第16話 母と息子
それなりに残業をした事で、会社を出る頃には既に日が暮れていた。
この一年間ですっかり染みついた動きに従って近くのコンビニに寄り、弁当を買って家に帰る。
電気を点ければ、シンと静まり返ったリビングが悟の目の前に現れた。
「……そっか。アリスはもう帰ったんだっけ」
弁当を買ってきたくせに、今更になって亜梨栖が家に居ない事を自覚する。
ゲームは別として昨日は騒いでおらず、むしろ落ち着いた空気だった。
同じように静かな空気にも関わらず呟いてしまったのは、彼女と過ごす空気が心地良かったからだろう。
最初は気まずかったくせに、随分身勝手だなと笑みを落とす。
「取り敢えず、飯にしよう」
弁当を温めつつ、部屋着に着替えて風呂のスイッチを入れる。
リビングに戻り、電子レンジで熱を持った弁当をテーブルに運んだ。
蓋を開ければ、ハンバーグの良い匂いが腹を刺激する。
「いただきます」
空っぽだと訴える腹の要求を満たす為、弁当を掻き込む。
ただ栄養を、それもバランスの悪いものを摂るだけの行為。
それを分かっていつつも、以前までなら美味しいと感じていた。
しかし、今はどうにも味気ない。
「……こんな味だったか?」
コンビニの弁当なのだし、味は均一化されているはずだ。
それが、なぜか悟の心をささくれ立たせた。
「馬鹿馬鹿しい。一人飯なんて慣れてるだろ」
溜息と共に乾いた笑いを零し、箸を動かす。
向かいに銀色の少女が居ない事など関係ない。懐かしい味のする料理ではない事などどうでもいい。
一年間続けてきた行動が、それによって冷えた感情が、たった一日で崩される訳がないのだ。
そう結論付けても、胸のつっかえが取れはしない。
「こんな事なら、酒でも買ってくれば良かったな。……というか、確かあるはずだ」
つい言葉にしてしまい、自嘲気味に笑みを落とす。
仕事でミスをしたり、人との会話で疲れた訳でもないのに、この胸の気持ちはそれらと同じくらいに忘れたいもののようだ。
何はともあれ、冷蔵庫の中にまだ酒はあったはずだ。
「何があるかなっと。……え?」
冷蔵庫を開け、何とはなしに中身を確認する。
すると、タッパーが二個置いてあった。
おそらく、亜梨栖が何か作ってくれていたのだろう。
中身を確認すれば、きんぴらごぼうと切り干し大根の煮物だった。
そして、タッパーの上にはメモ帳を折ったであろう紙が乗っている。
「アリスに悪い事をしたなぁ」
この二つは日持ちするので、今日で全てを食べる必要はない。
それに、朝の時点では作り置きすると言っていなかったので、悟が弁当を買ってきてもいいようにしたのだろう。
出来る事ならすぐに食べたいが今日は無理なので、明日食べようと決意しつつタッパーを戻す。
次に、紙を開いて中を確認した。
『日持ちするものを作り置きしてますので、食べてください。それと朝食を毎日食べろとは言いませんが、出来るだけ何か食べるように』
あれほど怒ったにも関わらず、悟の立場を考えて朝食を絶対に食べろと言わなかったり、ほんのりとした注意で済ませてくれていた。
簡素ではあるが亜梨栖の優しさが伝わる手紙に、胸に熱いものが込み上げてくる。
ただ、どうやら手紙は二枚重ねだったらしい。
『お酒の飲み過ぎは駄目ですよ。缶さえ捨てればバレないと思っていたら大間違いですからね』
「ははは……」
まさしく考えていた事を当てられてしまい、先程までの感情が一瞬で引っ込んだ。それどころか引き攣った笑いが零れる。
片付けさえしていれば大丈夫のはずだが、もしかすると本当にバレてしまうかもしれない。
まず有り得ないと思っていても、そう信じさせるだけの圧が手紙の文にはあった。
「ホント、成長したよ」
溜息交じりに苦笑し、手紙を綺麗に畳んでタッパーの上に置く。
料理させられない環境だったとはいえ、ここまで出来る程に亜梨栖は料理上手となった。昨日の味からすると、とっくに悟を抜かしているだろう。
ほんのりと寂しさを覚えつつ、酒を飲む気も失せたので、冷蔵庫を閉じてリビングへと戻る。
弁当は生温くなっていたが、どうせ美味しくないのだから冷えていようが変わらない。
強引に掻き込んで手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
感謝の言葉とは裏腹に心は凪いでおり、機械的に体を動かして片付けを行う。
弁当の容器を水洗いし、ゴミ箱に叩き込んだ。
「連絡は……まだだな」
日中に『時間が出来たら連絡してくれ』と伝えてはいたが、まだ仕事のようだ。スマホには何の連絡も入っていない。
社会人の立場になって、改めて母親二人の凄さを思い知る。
「なら、今のうちに風呂に入っておくか」
明るい話は出来ないだろうし、長話になるはずだ。終わった頃には風呂に入る気力が無くなっているかもしれない。
ほんの十分で風呂を終え、リビングで涼む。
気持ちを落ち着かせて待っていると、スマホが着信を知らせた。
光る画面には「母さん」の文字。
ゆっくりとスマホを耳に当てれば『もしもしー?』と疲れを感じさせない女性の声が聞こえた。
「もしもし」
『ごめんね悟、ようやく時間が出来たわぁ』
「お疲れ様。相変わらず大忙しだな、母さん」
『そういう立場なのよ。仕方ないわ』
