第118話 プールと夜景と星空と
「あの、本当に大丈夫なんですよね? 溺れませんよね?」
「当然だろ。いつも風呂に入ってるのに、どうして怖がってるんだよ」
悟達がまず向かったのは、屋外のこれといって特徴のないプールだ。
そのせいか、ここは夜景を楽しむ人が多いらしく、周囲は静かで穏やかな空気に包まれている。
そんな中、亜梨栖がプールに足を浸しておろおろと不安そうにしている。
いくら悟が助けると宣言しても、恐怖は消えないらしい。
大声を出してはいないが、それなりに声を張っているので周囲の迷惑にならないか心配だった。
しかし亜梨栖の容姿のお陰か、微笑ましそうな視線が向けられている。
「だって、お風呂で溺れる心配はないじゃないですか」
「……時と場合によるんだが、そこは置いておいて。絶対に大丈夫だから。ほら」
「わ、分かりました。いきます!」
先にプールへ入った悟が腕を広げれば、亜梨栖がぐっと拳を握り込んで気合を入れ、プールへと身体を浸した。
競泳用ではないのでそれなりに浅く、女性として平均的な背の高さの亜梨栖は、胸を水に浮かせている。
ぷかぷかと揺れるそれは魅力的だが、ここで反応する訳にはいかないと視線を上げた。
「ほら、大丈夫だったろ?」
「は、はい。何とか、なりそうです」
足が着いた事で恐怖は無くなったらしく、亜梨栖の顔が安堵に彩られる。
ようやく周囲にも目が行き、眼下の美しい街並みに「わぁ……!」と感嘆の声を漏らした。
「綺麗ですねぇ……」
「ここは景色を見る為にわざと高い場所に作ったらしいからな。良い眺めだ」
ナイトプールの中には家族連れが許されたり、はしゃげる場所が多い所もある。
そして今回来た場所は、主に景色を重視していた。
交通の便が少し悪かったが、そこは社会人かつ車持ちの力で何とかした。
亜梨栖に喜んでもらえるのなら、多少の運転は苦でもない。
「それに、プールに入りながらなので涼しくて気持ち良いです」
「そうじゃなかったら、アリスは今頃へばってたな」
「今日は一段と暑いですからねぇ……」
プールの水は少し冷たいくらいなのだが、それが真夏の蒸し暑い夜の良い清涼剤になっている。
そのお陰で、亜梨栖は最近特にぐったりしがちだったものの、今は溌剌とした笑顔を浮かべていた。
「でも、元気出ました。ありがとうございます、悟さん」
「なら連れて来たかいがあったよ」
以前の散歩は亜梨栖の気分転換にと受けたが、濡れる事まで想定していなかった。
それに悟の考えでもなかったので、出来る事なら悟が亜梨栖を喜ばせたかったのだ。
夜景に負けない美しい笑みを向けられ、歓喜と安堵が胸を満たす。
水に濡らした手を彼女の頬へ近付ければ、抵抗される事なく受け入れられた。
「ふふ、冷たいです」
「アリスを冷やさないといけないからな」
「はい。最近の私は体が火照ってますからね」
「……また理性に悪い事を言う」
単に暑さでバテていただけなのに、言い方が非常に紛らわしい。
ぺちりと頬を軽く叩いて抗議するが、嬉しそうなはにかみで受け入れられた。
「こうして一緒に景色を見て、悟さんと触れ合うだけでも幸せですよ」
「俺も同じ気持ちだけど、折角ならもっと楽しもうか」
プールから上がり、亜梨栖へと手を差し出す。
悟一人でも目的の物を取って来る事は出来るが、水の中に亜梨栖を残したくはない。
訳が分からずきょとんとしつつも、亜梨栖が悟へと手を伸ばした。
しっかりと掴んで引き上げ、一緒に目的地へ向かう。
特に問題なく借りれた事で、亜梨栖が目を輝かせた。
「もしかして、これに乗っていいんですか!?」
「おう。浮き輪に俺が乗るなんて似合わないからな」
先程他の客が道具として使っているのは見ていたが、やりたかったらしい。
こういうのは女性の特権だと苦笑し、先にプールに入って浮き輪を支える。
「おいで、アリス」
「はい!」
