第107話 体育祭を終えて
亜梨栖達と昼飯を摂った後は、彼女との約束通り長居する事なく家に帰ってきた。
今日はお疲れだろうと、晩飯の用意や家事をして時間を潰す。
そして夕方になって、玄関の扉が開く音がした。
とっくに家事等は終わっており、ソファから立ち上がって迎えに行く。
「お帰り、アリス」
「…………ただいまです」
午後からもテントの中で熱さと戦っていたからか、亜梨栖の声には覇気がない。
普段はしゃんと伸びている背も曲がっており、疲れがこれでもかと表に出ている。
「取り敢えず風呂にするか? 汗掻いただろ?」
「ですね、今すぐ入りたいです」
「そう思って事前に準備しておいた。多分、もうすぐ沸くと思うぞ」
昼の時点で下着が透ける程に汗を掻いていたのだ。
制服に着替える際にケアをしてはいるはずだが、それでも風呂に入らず寛ぎたくはないだろう。
予想通りの言葉を亜梨栖が口にしたので笑みを作って胸を張れば、彼女が紅玉の瞳を大きく見せた。
「……ありがとうございます」
「お礼なんていいって。ほら、鞄を預かるよ」
「それは、ちょっと」
「む、駄目か。なら仕方ないな」
以前は持たせてくれたが、亜梨栖が嫌そうに顔を顰めたので素直に引く。
何か事情があって断ったのなら、悟が深入りしては駄目だ。
苦笑を浮かべてリビングに戻ろうとすると、シャツの裾を摘ままれる感覚を覚えた。
振り向いて亜梨栖の様子を窺えば、顔に焦りを浮かべている。
「触られたくないとか、そういうんじゃないんです。あの、いっぱい汗掻いたんで、その……」
「体育祭なんだから、汗を掻くくらい普通だろ。俺は気にしないけど、アリスが気にするなら止めておくよ」
どうやら、汗を掻いたジャージに触れられるのが嫌なので断ったらしい。
鞄越しなので気にする必要はないとは思うが、それはあくまで悟の考えだ。
勿論、中身を漁るつもりはない。
とはいえ無理矢理預かるつもりもないので、気に病まないで欲しいと微笑み、再びリビングへ向かった。
今度は止められる事なくソファに座り、亜梨栖の着替えと風呂が沸くのを待つ。
亜梨栖の方が先のようで、自室から出て洗濯籠にジャージを叩き込み、悟の隣に座る。
普段ならば肌が密着しているのだが、今日は拳一つ分距離が空いていた。
「着替えたんだし、傍に来てもいいんだぞ? 前は誘惑してきたじゃないか」
「今日はあれ以上に汗を掻いてますから。流石にちょっと……」
「別に気にしなくていいんだけどなぁ。前に遊びに行った時も言っただろ?」
「それは、そうですが……」
亜梨栖が以前と違って汗だくであっても、触れる事に迷いはない。
とはいえ、お互いの為に過度な接触は控えるべきだと思うが。
それでも安心させようと亜梨栖へ手を伸ばせば、彼女がびくりと肩を震わせる。
「もしアリスが嫌なら止めるけど」
「私が嫌というか、兄さんに嫌われるのが嫌なだけです」
「それは絶対にない。もし俺が汗だくで帰ってきたら、アリスは触れる事を嫌がるか?」
「そんな訳ないでしょう。むしろ、その……」
逆の立場でも亜梨栖は嫌がらないと確信していたが、淡く紅色に頬を色付かせるとは思わなかった。
亜梨栖も特殊な性癖を持っている事が改めて分かり、言った側ではあるが反応に困ってしまう。
このままではおかしな方向に行きそうな気がして、甘くむず痒い空気を咳払いで誤魔化す。
「なら、俺も触れていいよな?」
「う……。分かり、ました」
ただ触れるだけなのだが、改めて手を伸ばすと亜梨栖は怒られたように身を固くした。
この状況で普段のように触れ合う事など出来ず、苦笑しながら銀糸へと手を伸ばす。
少し湿った髪を労うように撫でれば、彼女の体から力が抜けていく。
「体育祭、お疲れ様だ。辛かっただろ?」
「そう、ですね。テントの中で時間を潰すのは、やっぱり地獄でした」
「もう終わったんだから、ゆっくりしてくれ」
「はい。……すみません、失礼しますね」
