第21話 引っ越し疲れ
亜梨栖の下着で動揺する、というアクシデントはあったものの、晩飯の前には荷解きを終える事が出来た。
部屋の整頓も終わったらしく、今は彼女もリビングに居る。
とはいえ、ソファの端と端でお互いにスマホを弄っているだけなのだが。
どうでもいいニュースをテレビで流しつつ時刻を確認すれば、良い時間だ。
「アリス、お腹は空いてるか?」
「……」
悟の腹が減っているからと、亜梨栖の事を考えずに料理させたくはない。
なので腹の調子を尋ねたのだが、何の反応も返ってこなかった。
不思議に思って彼女の方を向くと、その理由が一瞬で理解出来た。
「……まあ、無理もないよな」
一時間半の移動に荷解き、部屋の整頓と大忙しだったのだ。
ひと段落ついたとこで、眠気が襲ってきたのだろう。
男の前で寝るのは無防備だと思うが、ここはもう亜梨栖の家なのだから、寝るなとは言えない。
「ホント、可愛く――というか綺麗になったよなぁ」
ルビーのように輝く瞳は、今は長い睫毛に覆われていた。
普段は澄ましたような無表情だが、今は無垢な子供のような寝顔で、起きている時とは違って年齢よりも幼く見える。
規則正しい吐息によって形の良い胸が上下しているのが見えて、慌てて目を逸らした。
「なら、久しぶりに料理しますかね」
亜梨栖は毎日料理すると宣言していたが、彼女が起きるまでただ待つのは申し訳ない。
それに一緒に買い物へ行ったので、何を作るのかは分かっている。
また、彼女曰く料理の師匠は悟らしい。
ならば、師匠として少しは良い所を見せなければ。
音を立てずにソファから立ち上がり、キッチンへと向かった。
キャベツを取り出し、細かく刻んでいく。
「……ん」
音を立てているので起きないか心配だったが、亜梨栖はもぞりと動いただけで起きる気配はない。
すぐに千切りを終え、次はすりおろした生姜を醤油、砂糖、みりんと混ぜ合わせる。
たれが出来たら、いよいよ肉だ。
大きめの豚肉を冷蔵庫から取り出し、片栗粉をまぶして両面をしっかり焼く。
「……こうしてちゃんと料理するのは久しぶりだな」
自炊は面倒臭く、この一週間でさえ亜梨栖の作り置き以外はコンビニ飯だった。しかし、今はやる気に満ちている。
その理由は、食べてくれる人が居るからだろう。
自分だけが食べるのならとことんなまでに適当になってしまう性格に、苦笑を零す。
「よし、後はたれを入れて、しっかり馴染ませてと」
白米は事前に予約炊きしておいたので、既に出来ている。
そして、料理の方も完成した。
豚肉の生姜焼きを皿に盛り付け、出来るだけ音を立てずにテーブルへ置く。
白米を茶碗によそい、作り置きをしておいたお茶を持ってきて準備も完了だ。
多少音を立てたものの、アリスは未だに眠りの海を彷徨っているらしい。
出来る事ならぐっすり寝かせてあげたいが、流石に起こさなければ。
「アリス、起きてくれ」
どこに触れるか一瞬だけ迷ったが、華奢な肩に触れて軽く揺さぶる。
昔からの体質が直っていなければ、声を掛けた程度では起きないはずだ。
悟の予想通り、亜梨栖の瞼は開く気配がない。
「一度寝ると起きにくいのは変わらずか。これでよく俺を起こせたよなぁ……」
先日は悟よりも遅く寝たはずだが、おそらく頑張って起きたのだろう。
次からは悟が起こすべきかと思いつつ、少し強めに肩を揺さぶる。
ベッドで寝る時より眠りは深くなかったようで、ゆっくりと深紅の瞳が見えていく。
寝起きで潤んだ瞳はあまりに綺麗で、吸い込まれてしまいそうだ。
「おはよう、アリス」
「……ぉ」
「寝起きにぼんやりしてるのも変わらないな。おーい」
「おにぃちゃん、だぁ……」
人形のように整った顔が、一瞬でとろりと蕩けた。
敬語が抜けている事から察すると、完全に寝ぼけているのだろう。
嬉しさを全力でぶつけるような笑みに、悟の心臓が跳ねた。
「えへへー。おにいちゃんー」
