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第111話 悟の居ない家での過ごし方

「う゛ぅ……」


 亜梨栖ありすの一日は、甲高いアラームの音で始まる。

 今日も夏の熱さを味わうかと思うと空調の効いた部屋から出たくなくなるが、亜梨栖の事情で悟を振り回したくない。

 のそりと起き上がり、ぼさぼさの髪をなびかせて洗面所へ向かう。


「はぁ…………。学校行きたくないなぁ…………」


 真奈との触れ合いは別として、亜梨栖にとって学校とは味気のない場所だ。

 悟の家に居る為の理由なのでもちろん学業の手は抜かないが、それでも殆ど楽しみが無い。

 その上夏の暑さが押し寄せてきているのだから、嫌にもなる。

 勿論、真剣に頼み込めば休ませてはくれるだろう。少なくとも、亜梨栖の体質は変えようがないのだから。

 けれど、悟に甘えて怠惰な生活を過ごした先には何も残っていないはずだ。


「私はお兄ちゃんを支えたい。だから、学校が嫌だという理由で休む訳にはいかない」


 悟の隣に立つ為に。悟がもう一人で頑張る必要のないように。

 その為に亜梨栖は力を付けなければならないのだ。

 そして、その力の中には学業も入っている。

 勉学をおざなりにして、悟に甘えるだけの専業主婦になるつもりはない。

 ゆくゆくは子供を作って家で悟の帰りを待ちたいとは思うが、まずは一人前の大人になるべきだ。

 気合を入れなおして身だしなみを整え、着替えを済ませる。


「よし、完了。それじゃあ次はお兄ちゃんを起こさないとね」


 勝手知ったる悟の自室に入り、気持ち良さそうに寝ている悟に近付いた。

 穏やかな寝顔はずっと見ていたくなるものの、本当に実行しては遅刻してしまう。

 欲望を抑え、悟の肩を軽く揺らす。

 

「兄さん。起きてください」

「……ん。おはよう、アリス」


 あっさりと悟のまぶたが開き、眠たそうな瞳を覗かせた。

 寝起きにぼんやりしているのなら是非ともお世話したいのだが、残念ながら悟は起きた直後でも意識がはっきりしている。

 とはいえ愛しい恋人がしっかりとアリスを見つめ、挨拶してくれる。それだけで僅かな悔しさは吹き飛び、心が温かくなるのだが。


(寝起きのお兄ちゃんを独り占め。これは誰にも渡さないんだから)


 寝起きのだらけた姿を亜梨栖が独占している。

 その事実に背筋がぞくぞくと震え、頬がにやけそうになった。

 悟に勘付かれると羞恥で死にたくなってしまうので、必死にこらえて笑顔を向ける。


「おはようございます。すぐ朝食を作りますね」

「……その前に、今日もいいか?」

「もう、またですか?」


 最近の日課になっている行為をお願いされて、呆れ気味に溜息を零した。

 しかし悟が亜梨栖を心配してくれるがゆえの行動なのも分かっており、歓喜が胸に込み上げる。

 仕方ないなあという風な態度を取りつつも、内心で楽しみに思いながらベッドの端に腰掛ける悟の前に座った。

 男らしい骨ばった両手が亜梨栖の頬を挟み、至近距離から澄んだ黒の瞳に見つめられる。

 どんな小さな変化でも見抜こうとする真剣な視線に、どくりと心臓が高鳴ってしまった。


「……………………よし。今日も元気そうだな」


 ぱっと悟が手を放し、柔らかく笑む。

 悪態をついた亜梨栖がもう一度とねだる訳にもいかず、苦笑を浮かべて立ち上がった。 


「大丈夫ですって。本当に無理そうなら言いますから」

「分かってるけど、心配なものは心配なんだよ」

「ホント過保護ですねぇ」


 亜梨栖が熱さで体調を崩していないか。無理をさせていないか。

 それを悟は亜梨栖の顔を見る事で把握してくれている。

 だからこそ、頑張ろうと思えるのだ。


「ほら、早く着替えてください。朝ごはんの準備をしますから」

「はいはい。今日も起こしてくれてありがとな」


 洗面所に向かう悟を見送り、キッチンに立つ。

 もう朝食を作るのは慣れきっており、勝手に動く手に調理を任せ、頭では先程の悟の声を思い返していた。


「辛くても、お兄ちゃんがいるから頑張れるんだよ」


 実際の所、キツくないと言えば嘘になる。

 朝の弱い亜梨栖が早起きして朝食を作り、登下校は熱い日差しの中。

 帰ってきてからは晩御飯の用意や他の家事等、決して楽な作業ではない。

 それでも、これが亜梨栖の生きがいだと自信を持って言える。

 

