第27話 寝起きの衝撃
「おにーちゃん!」
風呂上がりの濡れた銀髪を靡かせ、小学生低学年くらいの少女が悟へと駆け寄ってきた。
天真爛漫な笑顔を浮かべ、目の前でくるりと回って背を向ける。
「今日も髪を乾かして欲しいの!」
「それはいいけど、ジッとしててね?」
「うん!」
元気のある返事はいいが、結局擽ったがって暴れるのだろう。
出来る限り首に触れないようにしようと思いつつ、ドライヤーで髪を乾かしていく。
「きもちー!」
今日もご満悦のようで、小さな背中が機嫌良さそうに揺れる。
毎日注意しているのだが、一向に止めてくれない。
そのせいで、肩口くらいまで伸びた髪を掴む手が真っ白な首に触れてしまう。
指が掠めた瞬間、亜梨栖の体がびくりと跳ねた。
「お、お兄ちゃん、くすぐったいよぉ……」
「アリスちゃんが動くからだよ。ほら、ちゃんと大人しくして」
「ん、ふふ、あはは!」
やはりというか、亜梨栖は一度反応すると暫く落ち着かない。
髪を乾かしているだけでもむずがり、じたばたと暴れ出した。
「アリスちゃん……」
「ご、ごめんなさい……。ちょ、ちょっと待って……」
暴れてはいるものの、亜梨栖も悪いとは思っているようだ。
じとりとした目を送ると、彼女は一度距離を取った。
体を落ち着かせ、再び悟へ近付いてくる。
「ん、もう大丈夫!」
「……本当に、頼むからね」
再び悟へ髪を委ねる亜梨栖に小さく溜息を落とし、作業を続けた。
その後は彼女がしっかりと我慢してくれ、髪を乾かし終える。
「どうかな?」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
髪の渇き具合を確かめた亜梨栖が、勢いよく悟に抱き着いてきた。
小学生女子の体など、簡単に受け止められる。
しかし想像以上に強い衝撃を受け、後ろに倒れてしまった。
「えへへー! お兄ちゃんの負けー!」
何が勝負なのかは分からないが、どうやら倒れた悟は負けたらしい。
ご機嫌に頬を緩めた亜梨栖が、悟の腹に乗ってくる。
「ぐえっ! お、おも……」
小学生の体重とは思えない亜梨栖の重さに、つい本音が出てしまった。
どれほど幼くとも女子という事か、亜梨栖が不満そうに唇を尖らせる。
「ひどいよ、お兄ちゃん」
『酷いですね、兄さん』
目の前の小学生の声に、鈴を転がすような声が重なった。
戸惑う悟の視界が、急速に色を失っていく。
「……ぅ」
ゆっくりと目を開ければ、そこは先程までの三城家ではなく、悟の自室だった。
だが、普段と違うのは、悟の腹に亜梨栖が乗っている事だ。
そんな彼女は、不満も露わな表情で悟を見下ろしている。
至近距離で見つめられていたら、悲鳴を上げていたかもしれない。
「……何してんだ?」
「それはもちろん、兄さんを起こそうと」
「腹に乗る理由は?」
「昨日は髪を乾かしただけですし、今日は少し頑張ろうかと思いまして。まあ、文句を言われたんですが」
「そりゃあ寝てる人の腹に乗ったら、文句を言われるに決まってるだろ」
いくら亜梨栖が女性で軽いとはいえ、高校生の体重はそれなりに重い。
思いきりのしかかっては来なかったのだろうが、悟は寝ていて腹に力を込めていなかったのだ。
そんな状況で亜梨栖を受け止められるはずがない。
夢と現実が嚙み合った結果でもあるが、流石に文句を言わせて欲しいものだ。
「それで、退いてくれないか?」
「……ヤです」
「おい」
亜梨栖は一瞬だけ思考したようだが、結局悟の腹に乗ったままだ。
低い声で短く非難すれば、彼女が僅かに唇を尖らせた。
「だって、せっかく兄さんを誘惑したのに、何のリアクションもしてくれないんですよ? 一言くらい何かあっても良いじゃないですか」
「心臓に悪いから止めてくれ、じゃ駄目か?」
あくまで冷静な対応をしているが、これでも心臓が忙しい事になっている。
なにせ、美少女がパジャマという薄着で悟の腹に乗っているのだ。
細くはあれど柔らかそうな太腿が視界に入り、油断すると悟の下半身が熱を持ってしまう。
唯一の救いは、悟と亜梨栖の間に毛布がある事だ。
これが無かったら、悟の心臓はもっと大変な事になっていただろう。