一度水に入ったからか、それとも悟が浮き輪を支えているからか、亜梨栖が躊躇する事なく浮き輪の穴に腰を落とした。
ぴったりと嵌ったのがお気に召したようで、上機嫌に頬を緩ませている。
「こういうのもいいですねぇ。それに、今度は星空も見えます」
「……ホントだ。綺麗に見えるもんだな」
この施設がある程度街から離れているとはいえ、星はあまり見えないと思っていた。
しかし、悟達の頭上では満天の星々が輝いている。
「ナイトプールで天体観測なんて、贅沢過ぎますね」
「こんなの贅沢でも何でもないっての。でも天体観測か……」
確かに亜梨栖も出来る事だが、昔はお互いの親が忙しくてそんな事をしている余裕などなかった。
ただ、夏場のイベントとしてはいいものだと思う。
残念ながら道具は揃えられないので、似たような何かになるが。
何かないかと思考を巡らせたが、良い案は思いつかない。
ままならないものだと苦笑を落とすと、突然顔に水が掛かった。
「な、何だよアリス」
「折角のデートなのに楽しまない恋人さんへのお仕置きです」
「いや、夜景とか星空を見て楽しんでたんだけど――ごめん、ごめんって」
この瞬間を楽しまず、他の事を考えていたのが気に召さなかったらしい。
ムスッと唇を尖らせた亜梨栖が、続けて勢いよく水を掛けてきた。
素直に謝罪すると止まってくれたが、深紅の瞳は不満気に眇められている。
「……」
「悪かったよ。これで許してくれ」
亜梨栖へと顔を寄せ、瑞々しい頬へ口付けを落とした。
どうせ周囲では似たような事をしている人がいるし、悟達もじゃれているように見えるだろう。
それでも、女性客が発したであろう黄色い声が聞こえてきたのだが。
そして亜梨栖はというと、最初は訳が分からないという風にきょとんとしていたのだが、すぐに耳まで真っ赤に染めた。
「こ、こんな所で何してるんですか……」
「何って、お詫びだよ。他の事を考えていたのと、日中に外でくっつけない事のな」
今日は状況的にくっついても許されたが、悟達が外に出る際は基本的に手すら繋げないのだ。
大型のショッピングモールは当然駄目だし、遊園地等のテーマパークはそもそも亜梨栖の体質的に楽しめない。
なので、こういう場でくらいは許されるだろう。
流石にもう一度する勇気はなく、羞恥に頬を炙られながら僅かに視線を逸らす。
すると、くすくすと鈴を転がすような笑い声が耳に届いた。
「今日に関しては許しますが、普通のデートで手を繋げないなんて今更でしょう?」
「そうだけど、何か言っておきたかったんだ」
「ふふ、変な人ですねぇ」
慈しむような笑みに心を擽られ、何とかして空気を変えたくなった。
あまり派手な事は出来ないので、今度は悟が亜梨栖へと水を掛ける。
「きゃっ。もう、何するんですか」
「こうしないと、ずっと笑われるからな」
「嬉しかっただけですよ。酷い人です」
亜梨栖が拗ねるように頬を膨らませるが、悟の照れ隠しだと分かっており、目は柔らかく細められていた。
むしろ、ちょっかいを掛けられたのを喜んでいるのかもしれない。
「そんな酷い人にお願いがあるんです」
「何なりと」
「では遠慮なく」
亜梨栖が悟へと手を差し出す。それだけで何をして欲しいか分かった。
手をしっかりと掴んで悟の方へ引き寄せ、亜梨栖の頭を悟の鳩尾に当てる。
濡れて額に張り付いた銀糸をゆっくりと撫でれば、端正な顔がふにゃりと蕩けた。
「悟さんの顔と星空を一緒に見られる。最高の一時ですね」
「一時だけじゃなくて、いくらでも見て良いぞ」
何度見ても飽きる事のない、惚れ惚れする微笑を一番近くで見られるのだ。
それだけでなく、スタイルを強調した黒のビキニや、濡れて色っぽくなった姿も。
むしろ悟の方が最高の贅沢をしているのかもしれない。
「「……」」
星空の下で水に揺られ、言葉は交わさずとも幸せな時間を過ごすのだった。