「ふふ、今日の晩御飯は何にしようかなぁ。お酒に合うものを考えないと」


 明日は休みなので、悟は思いきり羽を伸ばすだろう。

 そして、酔った悟と触れ合うのは亜梨栖の楽しみでもある。

 その時を楽しみにしつつ、流れ作業で朝食を作り終えた。





「う゛ぁー。疲れたよー」


 いくら頑張ろうと思っていても、疲れはどうしようもない。

 学校から帰ってきて、汗だくの体のまま食材を冷蔵庫へ放り込む。


「もう限界……。シャワー浴びよう」


 帰ってきてからシャワーを浴びる事に関しては、既に悟の許可をもらっている。

 はしたないとは思いつつも、一刻も早く汗を流したくて制服をリビングに脱ぎ捨てた。

 下着はネットに包んで洗濯籠に放り込み、思いきり冷水を浴びる。


「んー、気持ち良いー!」


 このべたついた体を洗う瞬間が堪らない。

 それに、悟の前では出来る限り清潔な体を保ちたいのだ。

 本人は汗も悪くないと言っているし、亜梨栖は悟の汗なら大歓迎だが、それは別の話だろう。

 一応、一緒に汗だくになるならまだギリギリ納得出来るが、夏に外から帰ってきてそのままはプライドが許さない。

 しっかりと体を洗い、髪を乾かしてリビングへ戻る。服は面倒くさいので下着のみだ。

 決して悟が居る前では出来ないものの、これから暫くは亜梨栖の自由時間なので見られる心配はない。


「よし、片付け完了。それじゃあお楽しみといきますか」


 制服を自室のハンガーに掛け、悟の部屋へ。

 帰ってきてすぐにエアコンをつけていたお陰で、部屋は過ごしやすい温度になっていた。


「とう!」


 悟のベッドに思いきりダイブし、胸を彼の匂いで満たす。

 どうせ亜梨栖が一人の時に悟の部屋を使っているのはバレているのだ。

 たかが寛ぐ程度、何の問題もないだろう。


「しあわせぇ……」


 悟の体温がないのは少し寂しいが、代わりに濃ゆい匂いがある。

 安心出来る匂いに体を委ねると、一日の疲れが癒されていくようだ。

 ただ、体に元気が戻るのは余裕が出来るという事で。それはつまり亜梨栖の体に火が付くという事だ。


「お兄ちゃん……。おに、い、ちゃん……」


 火照った体に指を這わせ、更に熱を昂らせる。

 亜梨栖とて年頃の女子高生なのだ。そういう欲は人並みにある。


「……っ。まだしてくれないのかなぁ」


 それなりに悟を誘惑してきたが、まだ手は出してくれない。

 とはいえ手ごたえが無いという訳ではなく、日に日に悟の理性が削られているのは亜梨栖にも分かっていた。

 もしかすると、何か切っ掛けがあれば悟は折れるかもしれない。


「ふふ。大好きだよ、お兄ちゃん。……っ」


 その時の事を考えるだけで、体が昂っていく。 

 悟には絶対に言えない秘め事が、今日も始まるのだった。





 満足した後は少し仮眠を取り、悟が帰ってくる時間に合わせて晩御飯を作った。

 そして晩飯を摂り終わって頬を赤くした悟が、隣に座る亜梨栖の頭をゆっくりと撫でている。


「いつもホントにありがとなぁ」

「はいはい。もう聞き飽きましたよ」


 今日だけで何度も聞いた言葉に、悪態をつきつつも頬を緩めた。

 悟は酔いが深くなると、亜梨栖への感謝の言葉を口にしながら頭を撫でてくれる。

 お酒に合わせた晩飯を作るのは当たり前だと思っているが、やはり感謝の言葉は嬉しい。


「アリスは辛くないか? 夏バテだったらすぐに言うんだぞ」

「それも聞きましたから」

「でも俺は心配で心配で……」


 親代わりとして、恋人として、どうしても暑さが心配なのだろう。

 もしかすると、家事や料理を任せているのを気に病んでいるのかもしれない。

 何度大丈夫と言っても気にしてしまう恋人に、呆れと嬉しさを混ぜ込んだ笑みを向ける。


「心配は無用です。何度も同じ話を聞きたくないので、お風呂に入ってきてください」

「その前に、少しだけ」


 そう言って悟は亜梨栖を胸の中に入れた。

 アルコールの匂いに僅かに顔をしかめるが、それ以上に悟の汗の匂いが良過ぎて心臓の鼓動が早くなる。


「大好きだよ、アリス」

「……っ。私も、大好きですよ」


 耳元で囁かれた低く甘い声に、背中に甘い痺れが走った。

 動揺を押し殺してお返しの愛を囁くと、悟がゆっくりと離れる。


「ありがとう。それじゃあ風呂に入ってくるよ」

「気を付けてくださいね」


 ひらひらと手を振り、悟を見送った。

 一人になったリビングで、熱を逃がすように溜息をつく。


「ああもう、いっそ襲いたいなぁ……!」


 あんな風に呟くなど、襲ってくれと言っているようなものだろう。

 お酒が入った悟を襲うと後で凄まじい自己嫌悪に陥りそうなので、流石に止めておくが。

 それに、アルコールに負けたみたいで納得がいかない。


「お兄ちゃんの、いじわる」


 亜梨栖が勝手に盛り上がって勝手に落ち込んでいるだけなのだが、中々手を出さない悟にぼそりと文句を零すのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] なんだかんだでお互いに限界が近いようですなぁ。 しかしここまで来るとどわなキッカケが必要なのか、難しいところですね。ワクテカワクテカ
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