第12話 二十三歳まで守ったもの
「ただいま」
家を出てからたっぷり一時間。コンビニで時間を潰し、家に帰ってきた。
おそるおそるリビングに顔を出せば、ほんのりと頬を赤らめた亜梨栖がいた。
「おかえりなさい」
流石に一時間前の出来事は忘れられないようで、言葉に僅かな棘がある。
唇も尖っており、亜梨栖の言動全てが「怒ってますよ」という露骨なアピールをしていた。
悟にも事情があったとはいえ、言い訳をすべきではない。
「ごめん」
「……いえ、私も怒り過ぎました。すみません」
意外にも悟は怒鳴られる事はなく、むしろ亜梨栖が眉を下げて謝ってきた。
おそらく、先程までの態度とは裏腹に一時間経った事で、思考がある程度冷えたのだろう。
しかし、あの場でどちらが悪いかなど分かりきっている。
「いや、あれはどう考えても俺が悪いだろ」
「私だって、折角買ってきてくれるというのに追い出してしまいました。ですから、お相子という事にしませんか?」
「分かった。アリスがそれでいいなら」
どう考えても悟に非があるにも関わらず、亜梨栖は両成敗にしてくれた。
深く頭を下げ、これで話は終わりだと空気を切り替える。
彼女も、あの事件を掘り返されたくはないはずだ。
「そういえば、ドライヤーを借りましたよ」
「ああ。次からは遠慮なく使っていいからな」
ほぼ使っていないとはいえ、ドライヤーを置いておいて良かった。
これからは亜梨栖が使うと思うので、置物と化していたドライヤーも浮かばれる。
ただ、穏やかな空気になった事で、彼女の服装が気になってしまった。
「……サイズが合ってないな」
男性の平均よりも悟は背が高く、亜梨栖は女性の平均くらいの背の高さだろう。
そのせいで、パジャマのサイズが全く合っていない。
ぶかぶかの襟から見える鎖骨は色っぽく、袖は亜梨栖の手のほぼ全てを覆い隠し、指先しか出ていない。
それだけでも可愛らしく、思わず抱き締めたり頭を撫でたくなってしまう。
また、何も考えずパジャマを渡したせいで、ペアになっている。
その事実が悟の心をくすぐるが、一番の要因は別の場所だ。
「まあ、仕方ありませんよ。ズボンは入らなかったので寝室に置いてます」
「やっぱりか……」
本来ズボンを履いていれば見えない場所まで、真っ白な太股が見えてしまっている。
あまりにも柔らかそうで、触り心地が良さそうで、油断すると手を伸ばしてしまいそうだ。
そんな事をすれば犯罪者一直線なので、流石にしないが。
ただ、寝るまでそんな魅力的な恰好をされては、悟の心臓が持たないかもしれない。
「別の服にするか?」
「変えた所でサイズが合わなかったら意味ないですよ。それとも、小さめの服があるんですか?」
「……ないな」
悟の部屋には、亜梨栖がきちんと着られる服はない。
しかし、先程までなら何とか出来たはずだ。
「だったら、さっき買ってくれば良かったな」
「シャツは着れますし、別にいいですよ。だからお願いしなかったんですし」
「そういう事か。にしても、なぁ……」
歯ブラシだけを要求したのは、本当に最低限だったようだ。
確かにシャツが着られれば問題はないが、男の理性に悪過ぎる。
どうやら、今日は理性を縛り付けなければならないらしい。
たった一日、それも後数時間だけだが、大変な時間になりそうだ。
渋面を作れば、亜梨栖の顔がほんの少しだけ悪戯っぽく頬を緩める。
「何か問題が?」
「いいや、ないな」
「ですよね。ああ、それと、脱衣所の籠は見ないで下さいよ。下の方に移動させてますが、置いてますので」
「置いてる? ……置いてるぅ!?」
何が、という主語が無くとも、何を置いているのか分かった。
ほんのりと頬を染め、きゅっと唇を結んでいる姿から察するに、亜梨栖も恥ずかしいのだろう。
あまりの衝撃的な発言に、声が裏返ってしまった。
(という事は、アリスは今……)
元々泊まる用意などしていなかったし、だからこそ悟のパジャマを借りたのだ。
その上でシャツの下に着ける物が洗濯籠にあるのなら、今の亜梨栖は本当の意味でシャツ一枚だけという事になる。
