第3話 決して言えない事
「「……」」
二人きりのリビングには、先程から静寂が満ちている。
日光が入らないようにカーテンを引いているのも合わさって、空気があまりにも重い。
そして向かいに座っている少女の瞳は、悟へと向けられ続けていた。
(まずは世間話を、なんて無理だよなぁ……)
五年前、最低な行為だと自覚しつつも、悟は亜梨栖の前からいきなり居なくなったのだ。
なのに久しぶりに会って「元気にしてたか?」などと聞くのは、あまりにも彼女を侮辱している。
ならば最初に話すのは悟からであり、その言葉も世間話などという軽いものであってはならない。
「ごめん、アリス」
謝罪は短く、机に額がつく程に思いきり頭を下げる。
そのまま頭を下げ続けていると、「顔を上げてください」という平坦な声が掛かった。
ゆっくりと顔を上げれば、無機質な硝子彫刻のような表情が悟を見下ろしている。
「どうして謝ったんですか?」
ただ謝るだけではなく、その理由を言えという意思が、棘となって言葉に乗っていた。
無表情であるにも関わらず、今の亜梨栖からは迫力のようなものを感じる。
「五年間、いきなり居なくなった事、それから一切連絡をしようとしなかった事、本当に、ごめん」
亜梨栖の圧を真正面から受け止めて再び謝罪し、悟を糾弾するであろう言葉を待つ。
ゾッとする程に整った顔が俯き、彼女の表情が見えなくなった。
「………………あの時の、私の気持ちが、分かりますか?」
絞り出すように呟かれた声は、先程までとは打って変わって震えていた。
家を出るまで悟と亜梨栖は毎日一緒に過ごしていたのだから、相当な悲しみだったのだろう。
その悲しみを与えた悟が「分かるよ」とは口が裂けても言えない。
「ごめん」
「いつも私の家に来てくれるのに、いつまで経っても来なかった。心配になって様子を見に行くと、兄さんの痕跡が消えていた。その時、私がどんな気持ちだったか……」
「……ごめん」
「どうして、何も言わずに、居なくなったんですか?」
亜梨栖の声の震えが酷くなり、華奢な肩が揺れる。
当時の事は彩から「何とか説得したわ」と聞いていたが、もしかすると亜梨栖は相当取り乱したのかもしれない。
とはいえ、無理もない話だ。家族のように親しい人が、突然居なくなったのだから。
亜梨栖を傷付ける覚悟もした上での行動だったが、本人の口から告げられて、胸に鋭い痛みが走った。
しかし、彼女の問いには首を振る事しか出来ない。
「……それは、言えない」
「何、で……。どうし、て……」
「言えないんだ。本当に、本当に、ごめん」
傍から離れた理由を、亜梨栖に知られてはいけない。例え、彼女を再び傷付けるとしても。
それを表に出す事だけは、何があっても許されないのだから。
何も言わない悟に我慢の限界が来たのか、亜梨栖が勢い良く顔を上げる。
日に全く焼かれていない真っ白な頬には、既に涙が流れていた。
「辛、かった。苦し、かった。寂しかった! お母さん達に聞いても、何も答えてくれなかった!」
それは、この五年間ずっと溜め込んでいた感情だったのだろう。
亜梨栖が声を張り上げ、悟を鋭く睨む。
涙に濡れたルビーの瞳が見開かれ、こんな時ですら美しいと感じてしまった。
「捨てられたのかなって、お兄ちゃんに嫌われたのかなって、ずっと、ずっと不安だった!」
懐かしい呼び方に胸が甘く、けれど確かな痛みを伴って締め付けられる。
「そんな事は、ない」
「じゃあ、どうして居なくなったの!?」
「……ごめん」
結局、この件の本質は「どうして悟がいきなり居なくなったのか」なのだ。
それに答えられない以上、話が堂々巡りになってしまう。
「ちゃんと言ってよ! 何で言えないの!?」
「…………ごめん」
悲鳴のような声に、ぐっと奥歯を噛んだ。そうしなければ、言葉にしていただろうから。
せめて罵倒は受けなければと、瞳を逸らさずに亜梨栖を見つめ続ける。
深紅の瞳から流れる涙は止まらず、むしろ勢いを増した。
「……ずるい。私、頑張ったのに。頑張って、ここまで来たのに」
悔しさが滲み出るような声に、胸の痛みが酷くなる。
彩や奏に「絶対に住所を教えないで欲しい」と懇願し、二人が承諾してくれたにも関わらず、亜梨栖はここに来たのだ。
