第30話 デスクワークの弊害
「ふわぁ……」
お互いに髪が乾き、後は寝るだけとなった。
悟が帰ってきたのが遅めだった事もあり、後一時間もすれば日付が変わってしまう。
髪を乾かしてもらう際に少しだけうたた寝をしたものの、大きな欠伸が出てしまった。
「帰りが遅いのもそうですが、やっぱり社会人は大変なんですね」
ソファの端に座ってスマホを弄っていた亜梨栖が、悟の欠伸に苦笑を浮かべる。
亜梨栖の母である奏は悟より帰りが遅く、彼女の中では社会人は夜遅くに帰るもの、というイメージ着いてしまっているのだろう。
「大変ではあるけど、年度末だからな。普段はもう少し早く帰れるぞ」
「そうなんですか? でも学生みたいな春休みは無いですし、ただ働くだけでも大変ですよね」
「高校生みたいに一ヶ月の長期休暇もないしな」
詳しい事は亜梨栖にも言えないが、会社というものは一般的に年度末になると忙しくなる。
最初の頃は学生の長期休暇が恋しくなったものだ。
今では社会の荒波に揉まれ、懐かしさが沸き上がるだけだが。
肩を竦めて零すと、亜梨栖が瞳を僅かに伏せた。
「社会人の闇が見えますね……」
「これくらい闇でも何でもないぞ。俺の知り合いは――いや、やめとく」
高校生の亜梨栖に、これから足を踏み入れる社会の辛さを教えたくはない。
いずれ知る事にはなるが、高校一年生は早すぎる。
首を振って言葉を切れば、じとりとした視線をいただいた。
「そこで切ると気になるんですが」
「世の中には知らない方が良い事もあるんだよ」
「……まあ、兄さんがそう言うなら。それで、兄さんは大丈夫なんですか?」
「俺は単にデスクワークが多くて、肩が凝るくらいだな」
悟は机に齧りつく事が多く、体を動かさない事が殆どだ。
なので、肉体的疲労というよりは精神的の方が大きい気がする。
肩が凝るのも、ある程度は仕方ないだろう。
肩を回して調子を確かめると、ぱきりと良い音が鳴った。
「なるほど、今日の誘惑が決まりました」
亜梨栖が唐突に立ち上がり、悟の自室へと歩いていく。
「え、今からか?」
「はい。兄さんは寝る準備をしてから入ってきてくださいね」
そう言うや否や、亜梨栖は部屋に入っていった。
いきなりの行動に戸惑いながらも、歯磨き等の寝る準備をしていく。
彼女が何をするかに当たりをつけつつ、準備を終えて悟も自室に入る。
「さあ兄さん。ベッドに寝そべってください」
ベッドに腰掛けていた亜梨栖が、ぽんぽんとそこを叩いた。
悟が寝た上で亜梨栖のする事など、先程の会話からして一つしかない。
「もしかして、マッサージしてくれるのか?」
「ええ。もちろん、そのまま寝てもいいですよ」
「肩が痛くて困ってる訳でもないんだけど、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
髪を乾かすのと同じく、マッサージは誘惑とは言えない。しかし、亜梨栖は何を言っても絶対に意見を曲げないだろう。
遠慮なく甘えさせてもらい、ベッドにうつ伏せになった。
枕を首の下に敷き、負担が掛からないようにする。
「折角ですし、本格的にしましょうか。失礼しますね」
そう言いつつ、亜梨栖がベッドへ上がる。
それだけでなく、悟の腰付近に乗ってきた。
腰なので辛くはないし、服越しなので乗って来た部分の感触も殆どない。
ただ、体を固定する為にか、亜梨栖の足が悟の太腿を挟み込んだ。
春という事で悟のパジャマも短めのパンツであり、滑らかな足の感触が直接伝わってくる。
「お、おい、アリス」
「朝も乗ってましたし、別に良いでしょう?」
「朝は布団越しだっただろうが!」
「おや、布団が無くなるだけで問題になる程、兄さんの理性は脆かったんですね。世間体が聞いて呆れます」
「……ほう?」
露骨な煽りだと分かってはいても、反応せずにはいられなかった。
