第24話 宙ぶらりんな心
「さてと、そろそろ帰りましょうか」
亜梨栖との距離が近過ぎて固まっていると、彼女は悟の脇を通り過ぎていった。
「お、おう」
先程の一幕など無かったかのように振る舞う亜梨栖に、戸惑いを隠せない。
頭に困惑を浮かべつつ、機嫌良さそうに揺れる白銀の髪を追いかけ、一緒に公園を出る。
その後、亜梨栖からのアクションがあるかと思ったが、拍子抜けな程に何もなくあっさりと家に着いた。
「ただいま」
「お帰りなさい、兄さん」
「アリスも、お帰り」
「ただいまです」
昼も行ったやりとりではあるが、亜梨栖はふわりと柔らかな笑みを浮かべる。
嬉しさを滲ませたような笑みに心をくすぐられて、気を紛らわせるように手洗いとうがいを行った。
そのまま浴槽にお湯を張ろうと思ったのだが、亜梨栖が風呂場への道を通せんぼする。
「これからは私にさせてくれませんか?」
「どうせスイッチを押すだけだし、どっちがやっても変わらないと思うんだが」
「いいえ、変わるんです。という訳でやりますね」
悟の返事も聞かず、亜梨栖がスイッチを入れた。
アナウンスの後に、お湯がゆっくりと浴槽へ溜まっていく。
たったそれだけの事なのに、亜梨栖は嬉しそうに破顔した。
「お湯が溜まるまでやる事はありますか?」
「いや、別に」
「ならゆっくりしましょうか」
昔のように悟を振り回し、けれど昔と違って大人びた笑みを浮かべ、亜梨栖がリビングに向かう。
妙な懐かしさを感じ、苦笑しながら後を追う。
亜梨栖はソファの端に座ると、スマホを触り始めた。
取り敢えず悟も端に座って様子を窺うが、彼女の態度はこれまでと全く同じだ。
「……何もしないのか?」
公園での宣言とあまりにかけ離れた態度に、つい疑問が口から出た。
悟の言葉が意外だったのか、亜梨栖が大きく瞳を数回瞬かせて悪戯っぽく微笑む。
「何かして欲しいですか?」
「それは、その……」
亜梨栖の口から出た質問の仕返しに、唸る事しか出来ない。
散々亜梨栖を振った挙句、誘惑を期待するなど最低の人間だ。
しかし「何もしないで欲しい」とも言えなかった。
胸に渦巻く感情が複雑過ぎて整理しきれずに居ると、亜梨栖の口からくすりと小さな笑みが零れる。
「安心――と言えばいいのかは分かりませんが、まだ何もしませんよ」
「そう、なのか」
「そうです。……というか、私がやり過ぎたせいで勘違いしてませんか?」
「勘違いって何だ? これから一週間、俺は耐えればいいんだろ?」
亜梨栖はこれから誘惑すると宣言したのだ。身構えて当然だろう。
何もおかしな事を言っていないはずなのに、彼女は重い溜息をついた。
「……これは私の説明不足ですね。すみません」
「いきなり謝られても訳が分からないんだが」
「確かに私は兄さんを誘惑します。ですが、大前提としてここは兄さんの家です」
「アリスの家でもあるけど」
もう亜梨栖は引っ越してきたのだ。ここは悟だけの家ではない。
自分の家と同じように思って欲しくて指摘すれば、形の良い眉が不満そうに歪んだ。
「それは分かってます。茶々を入れないでください」
「すみません」
「もう、話が逸れちゃったじゃないですか。それで、ですね。兄さんの家である以上、ここは兄さんが穏やかに暮らせる場所であるべきなんです」
「……まあ、家ってそういうものだしな」
家の中というものは、住んでいる人が寛げる場所だ。
そうでなければ、その人が体と心を癒す場所が無くなってしまう。
悟とてそれくらい分かっていると口にすれば、亜梨栖の瞳に呆れの色が浮かぶ。
「では、今の兄さんは穏やかに暮らせてますか?」
「それ、は……」
悟は先程から亜梨栖に何かされるのではないかと警戒し続けていたのだ。
言われてみれば、穏やかには暮らせていないだろう。
口ごもる悟を見て、亜梨栖が不服そうに腰に手を当てる。
「でしょう? 平穏を乱した私が言うのは説得力がないと思いますが、私は兄さんを癒したいんです。負担を掛けたい訳じゃありません」
「癒すって……」
癒される程に毎日の生活が苦しい訳ではいないのだが、亜梨栖の言いたい事は何となく分かった。
おそらく、変に警戒せず気楽に過ごして欲しいのだろう。そして、会社生活の悟を支えたい。
優しい亜梨栖らしい言い回しにくすりと笑みが零れ、少しだけ肩の力が抜ける。
「まあ、少々強引な事をするかもしれませんが、最初から飛ばしていては兄さんが疲れてしまいます。私はそんな事望んでないんですよ」
「強引な事もするんじゃねえか」
「兄さんの考えを変える為ですからね。でも、それは今じゃありません」
やはり警戒すべきかと身構える悟を見つつ、亜梨栖がゆっくりと首を横に振った。
「ですから、今日はあと一つだけさせてください。それで終わりにします」
「その内容は?」
「今言うのは楽しみがなくなるので、お風呂上がりに言います」
「……分かった」
誘惑される回数を知れるというのは、悟の精神に非常に優しい。
もったいぶった言い方は気になるものの、先程の言い方からすると大変な事にはならないはずだ。
取り敢えずは一安心だと胸を撫で下ろせば、風呂場から電子音が届いた。
「ちょうどお風呂も沸いたみたいですし、ゆっくり温まってきてください」
「なら、お言葉に甘えさせてもらおうかな。ありがとう、アリス」
悟が後に入る事は、選択肢にすら挙がらないらしい。
この優しさを忘れないようにしようと誓いつつ、風呂場へ向かう。
普段の流れのままに服を脱ぎ、風呂場に入って体を洗う。
しっかりと洗い終えてから、肩まで湯に浸かった。
「あ゛ぁ~」
今日の肉体労働といえば荷解きくらいで、散歩は運動にすらなっていない。
それでも、お湯の温かさが体に染み渡るようだ。
おそらく、精神も疲労しているからだろう。
「……ホント、今日だけで随分変わったな」
幼馴染と一緒に暮らすだけなら、まだ良かった。
なのに思いきり好意をぶつけられ、世間体を壊すと宣戦布告をされたのだ。
しかも誘惑するだけでなく、悟の事を最大限に慮ってくれている。
ならば、悟も甘えてばかりではいけない。
「アリスばっかりが頑張るのは、駄目なんだから」
誘惑に気負わず、家の中で寛いで欲しいという亜梨栖の願い。
それを受け入れるだけでは、彼女が疲れてしまうだろう。
何も伝える気がないくせに、何を考えているのかと自分自身に呆れる。
しかし、本音を伝えるかどうかは別として、亜梨栖にとってもこの家は寛げる場所であって欲しいのだ。
「難しいもんだなぁ。社会人失格だよ」
宙ぶらりんな自分の心に悪態をつきつつ、亜梨栖の誘惑に耐えながら何か返せないかと考えを巡らせるのだった。