嘘ではないが微妙にズレた回答をすると、亜梨栖がほんの少しだけ目を細めた。
「それは何が理由ですか? 太腿? それとも兄さんのお腹に触れてる所ですか?」
「……どっちもだよ。正直、めちゃくちゃドキドキしてる」
下手に誤魔化すと、亜梨栖がもっと過激な行動をするかもしれない。
そう思って素直に感想を口にすれば、白磁の頬に朱が混じり、唇の端が緩んだ。
「なら、今日の所は許してあげます」
悟の返答に満足したのか、あっさりと亜梨栖が悟の上から退く。
「はいよ。それと、明日からはあんな起こし方は止めるように」
起こすなと言うつもりはないが、毎日あんな起こされ方は遠慮したい。
決して嫌ではないものの、あまりに刺激が強すぎる。
ベッドから体を起こしつつ告げるが、亜梨栖はどこ吹く風だ。
「じゃあこれからは、重くならないように兄さんに乗りますね」
「結局乗ってるじゃねえか」
どうやら、意地でも悟の上に乗って起こしたいらしい。
気遣いに感謝すればいいのか、止めない事に呆れればいいのか分からない。
がっくりと肩を落とす悟とは反対に、亜梨栖は機嫌良さそうに銀糸を靡かせてリビングへ向かうのだった。
「昨日はすみませんでした」
朝の支度を終えて朝食を摂っている最中、亜梨栖が唐突に頭を下げた。
抽象的過ぎて一瞬だけ分からなかったが、すぐに何を言っているのか思い当たる。
「気にすんなって。というか、俺の方こそ勝手に部屋に入ってごめんな」
リビングに寝かせるならまだしも、無断で自室に入ったのだ。
どんな理由があれ、悟は怒られなければならない。
しかし、亜梨栖は穏やかな微笑を浮かべて首を振る。
「私を運んでくれたんですし、兄さんが謝る必要はありませんよ。というか普段から許可なんて要らないです」
「いや、そこは気にしてくれ」
いくら幼馴染とはいえ、女性の部屋に男性が無断で入るのはいかがなものかと思う。
苦言を呈すが、亜梨栖はほんのりと呆れた顔を浮かべた。
「私だって勝手に兄さんの部屋に入ってるんですから、お相子だと思いますが」
「男と女は別だろ。と言う訳で、これからも入るときは許可をもらうからな」
「律儀ですねぇ。私としては勝手に入られても構いませんが、分かりましたよ」
やれやれと嘆息しつつ、亜梨栖が納得の意を示す。
どれだけ亜梨栖が良いと言おうと、譲るつもりはない。
しっかりと折り合いをつければ、なぜか彼女の顔にほんのりと赤みが差した。
「それと、変な寝顔じゃなかったですか?」
「いや、別に。綺麗な寝顔だったぞ」
気持ち良さそうな寝顔、というだけでなく、あまりにも綺麗過ぎて触るのを躊躇う程だった。
昨日は仕方なく運んだし、すぐに去ったものの、ずっと見ていたいと思ったほどだ。
そこまで褒めるのは流石にマナー違反なので簡潔に告げれば、亜梨栖が耳まで真っ赤にしつつ、口をもごもごさせる。
「……そうですか」
「まあ、見てしまったのは許してくれ」
「怒ってなんていませんよ。というか、私に怒る資格はありません」
「そう言ってくれると助かる」
寝顔を見た件で怒られるかと思ったが、そこは冷静な判断をしてくれたらしい。
胸を撫で下ろし、朝食を平らげる。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした。もう家を出る時間でしょう? 食器は後で私が運びますので、置いておいてください」
「ありがとな、アリス。それじゃあ行ってくる」
朝からちょっとした事件はあったものの、至れり尽くせりな事にお礼を言い、傍にあった鞄を掴んで玄関へと向かう。
そんな悟の後ろを、朝食をそのままにして亜梨栖がついてきた。
わざわざ見送る必要はないのだが、おそらく言っても聞かないだろう。
明日からもう少し早く起きて、亜梨栖が食べ終わるまで待とうと思いつつ靴を履いた。
玄関の扉を開けると、鈴を転がすような声が聞こえてくる。
「行ってらっしゃい。兄さん」
「……行ってきます」
亜梨栖には朝食を優先して欲しいが、それはそれとして誰かに見送ってもらえるのは嬉しい。
せめてものお礼として、しっかり返事をして家を出るのだった。




