第34話 酔った姿
「お兄ちゃん、まだかな……」
誰も居ないリビングで亜梨栖は独り言ちる。
昨日までならもう悟は帰って来ているのだが、今日は飲みという事で帰りが遅い。
なので晩飯も一人で摂ったものの、この家に来るまでの五年間と同じく、何の楽しさも無かった。
「今日は髪を乾かしてもらえなかったなぁ……。はぁ……」
亜梨栖は酒を飲んだ事が無いので分からないが、酔った状態で余計な事はしたくないはずだ。
なので、酒を飲んだ人に髪を乾かして欲しいと言うつもりはない。
また、昨日の時点で「いつ帰るか分からないから、先に風呂にも入ってくれ」と悟に言われている。
その結果、既に風呂を終えて髪も乾いていた。
送り出したのは亜梨栖なので、怒ったり文句を言うつもりはない。
それでも最近の一番の楽しみが無くなったのは間違いなく、どうしようもなく気が滅入る。
悟が亜梨栖以外の女性と一緒に居るという事も、その理由の一つだ。
(ずるい。ずるいよ……)
仕方がないとはいえ、悟が亜梨栖ではなくその女性を優先した、と考えるだけで黒い感情が沸き上がる。
亜梨栖だけを見て欲しい。例え会社の付き合いだとしても、他の女性と一緒に居ないで欲しい。
そんな感情を口にしても悟に迷惑を掛けるだけだと、亜梨栖とて分かっている。
だからこそ出来る限り抑えたが、誰も居ない所で落ち込む事くらいは許されるだろう。
「……でも、必ず会えるんだもんね」
少し前までとは違い、悟は亜梨栖の元へと必ず帰って来る。
そう思うだけで、胸が温かくなった。
とはいえ何もする気が起きず、ソファに寝そべりながらぼんやりとスマホを弄って時間を潰す。
そんな時間は、メッセージの着信で終わりを告げた。
『遅くなってごめん。今から帰る』
もう時計の針は二十二時を過ぎている。そんな時間まで飲んでいたら、相当酔いが回っているはずだ。
しかし、悟は律儀に連絡してくれた。
簡素で短い文だったが、それでも亜梨栖の頬は緩んでしまう。
「こうしてる場合じゃない。ちゃんと迎えなきゃ」
先程スマホを弄っていた際に調べたが、酔った人には水を飲ませるのがいいらしい。
悟がいつも使っているコップを用意し、すぐに飲んでもらえるようにした。
風呂に関しては悟が入るかもしれないのでまだ掃除していないが、念の為に浴槽の栓を抜いている。
準備はあっという間に終わり、悟が帰って来るのをジッと待つ。
それから二十分後。亜梨栖の感覚では一時間が経過したとすら思えたが、ようやく部屋の鍵が開く音がした。
「っ!」
走って迎えに行きたい気持ちを抑え、ソファから跳ね起きる。
早歩きで玄関に向かえば、そこには顔を赤くした悟がいた。
「おかえりなさい、兄さん」
「……ん。ただいま、アリス」
かなり飲んだのだろう。胡乱な瞳が亜梨栖を見つめる。
呂律が回っているので、酔いつぶれてはいないらしい。
ただ、へにゃりと緩んだ笑みの前に、一瞬だけ悟の顔が曇ったのが気になった。
(……あの表情。どこかで見た事が、ある?)