諦めるような言葉を口にしつつも、からからと彩が笑う。
悟よりも長時間残業しているのだから、多かれ少なかれ黒い感情はあるはずだ。
それを全く思わせない声色に尊敬の念を抱いた。
ただ、今はその感情すら引っ込めなければならない。
「それで昨日の件だけど、どうして許可したんだよ」
亜梨栖へ悟の居場所を教えた件については怒っていない。
それよりも、悟と亜梨栖の同居を許可した事の方が気になった。
普段と同じ柔らかい雰囲気では駄目だと察したらしく、彩が一瞬で笑い声を消す。
『悟は社会人だし、アリスちゃんはもう高校生なのよ? やりたいようにやらせるべきだと思ったの』
「アリスはまだしも、俺の意思は無視かよ」
同居の件は最終的に条件付きで承諾したとはいえ、強引に約束させられたようなものだ。少なくとも、やりたいようにはやっていない。
もし好きにしていいのなら、そもそも会わなかったのだから。
言葉にほんの少しだけ苛立ちを混ぜ込めば、電話越しに苦笑の気配がした。
『いいえ、ちゃんと悟の意思も汲み取ってるわ』
「いや、どこが――」
『ごめんなさい、悟』
苦悩が詰まったような、申し訳なさをこれでもかと込めた声に、彩を糾弾する言葉が止まった。
唐突な謝罪に戸惑っていると、彩が深呼吸の後に言葉を紡ぐ。
『五年前、悟を信じてあげられなくて――悟の苦しみを本当の意味で理解してあげられなくて、ごめんなさい』
「いや、母さんは俺を信じてくれただろ。だから家を出る事を許してくれたんじゃないか」
別段、悟と彩の仲は悪くない。むしろ、母子家庭であるがゆえに良い方だと自負している。
少なくとも悟は彩に信用されていないとも、理解されていないとも思っていない。
『あの時はそれが一番の方法だと思った。でも、もっと違う方法もあったんじゃないかって、最近そう思うようになったの」
「違う方法? ……まさか、それが?」
『そう。悟とアリスちゃんを二人きりにさせるの』
「……いや、おかしいって。母さんは俺がアリスに何をしようとしたか、知ってるだろ?」
未遂ではあるが、決して許されない事を、しかも最初は自覚しないまま亜梨栖にしようとしたのだ。
まさか忘れてしまったのかと問い詰めれば『もちろん』と芯の入った声が耳に届いた。
『忘れる訳がないわ。あの時の言葉は、ずっと覚えているもの』
「だったら!」
『だからこそよ。悟、あなたはあの男とは違う。私の大切な、最高の息子よ』
「……」
普段とは違った、恐ろしいくらいに真剣な声に、否定の言葉が出て来ない。
しかし頷く事も、感謝の言葉を口にする事も出来なかった。
『それは私の目の届かない大学生活でも証明してくれた。だから、これからは本当にしたい事をしていいのよ。言うのがこんなにも遅くなって、ごめんなさい』
「……俺、は」
大学時代はそれなりに遊んでいたとはいえ、彩に迷惑が掛からない範囲で収めてはいた。
それを窮屈だと思った事はない。
なのに、二十歳を超えた今になって『したい事をしていい』と言われても困る。
途方に暮れたように呟けば、彩がくすりと自嘲気味に笑みを零した。
『そうやって悩ませなかったのも、私のせいね』
「そう、なのか?」
『そうよ。だから、今回の件は罪滅ぼしなの。私と奏さんのね』
「奏さんも、なんだな」
『ええ。まだ仕事中みたいだけど、一度きちんと話して謝りたいって言ってたわ』
「……」
五年間の件を謝りたい、という気持ちは奏も同じらしい。
ただ、悟は二人が悪いとは思っていないので、その謝罪をどういう気持ちで受け止めればいいのか分からない。
少なくとも今の悟を満たしているのは、喜びではなく罪悪感だ。
そんな悟の心を読んだかのように、彩が『まあ、それは時間がある時にね』と朗らかな声を発した。
『だから、私や奏さんは今回の件に関して反対しないわ。でも、一つだけ約束して欲しいの』
とてつもない無理難題を言われるのか、それとも同居に関して縛りを設けるのか。
胸に渦巻く不安を抑え、先を促す。
「その約束って?」
『すぐじゃなくていい。でも、きちんとアリスちゃんに全部話す事。これだけよ』
「…………は?」
『さてと。言いたい事は言ったし、それじゃあまたね、悟』
「え? ちょっと!?」
悟が何か言う暇もなく、言い逃げの如く電話が切れた。
頭の中を困惑が占め、フラフラとベッドへ向かう。
この精神状態では風呂に入れなかったので、先に入っておいて正解だった。
ベッドに倒れ込み、重い溜息を吐き出す。
「そんな事、出来る訳ないだろ……」
悟は幼馴染の立場でなければいけない。なので、何があっても亜梨栖に全てを伝える訳にはいかないのだ。
そう納得しようとしても、彩の言葉が頭の中をまわっている。
何も考えたくなくて目を閉じると、シトラスの爽やかな香りがほんのりとだが鼻を掠めた。
この香りの持ち主が誰かなど、考えるまでもない。
「アリスがここで寝たんだな」
匂いが移っているのは亜梨栖が寝た証拠だし、そうするようにと悟が言ったのだ。
分かりきっているはずなのに、心臓がじわじわと鼓動を早めていく。
「……だから、そういうのが駄目なんだって」
あと一週間もないうちに、亜梨栖が来てしまう。
その前に何とかしなければと、乾いた笑いを零すのだった。




