第28話 ネクタイ
「ただいま……」
とっくに日は暮れており、疲れきった体で何とか家に帰ってきた。
玄関を開ければ、パタパタと軽いスリッパの音が近付いてくる。
「お帰りなさい、兄さん」
帰る時間をメッセージアプリで伝えていたとはいえ、不安だったのだろう。
誰もが見惚れる程の整った顔には、悟への心配が浮かんでいた。
亜梨栖の優しさが胸に沁み、少しだけ悟の体に元気が戻る。
「ただいま。遅くなってごめんな」
「いいんですよ。鞄、持ちますね」
本来ならば、鞄くらい自分で持つべきだ。
いくら疲れているとはいえ、それくらいは持てるのだから。
しかし、亜梨栖があっという間に悟の手から鞄を奪い去った。
「……ありがとう」
甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる幼馴染に、心からの感謝を送る。
亜梨栖はというと、悟がスリッパに履き替えたのを確認し、くるりと身を翻した。
「わざわざお礼を言われるような事じゃありませんよ。兄さんを癒したいって言ったでしょう?」
「それでも、ありがとな」
亜梨栖の後ろをついて行きつつ、華奢な背中に声を掛ける。
いくら彼女が望んでやっている事とはいえ、それを当たり前に受け取っては駄目だ。
(誰かが迎えてくれるって良いなぁ……)
この一年間で、悟は一人暮らしの寂しさというものを存分に味わった。
もちろん一人暮らしは嫌ではないし、誰かに泣きつきもしない。
それでも、シンと静まり返ったリビングや、美味しくはあれど味気ない晩飯、疲れ果てた体を動かして部屋着に着替えるという行為は、中々に心を抉られる。
そんな毎日に疲れた悟にとって、亜梨栖の行為は間違いなく救いなのだ。決して感謝を忘れる事はない。
「何度も言われるとくすぐったいですね」
悟の自室へ先に着いた亜梨栖が、口に手の甲を当てて上品に笑んだ。
「俺からすると、まだまだお礼を言い足りないくらいだよ」
「これ以上はいいですよ。ほら、スーツを渡してください」
鞄を置いた亜梨栖が、悟へと手を伸ばす。
何度もお礼を言うと話が堂々巡りになるので、素直に上着を渡した。
「頼む」
「任せてください」
亜梨栖がスーツをハンガーに掛けている間にネクタイを緩め、ワイシャツに手を掛ける。
まだ下に薄手のシャツを着ているので、脱いでも裸を見られる事は無い。
特段見られる事に抵抗はないが、亜梨栖も見たい訳ではないだろう。
離れて欲しいと思って亜梨栖の方を見れば、彼女と目が合った。
雪のように白い頬が、なぜかうっすらと赤らんでいる。
「アリス、どうした?」
「……それ、いつもしてるんですか?」
「そりゃあずっとネクタイを締めてたら息苦しいしな。念の為に帰るまではちゃんとしてるけど、休憩の時とかは緩めるぞ」
仕事を終えた後まできっちりスーツを着る必要はない。在宅ワークでもない家の中ならば尚更だろう。
それに休憩中は悟の周囲も気を抜いているし、文句を言われた事などない。
亜梨栖の言葉の意味がいまいちよく分からず、首を捻りつつ答えた。
「なら、これからは私の前だけにしてください」
「休憩の時くらい息抜きさせて欲しいんだけど……」
流石にずっとネクタイを締め続けると息が詰まってしまう。
苦笑気味に懇願すれば、亜梨栖が大きな溜息をつく。
「自覚がないって怖いですね……」
「自覚? 何の?」
「あのですねぇ。兄さんは格好良いんです。そんな人がネクタイを緩め、油断した姿にときめかない人は居ないんですよ」
「……そうなのか?」
呆れた風ではあるが、亜梨栖の言葉は悟への賞賛がこれでもかと込められていた。
悟としては、先程の仕草のどこにときめく要素があるのか分からない。
ただ、亜梨栖としては譲れないもののようで、言葉に熱が入っていく。
「そうなんです。何ですか、私へのご褒美ですか、ありがとうございます」
「え、ご、ご褒美?」
「当たり前しょう? 大好きな兄さんのお世話が出来るだけでなく、ネクタイを緩める姿を目に焼き付けられるんです。これをご褒美と言わずして何というんですか。いえ、それ以外の言葉などないです。というか、そんな姿を他人に見られていると思うと物凄く嫌です」