何かを必死に抑えるような、痛みを押し殺すような表情。
一週間程前に亜梨栖が問い詰めた時とは違う、今にも泣きそうな顔。
それがなぜだか頭から離れなくて、昔の記憶を探る。
しかし形として掴む事が出来ず、するりと思考の隙間からすり抜けていく。
「こんなに遅くなってごめんな」
亜梨栖が黙り込んだのを怒ったと勘違いしたらしい。悟が眉を下げて謝った。
悟を気に病ませるつもりはなかったのだと、首を振って微笑を浮かべる。
あれだけ考えていたのに、記憶は完全に霧散してしまった。
「謝る必要なんてないですよ。さあ、鞄を預かりますね」
「ありがとな」
鞄を受け取り、悟の自室へと向かう。
ちらりと振り返って様子を窺えば、彼の足が若干ふらついていた。
意識ははっきりしているものの、かなり酔っているらしい。
鞄を定位置に置くと、悟がゆっくりと部屋着に着替えだす。
ネクタイを緩める色っぽい仕草に心臓がどくりと跳ねるが、見惚れている場合ではないと必死に感情を抑えた。
「着替えられますか?」
「これくらい大丈夫だ」
「では、お風呂は?」
「……ごめん。今日は止めておくよ」
おそらく、風呂に入る気力が無いのだろう。
沈痛な面持ちで頭を下げられた。
「了解です。なら、ゆっくりしてくださいね」
事情は把握しているので文句など言わないし、悟が胸を痛める必要もない。
悟へ微笑を向け、風呂場へと向かう。
きちんと掃除をしてリビングへ戻ると、悟がソファに体を預けていた。
テーブルを見るが、悟のコップが使われた様子はない。
「はい、お水をどうぞ」
「……あ、あぁ。ありがとう」
酔いが回ってぼんやりしていたのか、それとも考え事をしていたのかは分からない。
亜梨栖の声に、悟が一拍遅れて返事をした。
喉が渇いていたのか、思いきりコップを傾けて水を一気飲みする。
喉仏が動く男性を感じさせる姿に、頬が熱を持った。
「ぷはぁ。生き返るなぁ」
「でしょう? こういうのが大切らしいです」
「その言い方だと、わざわざ調べたみたいだな。ありがとう、アリス」
こちらを見つめる瞳は、眠たそうにとろみを帯びている。
明らかに無理をしている姿に、苦笑を零した。
「酔ってるんですから、寝てもいいんですよ?」
「そういう訳にもいかないだろ。ほら、その……」
「……もう。こういう時くらい自分を気遣ってくださいよ」
悟が言い淀んだ言葉が何なのか、口にされずとも分かった。
本当なら今すぐに寝たいだろうに、亜梨栖との時間を作ろうとする。その結果、苦しい思いをしても。
亜梨栖を優先してくれるのは正直なところ嬉しいが、もっと自分を大切にして欲しい。
「ほら、寝ますよ」
「いや、でも、今日の分は?」
「今日は兄さんがちゃんと寝てくれる事が第一です。行きますよ」
亜梨栖が告白した事で、悟に負担を掛けている事は自覚している。
それでも後悔はないし、代わりに悟へ亜梨栖の全てを使って尽くすつもりだ。
だからこそ、今のように無理して起きてもらっても、ちっとも嬉しくない。
悟の後ろに回り、背中をぐいぐいと押す。
「分かった。分かったよ」
「分かればいいんです」
仕方ないなぁという風に笑み、悟が自室へと向かう。
これ以上逆らう気はないようで、あっさりとベッドへ横になった。
「電気、消しますね」
「……その前に、いいか?」
酔っぱらっているとは思えない、真剣な瞳が亜梨栖を射抜く。
本当ならば今すぐに寝かせるべきなのだが、強引に話を切れる雰囲気ではない。
「どうしました?」
「ちょっと、こっちに来て欲しいんだ」
「はぁ……。分かりました」
首を捻りつつも、悟の傍へ行く。
すると、亜梨栖の頭にごつごつとしたものが乗った。
それはゆっくりと、噛み締めるように亜梨栖を撫でる。
久しぶりの感触は確かに嬉しいが、今は困惑が勝った。
「あ、あの……」
「………………こんなに醜い俺でも、いいのか?」
冷え切った、自らを刺すような、暗い声。
何が醜いかは分からない。しかし、悟の胸にそれはずっと引っ掛かり続けているのだろう。
ならば、亜梨栖の取るべき行動は一つだけだ。
「もちろんです。私だって醜いですし、大丈夫ですよ」
亜梨栖とて清い人間ではない。高校生という立場や悟の負い目を利用し、逃げられなくしている。
そして悟が昔と変わらない、優しい男性だという事も知っている。
ならば、どれほど悟が自虐しようとも、例え本当に醜い人間だとしても、亜梨栖が嫌いになる事は絶対に有り得ない。
迷いなく告げれば、悟の顔がくしゃりと歪んだ。
「アリスは、眩しいなぁ……」
亜梨栖の頭から名残惜しそうに手が離れ、ベッドへと投げ出された。
小さな呟きを最後に、ゆっくりと瞼が閉じていく。
すぐに規則正しい吐息が聞こえ始めた。
もっと撫でて欲しかったが、それはまた別の機会にしてもらえばいい。
今はただ、亜梨栖にすら言えない苦悩を抱えている彼を休ませてあげたいと思う。
「おやすみなさい。大好きですよ」
今は決して受け取らないだろう好意を伝え、滑らかな黒髪を撫でるのだった。




