終わった頃には、既に体を洗い終えていた。
「ふー。さっぱりした」
朝風呂に入るという習慣はないが、こういうのも悪くない。
体に着いた水滴を出来るだけ落とし、脱衣所への扉を開ける。
すると、ちょうどリビングへの扉が開き、銀色の髪をぼさぼさにした少女が入ってきた。
「あ」
「……」
おそらく亜梨栖は悟の朝食を作る為に、毎日この時間に起きているのだろう。
何とか脱衣所まで来たのはいいが、目に光が無いし、最近では少し柔らかくなった表情も能面のように固まっている。
そのまま何事もなく洗面台まで行ければ良かったのだが、悟の裸を見た事でスイッチが入ったらしい。
日に焼けていない頬が、一瞬で真っ赤に染まった。
「なななななんで!?」
「あー、その、おはよう」
悟とて内心では焦っているものの、人間は自分よりも焦っている人を見ると冷静になるらしい。
もしも逆の立場だったら、悟はもっと焦っていたはずだ。
とはいえ、どうしても隠さなければならない場所はある。
下半身をタオルで覆い、苦笑で挨拶をした。
亜梨栖は「み、見ちゃった……」と呟いたが、悟が反応せずにいると、咳払いで平静を取り戻そうとする。
「お、おはよう、ございます。……じゃなくて、何でここに居るんですか!?」
「いや、ちょっと早く目が覚めてな。昨日風呂に入らなかったし、ちょうどいいかなって」
「……なるほど」
顔は未だに火傷しそうな程に赤いが、頭は冷えたようだ。
それでも亜梨栖の瞳は悟の体へと向けられ、すぐに逸らすという事を繰り返しているが。
何にせよ、会話が出来る程に落ち着いてもらえたのは有難い。
「ごめんな、アリス。まさか入ってくるとは思わなかった」
悟的には下半身が見られたダメージはかなり大きい。それでも平静を取り繕えるのは、何の感想も返って来なかったからだ。
これがマイナス方向の感想だったなら、この場で崩れ落ちていただろう。
なので悟の事は置いておいて、慌てさせてしまった事に謝罪した。
「い、いえ、私も警戒せずに扉を開けてしまいましたから。お互い様です」
「ならお相子って事でいいか?」
「はい。……私的には、ご褒美だったけど」
「アリス?」
下手をすると悟が怒られる可能性もあったが、そうならなかった事に胸を撫で下ろす。
ただ、亜梨栖の呟きがあまりに小さくて、上手く聞き取れなかった。
首を傾げれば、彼女が耳まで真っ赤にして勢いよく首を振る。
「な、何でもありません。拭き終わったら教えてください」
「お、おう。分かった」
悟が答える前に、亜梨栖がリビングへと向かった。
小さな背中に声を掛け、いそいそと体を拭いていく。
きちんと部屋着に着替えてリビングに向かうと、亜梨栖はソファに体を預けていた。
「もういいぞ」
「ありがとうございます」
声を掛ければ、亜梨栖が視線を合わせずに脱衣所へ向かう。
そのまま送ってもいいのだが、聞くべき事があるのを思い出した。
「そうだ。昨日、俺が変な事をしなかったか?」
先程までの会話で、昨日は亜梨栖の嫌がる事をしていないと分かった。
しかし万が一があっては、これから一緒に暮らしていく上で溝が出来てしまう。
悟の言葉に、亜梨栖が肩をぴくりと揺らして振り向く。
僅かに赤らんだ頬とはにかむような笑みには、羞恥以外の感情が込められている気がした。
「変な事なんてしてませんよ。私の喜ぶ事をしてくれました」
「……内容は?」
何かはしたようだが、その内容が分からない。
嫌な事ではないなら教えてくれるかと思ったが、亜梨栖が瑞々《みずみず》しい唇に人差し指を当てて茶目っ気たっぷりに笑んだ。
「言いませんよ。今度は兄さんがしっかりと覚えている時にやってもらいますね」
華やいだ声が悟の胸を擽る。
亜梨栖の言葉を問いただす前に、バタリと脱衣所への扉が閉まってしまった。
おそらく、あの様子だと彼女は口を割らないだろう。
「俺、何やったんだ……?」
心臓の鼓動を落ち着かせる為にソファへどっかりと腰を落とし、昨日の出来事を振り返る。
しかし何も思い出せず、悟は頭を抱えるのだった。




