第23話 始まり
「……ごめん」
亜梨栖の想いは十分に伝わってきた。
頷けば、悟は幸せな生活を送れるだろう。
再会してから一緒に過ごした時間は短いが、確信を持って言える。
それでも、決して受け入れる事は出来なかった。
「まあ、そうなりますよね。ではそんな兄さんの壁を壊していきましょうか」
亜梨栖は二度振られたにも関わらず、あっけらかんという風な態度だ。
「言いたくなかったら言わなくていいですからね。何が問題なんですか? 年齢ですか?」
「……そうだ。社会人と高校生が付き合うなんて、犯罪だろ」
少なくとも、世間からは不純異性交遊と見られるはずだ。
これからは亜梨栖の親代わりとして奏の許可を得て家に住まわせるが、恋人となると話は変わってくる。
ただ、彼女はあまり問題と思っていないようで、静かな微笑を浮かべていた。
「この世には十歳差の夫婦もいますよ。それに比べたら、七歳差なんて大した事ないです。因みに、私の知り合いには成人してる大学生と付き合ってる人もいますよ」
「……それは学生同士だからだ」
大学生でも危険な気がするが、あくまで学生同士ならば大丈夫なのかもしれない。
残念ながら悟の大学時代の友人にはそういう人が居なかったので、詳しい事は知らないのだが。
曖昧な事を言っては付け込まれると思い、きっぱりと断言した。
「誰にも言わずに先生と付き合い、その後結婚した高校生の話も聞きますが」
「そういう話があるからって、俺と付き合うのが許される訳がないだろ。ただでさえ一緒に住むんだし、危険が多すぎる」
「一緒に住む事に関してはお母さんが承諾してますし、学校の規則で縛られてもいません。親の許可が出れば割と自由なので」
「……まあ、家庭環境に問題がある生徒も居るだろうからな」
亜梨栖の通う星爛高校がというよりは、校則で縛ってしまうと、どんなに家庭が崩壊していようと親の元で過ごさなければならなくなる。
悟の通っていた高校でも、流石にそんな無茶苦茶な校則はなかった。
そして、ある意味では亜梨栖はその穴を突いた形になる。
「なら、一緒に住んでる私達がどんな関係かなど、黙っていればバレないと思いませんか?」
「そういう考えが危険なんだ。というか、それだと付き合っても一緒に外で遊べないんだぞ?」
これから亜梨栖を住まわせる悟には、家に関してのこれ以上良い反論が思いつかない。
狡く卑怯ではあるが、話を少し変えさせてもらった。
この周囲にはほぼ居ないはずだが、外でデートするとなれば亜梨栖と同じ星爛の人と出会うだろう。
そうなると、いくら親の許可が出ており、校則で縛られていないとはいえ問題になるはずだ。
女性としてデート出来ないのは大問題ではないかと思ったものの、亜梨栖はくすくすと冗談めかすように可愛らしい微笑みを落とす。
「それこそ昔からの幼馴染という体を取れば良いじゃありませんか。幼馴染と出掛けるのが駄目だというルールはありませんよ。まあ、あのラーメン店の人は恋人と勘違いしましたけどね」
「そうだった……。まあ、あそこはまだ言い訳も出来るし、何とかなる」
ラーメン店に関しては悟がまだ何も答えていないので、どうとでも誤魔化せる。
とはいえ、次に行く際は間違いなく揶揄われるだろう。
あの件に関してはその程度で済むだろうが、現実はそう甘くないのだ。
「……でも、その言い分じゃあ全ての人を納得させられない。少しでも後ろめたい事を見つければ、人はそこに付け込む」
昔からの知り合いとなれば、親密な関係でもおかしくはない。
そして家に関しては基本的に黙っており、バレた所で親の許可を得ているので大丈夫。
確かに亜梨栖の言い分だと文句を言われる筋合いはないが、それでも非難するのが人間だ。
「ましてや、アリスは美人になったんだ。そんな人が社会人と同居というだけで、非難されるには十分なんだよ」
同居を受け入れておいて今更だが、正直なところ悟はかなり危険な橋を渡っている。
それでもまだ大丈夫だと言えるのは、奏の許可があるのと、悟と亜梨栖がただの幼馴染だからだ。
その前提が覆ってしまえば、叩けば叩くだけ埃が出て来てしまう。
大前提としての容姿を褒めれば、亜梨栖が頬を僅かに朱に染めた。
「……いきなり褒められると反応に困るんですが」
「すまん」
妙な空気になったのを、咳払いで誤魔化す。
「取り敢えず、今が本当にギリギリなんだ。付き合うのは絶対に許されない」
「問題ないと言っているのに、本当に強情ですねぇ」
亜梨栖が分かりやすく呆れたように目を細め、肩を落とした。