ただでさえ無防備な姿が、誘っているように思えてしまった。
「いや、そこは着けないと駄目だろ」
「今日一日着けていたのを、もう一度着けるのは嫌です」
一日中着けていたのだから、そんなものをもう一度着けたくないという気持ちは分かる。
しかし、いくら幼馴染とはいえ悟は男なのだ。
もちろん何があっても変な事はしないものの、警戒してもらわねば。
「いや、でもさ――」
「明日兄さんの服を洗濯するついでに洗って、乾いたら帰ります。すみませんが、それでいいですか?」
「え、あ、お、おう?」
まくしたてるように告げられて、頭が混乱してしまう。
洗濯に関しては構わないので取り敢えず頷いたのだが、亜梨栖は服装についても文句なしと受け取ったらしい。柔らかい微笑を浮かべた。
「そういう事でお願いしますね」
「はぁ……。分かったよ」
問題はあるものの、これは悟が理性をしっかり保てばいいだけだと思いなおした。
七歳下の高校生など、子供でしかない。
そう必死に言い聞かせ、頭をがしがしと掻く。
話が一段落したからか、亜梨栖が悟の姿に小さく笑みつつ首を傾げた。
「今更も今更なんですが、私を住まわせて良かったんですか?」
「良いも何も、もう決めただろ?」
「そうなんですが、そういう事ではなくてですね。……恋人とか、居ないんですか?」
「ああ……」
凄まじく答えづらい指摘に亜梨栖を見ていられず、ソファへ腰を下ろす。
とはいえ、彼女の疑問はもっともだ。
亜梨栖がこれから悟の家に住むのなら、もし恋人が居たとしても家に招く事は難しくなる。
恋人としても、いくら幼馴染とはいえ高校生と一緒に過ごす彼氏を知れば、心中穏やかではないだろう。
しかし、幸いな事に悟には無縁の心配だ。
「大丈夫、彼女なんていないから」
「そういえば、夕方に聞いた話では女性の事が一切出ませんでしたね」
「いやまあ、大半が男だけど、女友達も居たからな?」
「その割には付き合ってなかったんですね」
「……何というか、友達としては好きでも、異性として好きにはなれなかったんだよ」
地元を離れ、大学生活をする上で、恋人を作ろうとした事はある。
しかし乗り気になれず、結局仲が良い友人止まりだった。
そして社会人となり、大学の友人とは殆ど会わなくなった事で、更に交流がなくなってしまった。
職場に関しても女性と話す事はあるが、仕事と割り切っているので、恋人に発展はしない。
たった一人だけ割と親しい異性は居るものの、特段甘い関係でもないので省いていいだろう。
これまでの味気ない生活を思い返しつつ、乾いた笑いと共に言葉を零した。
「つまり、童貞と」
「ぶっ! ……言って良い事と悪い事があると思うんですよ、アリスさん」
鋭い刃物が胸に突き刺さり、がっくりと項垂れる。
確かにその通りだし、二十三にもなって童貞というのはあまりに恥ずかしい。
そう理解していても、幼馴染に言われるのはダメージが大き過ぎた。
じろりと睨めば、端正な顔が笑みを形作る。
そこには、僅かな喜びが混じっている気がした。
「事実みたいですね」
「そうだけど、女子高生がそんな事を言ったら駄目だって」
「因みに、店で卒業しなかったんですか?」
「どこでそんな知識を得たんだよ!?」
女子高生とは考えられない発言に、頭が痛くなる。
少なくとも、悟が一緒に居た頃はこんな女の子ではなかったはずだ。
こめかみを抑えると、亜梨栖がくすくすと軽やかに笑った。
「もう高校生なんですよ? その程度の知識は色んな所から入ります」
「今時の高校生って怖ぇ……」
「そういうものです。それで、どうなんですか?」
「…………したら負けだと思ってしてません」
大学生の遊びの一環として、そういうものにも誘われていた。
しかし、そこで卒業するのは男として負けた気がして、絶対に行かなかったのだ。
くだらないプライドだと笑われるかと思ったが、亜梨栖は頬を緩め、安堵と歓喜の見える小さな笑みを浮かべる。
「そうですか。……そうなんですね」
その微笑みの意味を知るのが怖くて、黙り込む悟だった。