ふにゃふにゃと緩みきった笑顔を浮かべ、亜梨栖が抱き着こうとする。
「おっと」
甘やかしたくはあったが、心を鬼にして亜梨栖から距離を取った。
拒絶されるとは思っていなかったのか、端正な顔がみるみるうちに曇っていく。
「なんでぇ……? わたしのこと、きらいなの……?」
「嫌いじゃないから」
「じゃあ、ぎゅー、してぇ?」
「残念だけど、それも駄目だ。そろそろちゃんと起きろって」
この様子からすると、優しい性格だけでなく甘えたがりも変わっていないようだ。
おそらく、心の底では今でも悟との触れ合いを望んでいるのだろう。そうでなければ、こんな態度にはならない。
しかし、もうべたべたとくっつくような歳ではないのだ。
なぜくっつこうとするのか、という理由から目を逸らし、透けそうな程に白い頬へ手を伸ばす。
滑らかな感触から意識を逸らしつつ音すら鳴らない程度の力で叩けば、少しずつ亜梨栖の瞳に意思の光が宿り始めた。
「……え?」
「よし、ちゃんと起きたな。改めておはよう、アリス」
「え、あ、あれ?」
困惑する亜梨栖から、ゆっくりと距離を取る。
先程までの自分の言動を眠気で忘れられるなら、どれだけ良かっただろうか。
しかし、亜梨栖は寝ぼけている時の事もしっかり覚えているタイプだ。
ようやく思考が回転し始めたようで、彼女の頬が火が出そうな程に真っ赤に染まった。
頬を両手で抑え、思いきり俯く。
「あ、あ、あぁぁぁぁ……」
「アリスには悪いけど、もう飯が出来てるんだ。食べるか?」
「…………!」
白銀の髪が靡く程に勢いよく首が振られたので、受け答えすら出来ない状況らしい。
それどころかリビングにすら居られないようで、耳まで真っ赤にしつつ立ち上がった。
くるりと身を翻し、整頓したばかりの自室へと駆け出す。
バタリと扉が閉まり、亜梨栖の姿が見えなくなった。
「どうしてあんな事を言っちゃったのぉ!? まだ言うつもりなんて無かったのにー!」
おそらくベッドに顔を埋めて叫んだのだろう。声がくぐもっており、後半部分から声が小さくなったので、よく聞こえなかった。
それでも、先程の一部始終を後悔しているのは分かった。
亜梨栖が恥ずかしいのは十分に理解しているが、このままでは飯が冷えてしまう。
温めなおすべきかと思考していると、亜梨栖の自室の扉が壊れたかのようにゆっくりと開いていく。
「……」
僅かに空いた扉の隙間から、少しずつ亜梨栖の顔が見えるようになる。
その顔は、逃げ出した時の赤みが少しも引いていない。
流石に指摘するような野暮な事はせず、微笑みを向けた。
「飯、食べれるか?」
「……食べます。折角作ってもらったご飯が冷えるのは駄目なので」
亜梨栖の中では、自身の羞恥よりも悟の作った晩飯の方が優先度が高いらしい。
リビングの椅子に座って待っていると、警戒する猫のようにおそるおそる亜梨栖が近付いてきた。
視線を合わせようとしない彼女に小さな笑みを零しつつ、手を合わせる。
「「いただきます」」
少し冷えてしまったが、生姜焼きの出来は悪くない。
豚の肉汁と甘辛いたれが、ご飯を掻き込めと催促してくる。
欲望の赴くままに口に含めば、生姜焼きを食べた亜梨栖がぽつりと呟く。
「……おいしい、です」
「そりゃあ良かった。大した事はしてないけどな」
「そんな事はありません。私の大好きな、兄さんの味です……」
甘えてしまった恥ずかしさと、懐かしい味を味わえた嬉しさ。
寝起きから感情がジェットコースターのように揺さぶられたらしい。
俯いている亜梨栖の頬に、雫が流れる。
「本当は私が作らなきゃいけなかったのに、こんなのずるいです」
「持ちつ持たれつってやつだよ。偶には俺にも作らせてくれ」
「……考えておきます」
唇を尖らせつつも、亜梨栖が生姜焼きを早いペースで食べていく。
やはり食事を作るなら食べてくれる人が居た方が良いと、改めて思うのだった。




