第18話 ただいま
あっという間に日曜日となったが、悟は未だに心の整理をつけられずにいた。
それは今も例外ではなく、引っ越し業者がバタバタと忙しなく部屋を往復する中、ソファに背を預けて唸っている。
「もう少しでアリスが来るってのに、何やってんだ社会人……」
大学や会社生活で、決断力というものは養えたはずだ。
しかし彩のお願いも含めて、今回の件に関しては全く心が決まっていない。
彩と奏に「本当にしたい事をしていい」と言われた所で、吹っ切れる程簡単な事でもないのだから。
「……取り敢えず、出来るだけ幼馴染として振る舞おう」
先日、たった一日一緒に過ごしただけであっさりと心を乱されたのだ。
おそらく、こんな薄っぺらい覚悟などすぐに砕け散るだろう。
それでも、何も心構えをしないよりは良いはずだ。
はあと溜息をつきつつ、ソファから立ち上がって引っ越し業者の作業を眺める。
それほど時間を掛ける事なく業者が去っていき、その一時間後、本日二度目のインターホンが鳴った。
「はいはい、今開けますよっと」
投げやり気味な言葉を零し、エントランスのオートロックを開ける。
ソファに戻って心を静めていると、今度は玄関の呼び鈴が鳴った。
オートロックもそうだが、鍵は渡しているので悟が開けずとも入れるはずだ。
しかし「早く出ろ」と言わんばかりに二度目の呼び鈴が鳴る。
「分かった、分かったって」
律儀なのか、それとも別の意図があるのか。何にせよ悟には分からない。
呆れ気味に溜息をつきつつ、玄関の鍵を開ける。
すると一週間前に巻き戻ったかのように、視界が黒い日傘で埋め尽くされていた。
「……アリス?」
ゆっくりと閉じていく日傘。反対に、少しずつ見え始める白銀の髪を持つ少女。
全て同じかと思ったが、人形のように整った顔は柔和な表情だった。
「こんにちは、兄さん」
昔のように天真爛漫ではないものの、悟に会えた嬉しさがはっきりと分かる微笑。
そんなものを会ってすぐにぶつけられて、悟の心臓がどくりと鼓動した。
さっきまでの覚悟は何だったのか、と内心で呆れつつも頬を緩める。
「こんにちは、アリス。上がってくれ」
「はい。お邪魔し――」
亜梨栖が靴を脱ぐまで待とうと思っていたのだが、唐突に彼女の声が途切れた。
不思議に思って首を傾げれば、顎に手を当てて何かを考え始める。
「どうした?」
「私、今日からここに住むんですよね?」
「まあ、そうだけど」
取り敢えず一週間はお試し期間なのだが、亜梨栖が住むのには変わらない。
余計な茶々を入れずに頷くと、透き通った深紅の瞳が楽し気に細まった。
「でしたら、こう言うべきですよね。――ただいま、兄さん」
「……」
頬をうっすらと赤らめた、可愛らしさを詰め込んだ笑顔。
そして、客ではなくここが帰る家だと宣言する言葉に、胸が締め付けられる。
呆けたように見つめていると、亜梨栖がくすくすと軽やかに笑った。
「ぼうっとしてどうしたんですか? 挨拶が無いとちょっと悲しいです」
「え!? あ、あぁ、ごめん」
言葉とは裏腹に表情は緩んだままなので、少しも悲しんでいないはずだ。
何だか手玉に取られている気がして、首を振って思考を再開させる。
「おかえり、アリス」
この家でそう口にするのは初めてなのに、不思議と違和感はなかった。
けれど亜梨栖の笑顔が眩し過ぎて、彼女の顔を見るのが辛い。
何とか靴を脱ぐまで見守り、すぐに回れ右をする。
「ただいま。……ただいまです、兄さん」
後ろから聞こえた、歓喜がこれでもかと込められつつも少し震えた声。
それにどう反応すればいいか分からず、逃げるようにリビングへ向かうのだった。
すぐに荷解きをするかと思ったが、どうせ春休みで時間はあるとの事で、急いではいないらしい。
移動の疲れを癒すため、亜梨栖はリビングで寛いでいた。
「折角だし、今のうちに詳細を決めておくか」
「何の詳細ですか?」
「お試し期間のだよ」
自室はお互いあるし、ずっと一緒に居る必要はない。
それでも、二人で過ごすならルールが必要だと思う。
今のところは一週間だが、適当では済まされない。
割と重大な決め事だと思うのだが、亜梨栖は両目をぱちくりさせながら大きく首を傾げた。
「決める程の事はないと思いますが」
「飯の当番に掃除や家事の分担とか、色々あるだろ?」
