第15話 少女の決意
玄関の扉が閉まり、外の光が無くなった。
普段の癖か、亜梨栖が居るにも関わらず、ガチャリと鍵が閉まる。
すぐに扉が開かない状況になった事で、体から力が抜けていく。
リビングへ何とか戻り、ソファへと思いきり倒れ込んだ。
「あ、危なかったぁ……。間に合って良かったよぉ……」
亜梨栖は眠りが深く、朝が弱い。反対に悟は眠りが浅く、すぐに起きられる。
そんな悟を亜梨栖が起こすのは、かなり難易度が高い。
しかも昨日は幸福感で全く眠気が来ず、起こさないように、かなり遅い時間まで悟の寝顔を見ていた。
そんな寝不足の状態で悟を起こすのは難しく、もう少しで寝坊する所だったのだ。
しかし身だしなみを整える事も含めて、何とかやり遂げる事が出来たと胸を撫で下ろす。
「本当に、来れたんだよね」
リビングをぐるりと見渡し、達成感と共に言葉を零した。
五年前からずっと願っていた事が、ついに叶ったのだ。
勝手に緩む頬をそのままにして、彼の姿を思い返す。
「……お兄ちゃん。かっこよかったな」
亜梨栖の記憶にある悟は、高校生の制服を着ていた。
もちろん高校生の悟も格好良いが、スーツ姿というのは狡い。
今日はテーブルに座って笑いかけてくれた際に思考が停止してしまったものの、これから耐性をつけなければ。
「成長、したんだよね」
元々、亜梨栖の兄のような立場だったため、昔ですら悟は大人びていた。
しかし大学を卒業し、社会人となった悟は一段と雰囲気が大人っぽくなっていた。
身長だけは高校生の頃からあまり変わっていなかったが、そんなのは些細な事だ。
あまりに格好良過ぎて、再会した瞬間は怒りや恐れを忘れて見惚れてしまった程なのだから。
亜梨栖が変わったのと同じように、悟も変わったのだと改めて思い知る。
「でも、嫌われてなかった。本当に、本当に、良かった……!」
亜梨栖が何よりも恐れていたのは、悟に嫌われてしまう事だ。
この五年間必死に努力しつつも、突然居なくなった理由がそれだったらとずっと怯えていたくらいなのだから。
だが、悟の発言と態度から、嫌われていない事がしっかりと理解出来た。
もう感情を抑え込む必要はなく、沸き上がる安堵が視界を滲ませる。
「それに、優しいお兄ちゃんのままだった!」
五年の間に悟の性格が変わっていたら。もし亜梨栖の外見を嫌うその他の人のようになっていたら。
昨日まで亜梨栖の胸は不安で一杯だったが、もうその心配はない。
外見は変わったが、性格は昔と同じだったのだから。
食生活の変化やこれからについて等、言いたい事や問題は山程あれど、取り敢えずは亜梨栖の望んでいる状況になった。
しかし昨日の事を思い返すと一瞬で喜びは消え、凄まじい後悔が沸き上がってくる。
「ああもう、何で怒鳴ったり泣いたりしちゃったかなぁ……」
五年前まで家族同然の存在だったにも関わらず、悟は突然居なくなったのだ。
そうしなければならない程の理由があったのだから、いきなり家に押しかけ、問い詰めた所で彼が理由を話すはずがない。
今ではそう思えるが昨日は冷静になれず、つい感情的になってしまった。
まだまだ努力が足りないと、クッションに顔を埋めて唸る。
とはいえ、ずっとこのまま後悔し続けていても何も変わらない。ゆっくりと立ち上がり、脱衣所へと向かう。
「取り敢えず、洗濯しないとね」
服は着回しで妥協出来るが、昨日履いた下着をそのまま履くのは我慢ならない。
悟の事なので洗濯用のネットは無いはずだ。
案の定、洗濯機の周辺にはそれっぽい物はない。
「なら手洗いかな。ついでにお兄ちゃんの洗濯もしちゃおっと」
特に何も考えず、洗濯籠の中身を洗濯機に放り込む。
ただ、その中の一つが亜梨栖の目に留まった。
誘われるように、手がふらふらと吸い寄せられていく。
「……いや、流石に駄目だから」
必死に理性を働かせ、亜梨栖では絶対に履けない物へ伸ばす手を止めた。
これを手にしたが最後、亜梨栖は変態の烙印を押されてしまう。
今ならば誰にもバレないと心の中の悪魔が囁くが、溜息をつきつつも諦めて下着を手洗いしていく。
「まあ、結局触るんだけどね」
洗濯物を干すのだから、悟の服にはどうしても触れてしまう。もちろん、触れるのは服だけではないが。
とはいえ、洗う前か洗った後かというのは大きな違いだ。
洗った後なら触っても許してくれるはずだし、そうでなければ洗濯の許可はしないだろう。
