第25話 最初の誘惑
風呂場で悩みはしたが、どうやって亜梨栖にも寛いでもらうか、という問題に答えは出なかった。
のぼせてしまいそうだったので、思考を打ち切って風呂から上がる。
「次どうぞ」
「分かりました」
リビングのソファに座っている亜梨栖に声を掛ければ、彼女が立ち上がった。
何も持たずに風呂へ向かうので、着替えはどうするのだろうかと首を捻る。
ただ、亜梨栖も忘れてはいないようで、すぐに戻ってきた。
なぜかその手にドライヤーを持って、リビングに置いているクッションの前に座る。
「さて兄さん。私の前に座ってください」
「……はい?」
訳が分からず呆けたような声を出すと、亜梨栖が不満そうに眉を下げた。
早くしろと言わんばかりに、クッションをぽすぽすと叩く。
「だから、座ってくださいって言ってるんです」
「一応聞くが、何をするんだ?」
「それはもちろん、兄さんの髪を乾かすんですよ」
ドライヤーを持っているので、何となくは予想していた。
しかし悟は髪を伸ばしておらず、前髪が眉に掛かったくらいの長さにしている。
そんな髪など、わざわざドライヤーを使う必要もない。
「いや、自然乾燥でも何とかなるんだが」
「私がしたいんですよ。駄目ですか?」
「……もしかして、それが今日の誘惑か?」
「ええ。今日はこれだけです」
誘惑、というよりは奉仕になっているのだが、風呂に入る前に言っていた「寛いで欲しい」という願いからだろう。
この程度のスキンシップなら、悟の心臓も虐められないはずだ。
「分かった。それじゃあ、よろしく頼む」
「はい。任せてください」
亜梨栖の傍へ行き、背を向けて座る。
すぐにドライヤーから温かい風が流れてきた。
細い指先が、割れ物を触るかのように優しく髪に触れる。
「これくらいの力加減で良いですか?」
「もうちょっと力を入れていいぞ。気を遣い過ぎた」
「分かりました」
亜梨栖の手つきが少しだけ力強くなり、温風と合わせて髪が乱れる。
しかし決して乱暴ではなく、むしろ程よい雑さが気持ち良い。
(というか、眠くなりそうだ……)
晩飯で腹が膨れ、風呂で体が温まった所にこの奉仕だ。
先程まであれほど亜梨栖を警戒していたにも関わらず、凄まじい眠気が襲ってくる。
抗うつもりだったのだが、いつの間にか落ちていたらしい。
ガクリと頭が揺れ、その衝撃で目を覚ました。
「ふふ。気持ち良かったみたいですね」
「……すまん」
からかうような、けれど嬉しさを混ぜ込んだ笑い声が悟の羞恥を炙る。
亜梨栖が後ろに居るので、熱くなった頬を見られないのは幸いだ。
「謝らないでください。誰かに髪を乾かしてもらうって、気持ちが良いですからね。眠くなりますよ」
「まあ、そうだけどさ」
実家に居た頃は彩に手間を掛けさせては駄目だと思ってねだらなかった事もあり、悟には誰かに髪を乾かしてもらった記憶がない。
物心つく前は流石に乾かしてもらっていたと思うが、その感覚などとっくに無くなっている。
そして、記憶にすらない久しぶりの感覚は本当に心地が良く、恥ずかしくはあるものの、間違っても否定は出来ない。
渋面を作って頷けば、髪が乾いたのかドライヤーが止まった。
「はい、おしまいです。お気に召したようで何よりですよ」
「ありがとう、アリス。俺は気持ち良かったけど、アリスに得がなくてごめんな」
「何を言ってるんですか? 昔とは逆の立場でしたが、私も楽しかったですよ」
「……そうか」
とろりと幸せが滲み出て生まれたようなはにかみからは、嘘など言っていない事が分かる。
あまりにも純粋な好意をぶつけられ、背中がむず痒くなった。
ふいっと視線を逸らすと、悟の内心を見抜いたのか、亜梨栖がくすくすと軽やかに笑う。
何とか話を逸らそうと思考を巡らせれば、先程の亜梨栖の言葉を思い出して、昔の光景が頭に浮かんだ。
「昔は俺がアリスの髪を乾かしてたんだっけ。懐かしいな」
悟は三城家で過ごす事が多く、亜梨栖を風呂に入れる事もあった。
流石に彼女が小学生に上がってからは一緒に入る事も無くなったが、代わりに髪を乾かすのは続けていたのだ。
亜梨栖も昔を懐かしんだのか、微笑みに哀愁を混ぜる。
「ですね。兄さんの手、気持ち良かったですよ」
「その言い方は誤解を招くから」
「嘘は言ってませんよ?」
明らかに勘違いさせるような口ぶりに苦言を呈せば、小悪魔の微笑が返ってきた。
油断も隙もないと、苦笑気味に溜息を零す。
「全く……。ほら、風呂に入ってこい」
「はぁい」
亜梨栖がドライヤーを持って立ち上がった。
もう悟が使う理由はないので、元の場所へ戻しに行くのだろう。
しかし、そのドライヤーにはまだ用がある。
「ちょっと待った。ドライヤーを貸してくれないか?」
「え? 何に使うんですか?」
「そりゃあドライヤーと言ったら髪を乾かす物だろ?」
「ですから――。あぁ、そういう事ですか。本当に優しいですね、兄さんは」
悟のやりたい事をあっさりと察し、亜梨栖が仕方ないなぁという風な笑みを浮かべた。
「さっきのは兄さんを誘惑する為だったんですよ? お礼なんていいんですが」
「俺がそうしたいんだよ。それに、お返しをしたら駄目だって決めてはいないだろ?」
決して世間体という壁が砕かれた訳ではない。それでも、お礼をするくらいは許されるはずだ。
屁理屈を捏ねると、亜梨栖は苦笑しながら納得する。
「分かりましたよ。期待してますね」
亜梨栖が一度自室へと戻り、パジャマ等を持って風呂場へ向かう。
視線を向けていると見ては駄目な物まで見てしまいそうで、ソファに座ってスマホを弄る。
脱衣所から物音がし、すぐにシャワーの音が耳に届き始めた。
「……やっぱり、これは慣れないな」
先日は亜梨栖が風呂に入っていただけで、悟の胸がざわついたのだ。
しかも、今日は彼女が悟への好意を持っていると知ってしまっている。
そんな状況で落ち着けるはずもなく、シャワーの音が聞こえないようにベランダへと向かった。
春の空気になりきれない、ほんのりと暖かい夜風が悟の頬を撫でる。
「癒し、ねぇ」
悟を癒したい、というのが亜梨栖の願いだったし、実際に眠ってしまう程に髪を乾かしてもらうのは気持ちが良かった。
ただ、彼女が尽くしてくれているのは、恋人になる為だというのを忘れてはならない。
つまり、このままずるずると引き延ばせはしないのだ。
それを頭で理解していても、毎日亜梨栖に髪を乾かして欲しいと心のどこかで思ってしまっている。
「……駄目じゃねえか」
ほんの僅かな誘惑であっさりとぐらついた意思に、大きく肩を落とすのだった。