「ご飯も家事も掃除も私がするという約束だったじゃないですか。まさか、嘘だったと?」
血の色を映す赤い瞳がすうっと細まる。
先程までの柔和な雰囲気が一瞬で消え、見えない圧が襲い掛かってきた。
改めて役割分担する事で悟も何かしたいと思ったのだが、失敗したらしい。
「……嘘じゃないです。でも、俺の部屋もアリスが掃除するのか?」
「はい。掃除する部屋が一つ増えるくらい、何ともないですからね。兄さんが入って欲しくないというなら止めますが」
「もうアリスを入れてるし、そこまで神経質じゃないって」
プライベートエリアには絶対に入るな、という人も居るだろうが、悟はそうではない。
昔は亜梨栖がずっと傍に居た事もあり、自室に入られるのは慣れている。
それに、一度彼女を泊まらせているのだ。今更部屋に入るなというのもおかしな話だろう。
悟が嫌がらないと分かっていたからか、亜梨栖が妙に圧のある微笑を浮かべた。
「ならいいですよね?」
「……分かった。よろしくお願いします」
「よろしくお願いされました。それで、後は?」
「強いて言うなら、お互いに不満はちゃんと口にする事、かな」
一緒に暮らすのだから、例え幼馴染であっても嫌な事は口にすべきだし、我慢はさせたくない。
お互いに譲れないものがあるなら、その都度話せばいいのだ。
ただ、亜梨栖はいまいち理解していないようで、無垢な表情で首を傾げる。
「兄さんとの生活に不満なんてありませんよ?」
「……それでも、昔とは違うんだ。ぶつかる時が絶対に来る」
悟との生活に不和など起きるはずがない、と信じきっている瞳が向けられて、反応に困ってしまった。
咳ばらいを一つして気持ちを落ち着かせ、万が一の可能性を告げる。
すると、端正な美貌に疑いの色が宿った。
「何だか、さっきからやけに具体的な悪い話を持ち出しますね。……もしかして、誰かと一緒に暮らしてました?」
「ひっ」
凍り付いた湖のような冷たく無機質な瞳と能面のような表情に、喉から悲鳴が出てしまった。
感情を爆発させず、淡々と詰めるような静かな声に恐怖を抱く。
亜梨栖の背後の空間が歪んで見える程の圧力に、あっさりと悟の心が折れた。
「し、してない! そういう話を会社の同期から聞いてただけだ!」
「ほんとう、ですか?」
「もちろん! 恋人も居ないって言ってただろうが!」
「……確かに。なら、今回は許してあげます」
誰かと住むのに亜梨栖の許可が必要なのか、と口走りそうになってしまい慌てて口を噤む。
折角怒りの矛を収めてくれたのだ。ここで再び彼女の感情を爆発させて、鬼を生み出したくはない。
年上の威厳を全力で投げ捨て、頭を低くする。
「ありがとうございます」
「全く……。もう以前のような食生活はさせませんし、掃除に関しても私がするんです。それ以外の不満なんて出る訳がないでしょうに」
余程不服だったのか、亜梨栖が腕を組みつつ僅かに頬を膨らませた。
それほどまでに信頼されている事を嬉しく思うと同時に、これほどの信頼を裏切ってはならないと改めて決意する。
心を固くしつつも、子供っぽく拗ねる亜梨栖に頬を緩めていると、何かを思いついたように「ああでも」と彼女が声を上げた。
「兄さんは嫌な事があったら言ってくださいよ? 一週間我慢して、それを理由に私を追い出すのは無しですからね」
澄んだ瞳には、僅かに不安が宿っているのが見える。
詳しい理由までは分からないが、亜梨栖がお試し期間が失敗するのを恐れている事は察せられた。
それだけでなく、悟に我慢させるのが嫌なのだというのが強く伝わってくる。
「俺だけ好き放題言えるってのは変だと思うけど、分かったよ」
「別に、私も不満を溜め込むつもりはないんですがね。そもそも、昔は殆ど一緒に暮らしていたようなものでしょうに」
「……まあ、昔は泊まる事も多かったけどさぁ」
昔は学校から帰ってきて、寝るまで亜梨栖と一緒だった事も多かった。
お互いの趣味趣向などが分かりきっており、今更言い争いなど起きないという言い分も分かる。
それでも生活習慣の変化は確実にあるはずだし、間違いなくそれが浮き彫りになるだろう。
一日泊まらせただけで全てを理解出来たなど、そこまで安易な思考はしていない。
晴れやかな微笑を浮かべている亜梨栖に、ひっそりと溜息をつくのだった。




