第112話 雨の中の散歩
六月も残り一週間となる頃、悟の住んでいる地域は梅雨に入った。
湿度が上がるとはいえ暑さが抑えられるので、亜梨栖は以前よりも機嫌が良い。
これまでと同じなら休日はダウンしているはずだが、今日は悟の横でのんびりとスマホを弄っている。
「梅雨だけが私にとって夏の救いですよ」
「気持ちは分かるぞ。でも、蒸し暑くないか?」
「そこは我慢ですね。湿度が高いよりも暑い方が問題ですから」
「ま、そりゃあそうだよな」
亜梨栖の体質を考えるなら当たり前の事だと、肩を竦めて納得した。
ただ、いくらインドア派とはいえ、ここまで元気ならいつもと同じく家に籠っているのも味気ない気がする。
提案するべきか迷ったが、平日は亜梨栖が辛い思いをしているので、気分転換になればと口を開く。
「折角気温が下がってるんだ。散歩にでも行くか?」
「そう言えば六月は行ってないですねぇ……。でも、雨降ってますよ?」
「多少濡れても構わないって。すぐに着替えれば風邪も引かないだろ」
梅雨であっても、長袖を着る選択肢が無い程には暑い。
また、傘を差すのでずぶ濡れにはならないし、風邪を引く可能性も低いだろう。
眉を下げて悟を見上げる亜梨栖の頭を撫でて、心配は無用だと示す。
「それで、どうする?」
「……兄さんさえ良ければ行きたいです」
「なら今すぐ行くか。晩飯は少し遅くなるけど大丈夫か?」
「はい。全然問題ないですよ」
普段ならば、もう少しで晩飯の準備に取り掛かる時間だ。
しかし今日は散歩以外にやる事などないので、焦る必要はない。
亜梨栖も同じ考えなのか、柔らかく笑んで頷いてくれた。
すぐに準備は終わったが、万が一を考えて風呂のスイッチを入れてリビングで亜梨栖を待つ。
それほど時間を掛ける事なく、彼女も自室から出て来た。
「お待たせしました」
「いいや、気にすんな。……というか、そんな服も持ってたんだな」
既に日は落ちており肌を気にする必要がないからか、亜梨栖の服装は簡素ではあるが、上質なのが一目で分かるワンピースだ。
それでも亜梨栖が着れば清楚さを醸し出すようになるので、美少女というのは本当に狡い。
とはいえ袖は短くふくらはぎは露出しており、とても普段着れるようなものではないのだが。
亜梨栖の性格上、あまり買うような服ではないので不思議に思えば、深紅の瞳が恥ずかし気に揺らぐ。
「一年前くらいに真奈の買い物に付き合ったんですが、そこで買わされたんですよ」
「こういうのも持っとけ、みたいな感じか?」
「ですね。一着くらい持ってると絶対に役に立つから、だそうです。当時は意味が分からなかったですが、今は買って良かったと思います」
「まあ、何だ。見せてくれてありがとな」
当時の真奈が悟の事を知っていたかは分からないが、おそらく男性を魅了する為に買わせたのだろう。
本来は家でのデート用に使うものだと思うので、用途は違ってしまったのは申し訳ない。
それでも部屋着を除き、亜梨栖にとっては数少ない半袖の服だ。
滅多に見られない服装に感謝を示せば、亜梨栖が柔らかく笑んで頷く。
「どういたしまして。という訳で行きましょうか」
「おう。雨の散歩デートだな」
機会は多くないとはいえ悟達は散歩するのに、雨というだけで非日常のように感じる。
ご機嫌な様子の亜梨栖と家を出てエントランスへ。
いよいよ雨の中に出るというところで、ふと亜梨栖が傘を持ってきていない事に気が付いた。
「アリス、傘はどうした?」
「え、一個あれば十分でしょう? 折角雨が降ってるんですから、こういう時にやっておかないと」
「なるほど、確かにな」
亜梨栖に悪戯っぽい笑みを向けられて、何をしたいのか瞬時に理解した。
折角のデートなのだし、よくよく考えれば互いに傘を差すのは勿体ない。
それに、悟達は普段外でくっつく事が出来ないのだ。
こういう時くらいは遠慮しなくてもいいだろう。
頬を緩め、持ってきた傘を開く。