悟とて、屁理屈を捏ねているという自覚はある。
それでも、世間体というのは悟の本音を隠す良い理由になるのだ。
最低な大人だと内心で自虐しつつも、話を平行線にしてこれ以上進めなくする。
「……そうやって、世間体で本心を誤魔化すんですから」
「っ!?」
薄い笑みが、鋭く細められた瞳から発せられる視線が、鋭い棘となって悟の胸へと突き刺さった。
建前すら完璧に見透かされた事に、びくりと体を震わせてしまう。
付け込まれるかと思ったが、亜梨栖は吐息と共に小さく笑みを零して首を振る。
「まあいいです。それじゃあ、宣戦布告させてもらいますね」
「宣戦、布告?」
「ええ。五年間頑張って、根回しして、一緒に暮らす所までようやく来れたんです。まずはこの一週間で、兄さんの考えを変えてみせましょう」
「具体的に、どうするんだ?」
明らかに強引だった同居の理由から、そして亜梨栖の内心から目を逸らしているうちに、悟は罠に掛かっていたらしい。
そして、これからは明らかに普通ではない事が起きるだろう。
おそるおそる内容を尋ねれば、亜梨栖は悪戯っぽく、けれど確かな決意を滲ませた笑顔を浮かべた。
「それはもちろん、誘惑するんですよ。全力で、ね」
同じ家で生活する以上、どうしても亜梨栖との時間は増えてしまう。なので、誘惑からは絶対に逃げられない。
悟が夜遅くに帰って亜梨栖との時間を減らすというのも一瞬だけ考えたが、即座に頭から叩き出した。
それは、ずっと好意を持ってくれていた亜梨栖を侮辱する行いなのだから。
少なくとも五年前に一度逃げた悟には、その選択肢は許されない。
「分かった。なら、一つだけお願いがある」
「何でしょう?」
「自分を取り繕う事だけはしないでくれ。……俺に気に入られる為に、無理だけはしないでくれ」
一番伝えるべき事を伝えていない悟に、こんな事を言う資格が無いのは十分に理解している。
それでも、本来の亜梨栖を捨ててまで誘惑されたいとは思わない。
一方的に告げるのが申し訳なくて、拳を力強く握り締める。
顔を俯ければ、安堵したような、呆れたような溜息が耳に届いた。
「この状況で私の心配ですか? 本当に、優し過ぎますよ」
「そんな事はない。俺は、アリスに好かれるような人じゃないんだ」
「違います、と兄さんの本心を知らない私が言う権利はありませんね。でも、どれだけ兄さんが悪人でも、私は兄さんが好きですよ」
「……」
眩しい程に真っ直ぐな好意は、本来温かなもののはずだ。
しかし、今の悟にとっては鋭い刃物と同じ鋭さを持っており、胸に深く突き刺さる。
再び断ると亜梨栖を傷付けてしまいそうで、けれど他にどう返せばいいか分からなくて、言葉が出ない。
口を噤んで固まっていると、亜梨栖が「ああ、それと」と明るい声を発した。
「私からもお願いがあります」
「……何だ?」
悟が先にお願いしたのだ。亜梨栖のお願いは聞かなければならない。
不安を覚えつつも頷けば、彼女の瞳に悟への気遣いの色が浮かんだ。
「私のやる事に、罪悪感を覚えないでください。何も言えない自分を責めないでください。私は、私がやりたいと思ったからやるんです。兄さんが気に病む必要はないんですよ」
「優しいのはどっちだよ……」
今回の件は、明らかに亜梨栖の負担が大き過ぎる。
しかも、悟は未だに隠し事をしているのだ。
それを彼女は分かっていながら、それでも構わないと、悟に苦しむなと懇願してきた。
悟などよりも余程優しい少女に、自分の惨めさを見せつけられた気がして、ぐしゃりと前髪を潰す。
ただ、ここでうじうじと悩んでいては、亜梨栖を心配させてしまう。
表面だけでも取り繕おうと、一度だけ唇を噛んで笑顔を作った。
「ありがとう、アリス。でも、絶対に考えは変えないからな」
「なら、私も改めて宣言しましょう。これから貴方を――私の大好きな松原悟さんを――誘惑します」
本当なら「何を馬鹿な事を言ってるんだ」と大人として怒鳴らなければならない。
それが出来ない情けなさに、下を向きそうになる。
しかし、亜梨栖に気に病むなと願いされたのだ。
必死に顔を上げていると、銀色の少女がゆっくりと近付いてくる。
ゾッとする程に澄んだルビーの瞳に見つめられ、糸に絡め取られたかのように体が動かせなくなった。
「覚悟、してくださいね?」
お互いの吐息すら顔に掛かりそうな距離で、亜梨栖が妖艶に微笑んだ。
シトラスの香りがふわりと香り、悟の理性が一瞬だけぐらつく。
先程固めたはずの決意が、あっさりと崩されそうな気がしたのだった。