こんな事を言われて引き下がる程、悟は人間が出来ていない。
「いいだろう、好きにしろ。俺の理性の強さ、見せてやろうじゃないか」
「その言葉、間違いはありませんね?」
「男に二言はない」
「言質は取りました。それじゃあ覚悟してくださいね」
亜梨栖の指が悟の肩に触れ、確かめるように力を籠めた。
喧嘩腰ではあったが、手つきは非常に優しい。
足に当たっている滑らかなものに関しては、必死に頭から弾き出す。
「これくらいですか?」
「もうちょっと強めで頼む」
「ではこのくらいで」
「ん……。良い感じだ」
程よい力で肩を揉まれ、体の力が抜けていく。
これまでマッサージなどされた事がなかったが、これは嵌りそうだ。
(まあ、アリスの声は心臓に悪いけど)
それなりに力を込めるので、無言のままではいられないのだろう。
手を動かしつつ、亜梨栖が小さく声を漏らしている。
「ん、しょ……。ふ、ぅ……」
肩を揉んでいるだけなのに、顔が見えないからか妙に艶めかしく感じる。
もちろん、亜梨栖は真剣に肩を揉んでいるだけのはずだ。
悟が動揺してはならないと、理性を固く縛ってマッサージを受け続ける。
「兄さん、ちょっと、肩が凝り過ぎでは?」
「そうなのか?」
「ええ。正直、固すぎます」
「す、すまん?」
これまで肩が凝った事で不都合など起きなかったし、亜梨栖にも迷惑は掛けていない。
今回のマッサージに関しては、彼女の誘惑の一環なので除外だ。
取り敢えず謝罪すれば、やれやれ、と分かりやすく辟易したような溜息が聞こえた。
「兄さんを待つ間に調べましたが、デスクワークというものは肩と腰の疲労が問題になるみたいです。なので、油断は大敵ですよ」
「この歳で腰が痛くて歩けない、なんてのは嫌だなぁ……」
腰を抑える三十にも満たない男性の姿を想像し、頬を引き攣らせる。
反対に、亜梨栖はくすりと笑みを零した。
「そんな兄さんにはさせませんが、もし腰が痛くて歩けなくても傍に居ますからね」
「……それは絶対嫌なんで、腰もお願いします」
「はぁい」
亜梨栖ならば悟を介護してくれるだろう。しかし悟にもほんの少しではあるが、プライドがある。
真面目に頼み込めば、軽やかに笑って亜梨栖が返事をした。
細い手が腰に向かい、もうコツを掴んだのか適切な力加減で揉み解していく。
「うあ゛ー」
「気持ち良いみたいですね」
「ぶっちゃけ、最高だ。マッサージ店に人が行く理由が分かるな」
自分では気付かなかったが、もしかすると腰にも疲労が溜まっていたのかもしれない。
これまでマッサージ店に行く人の気持ちが分からなかったが、こんな気持ちを味わえるのなら早く行けば良かった。
心の底から後悔する程の事ではないものの、ぽつりと呟けば、マッサージの手つきが僅かに強くなる。
「アリス?」
「……兄さんにそんな店は必要ありません。これからは、私がするんですから」
低く、冷たい声が耳朶を打ち、びくりと体が震えてしまう。
ただ、その言葉に込められた感情はすぐに理解出来た。
こんな悟にその感情を向けてくれる事が嬉しく、頬が勝手に緩む。
「じゃあ、アリスは俺専用のマッサージ師だな」
「ええ。兄さん以外に――まあ、例外としてお母さんと彩さんも許しましょう――私がマッサージする事はありませんよ」
「嬉しいけど、無理しないようにな」
「分かってますよ」
少々横暴な発言に、亜梨栖が柔らかい声で応えた。
おそらく、今の彼女は微笑を浮かべているのだろう。
話が途切れ、しかしマッサージは続く。
そのせいで、だんだん瞼が重くなってきた。
「兄さん?」
背を向けているので分からないはずなのに、亜梨栖は悟の状態を見抜いたらしい。
小さく囁くような声が、悟を更なる眠りに誘う。
「ふふ、おやすみなさい」
ひたすらに優しく慈しむような甘い声に導かれ、意識が落ちるのだった。