何かしらの条件を出されていたとしても、おかしくはない。
今すぐに全てを打ち明けたい。話して楽になってしまいたい。
そんな感情を、血が出ても構わない程に拳を握って抑え込む。
悟には、そんな資格など無いのだから。
「お願いだから、言ってよ……」
「………………本当に、ごめん。言えないんだ」
縋るような、か細く消え入りそうな声にゆっくりと首を振る。
どれほどそのまま固まっていただろうか。
悟が絶対に理由を口にしないと分かったようで、亜梨栖は呆れたように大きく息を吐いて肩を落とした。
「これだけは答えて。私と一緒に居るのが、嫌だったの?」
「それは、それだけは絶対にない」
背筋が凍る程に冷たい声にきっぱりと答えれば、深紅の瞳がゆっくりと瞼に覆われる。
涙の痕をそのままにして、目を開けた亜梨栖は再び無表情へと戻った。
「なら、もういいです」
「……ありがとう」
突き放すような、けれどこれ以上は踏み込まないという意思を込めた言葉に、今日何度目かも分からないが頭を下げる。
本当は問い詰めたいだろうに、それをしない亜梨栖には感謝の言葉しか返せなかった。
散々傷付けた上で何も返せない自分自身が悔しくて、奥歯を噛み締める。
全て水に流すつもりはないのか、亜梨栖が「でも」と声を発した。
「兄さんを許した訳じゃないです。あくまで、理由を聞かないだけ。それだけは、覚えておいてください」
「分かった」
亜梨栖が許さないとしても、悟に文句などあるはずがない。
幼馴染を泣かせてしまった事実を心に刻み付け、大きく頷いた。
少しだけ亜梨栖の雰囲気が柔らかくなり、今度は彼女が頭を下げる。
「改めて、いきなり押しかけてすみません。これからよろしくお願いしますね」
「その件だけど、本当にいいのか? 五年も会ってなかったんだ。幼馴染――なんて今更言えないし、そんな男の家に住むなんて、嫌じゃないのか?」
先程の亜梨栖の言葉から察するに、胸の奥には未だに悟に対する憤りが渦巻いているのだろう。
それだけでなく、もう五年も会っていないのだ。
そんな男など、亜梨栖からすれば幼馴染とは呼べないだろう。
むしろ嫌われてもおかしくはないので、この件は本当に意外だった。
既に話は纏まっているので遅くはあるが、もう一度問い掛ければ、小さな口がほんの僅かに緩んだ。
「もちろん。私にとって、兄さんはいつまでも兄さんです。五年会ってなくても、理由を言わないのに未だにむかついていても、それは変わりません」
「五年も経てば、お互いに色々と変わると思うんだが」
「それはそうでしょう。ですが、それでも構いません」
「どうしてだ?」
以前ならいちいち言葉にしなくとも通じ合える程に、お互いの事は殆ど把握していた。しかし、とっくにそういう仲ではなくなっている。
それを分かっていながらも迷いなく断言した亜梨栖に、疑問をぶつけた。
亜梨栖はというと、顎に手を当てて何かを考え始める。
迷うような仕草も様になっており、写真として残しておきたいと一瞬だけだが思ってしまったほどだ。
ただ、それほど思考は長く続かず、無機質な瞳が悟を見つめる。
「秘密、です」
「そうか。分かった」
「……いいんですか?」
「俺だって理由を言わなかったんだ。お互い様だよ」
訝るようにほんのりと眉を寄せる亜梨栖に、苦笑で返した。
彼女が一番聞きたいであろう事を、悟は言葉にしなかったのだ。そんな悟に亜梨栖を問い詰める権利などない。
悟の言葉に、亜梨栖がほんの僅かだが表情を緩める。
昔とは違った大人びて柔らかい微笑に、心臓がどくりと鼓動した。
「ありがとうございます。これからよろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしく」
「ああでも、だからといって五年分の負債が帳消しになったりしませんから。覚悟してくださいね?」
「…………了解」
唇に僅かな弧を描かせ、しかし全く瞳が笑っていない微笑に、頬を引き攣らせる。
どうやら、五年前抱え続けた不満は相当なもののようだ。
未だに距離感の掴めない幼馴染との同居に、小さく溜息をつくのだった。
二十二時過ぎにもう一話投稿します。