「何考えてるんだろう。私」
変な方向へと思考が向かっているが、仕方がないのだ。
夢にまで見た悟の居ない家で好き放題出来る、という事実が亜梨栖の思考を茹らせてしまう。
しかし、まだやる事があるので羽目は外せない。
気合を入れなおし、下着を洗っていく。
暫くすると洗濯が終わったので、ベランダへと向かった。
幸いにして朝早い時間だったからか日差しは柔らかで、一瞬ならば耐えられる。
大量のゴミ袋を端に寄せて匂いを遠ざけつつ、バスタオルを最初に干して日差しを遮った。
そして次は、意を決してある物を引っ張り出す。
「こ、これがお兄ちゃんの下着……!」
何を馬鹿な事をやっているのか、と自分自身に呆れるが、もう止まれない。
顔に熱を集めつつ、しっかりと目に焼き付けながら下着を干していく亜梨栖だった。
洗濯物を干した後は悟のベッドにダイブし、下着が乾くまでうたた寝をしていた。
ついでにベッドに移った悟の匂いを堪能した事だけは、絶対にバレてはいけない。
そして下着も昼には乾き、いつでも三城家に帰れるようになる。
しかし亜梨栖はすぐに帰らず、スーパーでの買い物を終えて悟の家へ向かっていた。
「買い物は終わったし、後少しで帰らなきゃ……」
出来る事なら、今すぐにでも悟と一緒に暮らしたい。
しかし、それが無茶な願いなのは十分に理解している。
それでも納得の出来ない感情のままに、肩を落としつつゆっくりと歩く。
すると、大学生くらいの二人組が反対側からやってきた。
我が物顔で歩道の半分を占拠しているので、仕方なく日傘を上げて二人に当たらないようにする。
「うわ、すっげぇ美人。同い年かな?」
「多分そうじゃね? 俺らと一緒で春休みなんだろ」
亜梨栖の顔が見えたからか、彼等の目が日中に傘をさす者への非難の目から下卑たものへと変わった。
(……面倒くさいなぁ)
亜梨栖とて、自分の容姿がどのようなものかは理解している。
しかし、顔が見えたからと目の色を変える人に興味はない。
視線すら合わせず隣を通り過ぎようとするが、彼らが亜梨栖の前に立ち塞がった。
「ねえ、君」
「……何ですか?」
「俺らと遊ばない? 春休みなんでしょ?」
「……」
極寒の声を出しても、彼らはめげずに亜梨栖へ話し掛けてきた。
ナンパするのが悪とは言わないが、亜梨栖が嫌がっている事くらい分かって欲しい。
そもそも、明らかに買い物帰りだというのに、どこへ連れて行こうというのだろうか。
「興味ありませんので遠慮します」
「そう言わずにさぁ」
「ちょっとだけでいいから! いいデザートのある店知ってるんだよ!」
日傘で視線を遮ろうとしても、無理矢理止められてしまう。
亜梨栖にとって、昼間の日光は猛毒だ。
だからこそ日傘をしているのに、それすら理解出来ないらしい。
もしかすると、単なるファッションと思われているのかもしれない。
初対面の人に理解しろというのは無理難題かもしれないが、少なくとも事情がある事は分かるはずだ。
何にせよ、亜梨栖にはこの人達と話す意義が見いだせなかった。
「五秒以内に離れないと、大声を出しますよ」
「「は?」」
「五、四、三」
「ちょ、ちょっと!? それはいくら何でも――」
「二、一。それでは遠慮なく」
慌てふためこうが、亜梨栖の知った事ではない。
この手の人は、強硬手段に出ないと絶対に引かないのだから。
大きく息を吸い込めば、流石に危険だと悟ったのか彼らが逃げていく。
「何だよ、意味わかんねぇ! 美人だからってつけあがりやがって!」
「顔は日本人のくせに変な髪と目してるし、気味悪い」
最後に罵倒を残し、彼等が視界から消えた。
聞き慣れた言葉は、少しも亜梨栖の心に響かない。
この色素の抜けた髪も、血の色を移す瞳も、大切な物なのだ。
それがたった一人に気に入られるのなら、他の誰からの暴言も受け入れよう。
「……もう二度と、あんな事になんてさせない」
気が付いた時には、手遅れになる寸前だった。
しかし死に物狂いで状況を変え、ようやく辿り着いたのだ。
太陽に嫌われた亜梨栖を照らし続けてくれていた、何者にも代えられない人の元へと。
もたもたしていたら、再び掌から零れ落ちていくだろう。
「さてと。すぐ作って帰らないと、引っ越しの準備が出来なくなっちゃう」
先程出会った二人組の事など、亜梨栖の頭から既に抜け落ちていたのだった。