「おいで、アリス」
「はい!」
花が咲くような笑顔を浮かべた亜梨栖が傍に来た。
それだけでなく、悟の腕に彼女の腕が絡みつく。
お互いに薄着をしているので、母性の塊の柔らかい感触がハッキリと分かってしまった。
嬉しさと恥ずかしさで頬が熱くなっているのを自覚しつつ、至近距離の紅玉の瞳を見つめる。
「……なあ、分かってやってるよな?」
「当然でしょう? 離れると濡れてしまいますし、遠慮せず堪能してくださいな」
何を当たり前の事を言っているのか、という風な茶目っけたっぷりの笑みを向けられた。
言いたい事は分かるし、多少濡れるのは覚悟しているが、出来る限り亜梨栖を濡らしたくはない。
これは仕方ない事だと自分に言い聞かせ、エントランスの外へと向かう。
「後悔すんなよ」
「それこそ何を今更、というやつですね」
全く動じない亜梨栖に溜息をつきつつ、暴れ出しそうになる心臓を抑えて散歩し始めた。
「「……」」
同じ傘の下で体をくっつけ、ゆっくりと歩く。
あまり強くない雨音と、時折通り過ぎる自動車の音だけが悟達を包んでいた。
彼女の体温と感触に理性を揺さぶられつつも、静かな時間を楽しむ。
「こういうのもいいですね。雨のせいで人も居ないですし、特別な感じがします」
「ああ。こんなデートなら何度でもしたいくらいだ」
ただ散歩しているだけだが、他人から見れば明らかに恋人だと思われる事をしているのだ。
最近の散歩では手を繋いでいたものの、今回はその比ではない。
噛み締めるような遅い歩みで、普段の散歩の目的地である公園を目指す。
辿り着いた公園は、今日も同じく人がいなかった。
「ここも変わらずですねぇ」
「むしろ普段居ないのに今日だけ人が居たら驚きだぞ」
雨を吸い込んでぬかるんだ地面を、躊躇する素振りすら見せずに歩く。
他愛のない会話をしつつ公園を一周し、後は帰るだけだ。
しかし亜梨栖が公園の中心で足を止め、顎に手を当てて思考し始める。
「どうした?」
「……あの、今から兄さんの気遣いを無駄にしますが、いいですか?」
「気遣い? 何かしてるか?」
「はい。私が濡れないようにって、傘を傾けてくれていたでしょう?」
「……バレてたか」
悟が持ってきた傘は普通の大きさで、いくら亜梨栖が女性であっても二人が入るには少々狭い。
なので亜梨栖へと傾けて悟は肩を濡らしていたが、察せられていたらしい。
誤魔化す気も起きずに苦笑すれば、顔を曇らせていた亜梨栖が嬉しそうに表情を緩めた。
「はい。でも折角ですし、はしゃぎたいんです」
「アリスがそう言うのは珍しいな。……まあ、いいか」
はしゃぐと言っても小学生のような事はしないはずだ。
それに、事前に風呂を沸かしているので、帰ったらすぐに着替えて体を温める事が出来る。
亜梨栖が濡れないようにと気遣っていたものの、それを無駄にされたと怒るつもりはない。
肩を竦めて許可すれば、絡まっていた亜梨栖の腕がするりと解けた。
「ありがとうございます。……では、行きましょうか」
「ん? 行きましょう?」
「ええ、そうですよ。濡れるなら一緒に、です」
「あ、おい!」
嫌な予感が背筋を這い上がり、頬を引き攣らせる。
そして、固まった悟から亜梨栖が傘を奪った。
彼女はすぐに傘を閉じて、雨に身を晒す。
悟の前でくるりと一回転する亜梨栖は、無邪気な笑顔を浮かべていた。
「んー! きもちいいですね!」
「…………ま、いいけどさ」
突然濡れる事になったが、それでも亜梨栖を怒る気にはなれない。
悟を振り回す彼女に呆れつつも、ここまで来れば悟も楽しまなければ損だと気持ちを切り替える。
雨はすぐに悟の服へとしみ込み、蒸し暑さなど気にならなくなった。
「えへへー。こういうの一度やってみたかったんです!」
「確かに。子供に戻ったみたいで悪くないな」
濡れる事などお構いなしに、亜梨栖が公園を再び一周する。
その後ろを、悟は頬を緩めながらついていくのだった。