「あ、アリスさん。そこら辺で止めていただけると……」
頬は僅かに赤いものの表情はあまり変わらず、けれど口からは内心が駄々洩れなので、違和感が凄まじい。
おそらく、亜梨栖のスイッチが入ってしまったのだろう。
彼女に想われているという事を改めて実感したが、そろそろ羞恥が限界だ。
それに、いい加減ちゃんと着替えたい。
話を止めようとすると、深紅の瞳に鋭く睨まれた。
「何ですか?」
「いや、俺を褒めてくれるのは嬉しいんだけどさ、このままだと着替えが出来ないなって」
「……あ」
ネクタイを緩める、という点に関して亜梨栖の言葉は嬉しいが、流石に締め続けるのは遠慮したい。
とはいえ出来る限り望みを叶えたいという思いもあり、今度からは周囲に男性しかいない場で緩めようと思う。
妥協案を口にすると亜梨栖が更に暴走しそうだったので、申し訳ないが話を切り替えて有耶無耶にさせてもらった。
ようやく冷静になったのか、亜梨栖の表情が固まる。
そして先程まで何を口にしていたか理解したらしく、髪の隙間から覗く耳が一瞬で真っ赤になった。
「す、すみません! 失礼します!」
脱兎の如く、という表現がそのまま当てはまる程に、凄まじい速さで亜梨栖が去っていく。
やはりというか、先程までのべた褒めは暴走した結果だったのだろう。
自室の扉が閉まり、その向こうから「失敗したよぉ!」というくぐもった悲鳴が聞こえてきた。
何とか悟に聞こえないようにと対策し、クッションに顔を埋めての発言なのかもしれないが、残念ながら丸聞こえだ。
「……何というか、攻める割にはアクシデントに弱いよなぁ」
悟を誘惑する際や癒す際は覚悟を決めているのか、表情を取り繕ったりからかったり出来るらしい。
しかし今回のように予想外の事が起きると、すぐに自爆、もしくは慌ててしまうようだ。
微笑ましさにくすりと笑みを落としつつ、シャツを脱いで部屋着に着替えるのだった。
着替えを終えてリビングに行くと、亜梨栖がキッチンに居た。
調理の音はしておらず、おそらく悟が帰って来る直前に終わらせたのだろう。
ただ、完全に立ち直れてはいないようで、頬は少し赤い。
目が合うと、ばつが悪そうに眉を下げた。
「……ホントに、すみません」
「いや、そこまで謝らなくてもいいから」
悟があまりに恥ずかしかったので止めたが、決して嫌ではなかったのだ。
ひらひらと手を振り、悟もキッチンに向かう。
「それで、手伝える事はないか?」
このままでは亜梨栖が気に病んでしまうので、明るい声を意識して尋ねた。
しかし、亜梨栖が更に顔を曇らせる。
「兄さんは椅子に座って待っていてください」
「運ぶ事くらい出来るんだが」
「いいえ、これは私の役目なんです。お願いします」
「……分かったよ」
手伝いを拒否する理由の中には、先程の罪滅ぼしも入っているのだろう。
そんな事をする必要はないのだが、亜梨栖の好きにさせた方が良いかもしれない。
渋々ながら退散し、リビングの椅子に座って待つ。
すぐに亜梨栖が料理を持ってきた。
「はい。今日は鳥の照り焼きですよ。サラダもありますので、ちゃんと食べてくださいね」
「豪華だなぁ」
一人の手では一度に全ての料理を持って来る事は出来ない。
そのせいで、亜梨栖がテーブルとキッチンを往復している。
手伝った方が良いのは明らかだが、彼女は許可しないだろう。
やきもきしたままジッとしていると、ようやくテーブルに全ての料理が並んだ。
「「いただきます」」
手を合わせて食材に感謝し、箸を手に取る。
まずはメインである鳥の照り焼きだ。
豪快にかぶりつけば、鳥の肉汁と甘辛いソースが口の中に広がる。
「ん、美味い!」
「ちゃんとよく噛んで食べるんですよ」
母親みたいな事を言いつつも、亜梨栖の表情は柔らかく綻んでいた。
仕事終わりに亜梨栖と食事するのは初めてだが、やはり一人でコンビニ弁当を食べるよりも余程心が温かくなる。
「分かってるよ。折角亜梨栖が作ってくれたんだ。味わって食べるさ」
「ならいいのです」
あまり会話はしないものの、空気は重くない。
こんな平日がずっと続けばいいなと、頭の片隅で考えていたのだった。