てっきり風呂に入るまでは少し距離を開けたままだと思ったのだか、意外にも亜梨栖が距離を詰めてきた。
普段と同じ、膝が触れ合う距離になった事で、亜梨栖が悟に凭れる。
亜梨栖の方へと体を少し傾けて胸の中に入れると、ふわりと普段と違う香りが鼻孔を掠めた。
(やっぱりこれはこれで良い匂いなんだけど、口にすると変態になるな……)
亜梨栖本来の爽やかな柑橘系の匂いと、制汗剤の匂いが混じっている。
その中に、隠しきれない汗の匂いがした。
男の劣情を煽るような、艶めかしい匂いは不思議とずっと嗅いでいたくなる。
流石に口には出来ないし、下半身が反応しそうになるので、程々にしなければならないのだが。
悟の内心をよそに、亜梨栖が大きな溜息をつく。
「はぁ……。落ち着きます」
「ずっと気を張りっぱなしだったもんな」
「それもありますが、やっぱり兄さんの事が不安で不安で仕方なかったんです」
「不安? どうしてだ?」
どうやら、亜梨栖の疲れはテントの中の熱さや日差しだけではなかったらしい。
不安と言われてもよく分からず首を傾げれば、呆れたような、非難するような視線をいただいた。
「兄さん、女子の間で結構有名になったんですよ? 私の幼馴染が滅茶苦茶格好いいって」
「はぁ……。そう言われてもなぁ。亜梨栖との変な噂が立たなければ俺はそれでいいんだけど」
「その点に関しては佳奈さんと良い雰囲気だからって事で、諦めがちになってたので大丈夫ですよ。家族ぐるみの付き合いだと判断されたんでしょう」
「なら良かった」
悟が心配していた事は、佳奈と一緒に居た事で杞憂となったようだ。
唯一のトラブルも見た人が少ない事と、状況がよく分からなかった事で流されたらしい。
安堵が胸を満たし、ホッと溜息をついたのだが、なぜか亜梨栖の瞳がじっとりとしたものに変わる。
「何が良かったですか。もし兄さんが佳奈さんと上手くいかなかったら紹介してくれと言われましたし、傍から見ても勘違いされないくらい仲が良かったって証明されたんですよ?」
「……まあ、何だ、すまん」
他の女子生徒からターゲットにされた事。佳奈の了承を得たとはいえ、仲の良い社会人達と思われた事。
それらは亜梨栖からすれば不機嫌になって当たり前だが、その感情を向けられた事がどうしようもなく嬉しい。
緩みそうになる頬を抑え、素直に謝った。
「許しません。兄さんは私のものなんですからね」
「当然だろ。俺はアリス専用だ」
「なら、その証明が欲しいです」
亜梨栖が悟の胸から顔を離し、顎を上げる。
その仕草で何を求めているかすぐに分かり、そっと唇を合わせた。
「ふ……」
「ん……」
もう毎日やっているので、とっくに慣れている。
それでも、瑞々しい唇の感触には飽きる事などない。
食むように唇を動かせば、華奢な体がぴくりと震え、すぐに悟へと凭れ掛かる。
「はふ……」
ゆっくりと唇を離せば、至近距離の宝石のような瞳は潤み、熱を秘めていた。
悟のシャツを掴み、もの欲しそうに上目遣いする姿。
女としての姿と汗の混じった濃い匂いが、悟の理性を容赦なく揺さぶってきた。
このままでは暴走しそうで、何とか亜梨栖を普段の調子に戻そうと彼女の首筋に顔を寄せる。
「あっ……」
悟の吐息が擽ったいのか、色っぽい声が耳朶を打った。
必死に理性を縛り付け、うなじ付近の彼女の匂いを堪能する。
後少しでも誘惑されてしまえば、悟はあっさりと暴走してしまうだろう。
しかし亜梨栖はジッと身を固くしているので、すぐに顔を上げる事が出来た。
「うん。汗をいっぱい掻いてもいい匂いだぞ」
「はぇ……? あっ!」
先程悟が何をしていたのか理解したようで、とろみを帯びた瞳が理性の光を取り戻した。
白磁の頬が一瞬で真っ赤に染まり、視線をあちこちにさ迷わせ始める。
危険な雰囲気を変える事が出来たが、今度は亜梨栖を落ち着かせなければ。
「あ、その、えっと……」
「悪いとは思ったけど、つい、な。嫌だったら引っ叩いていいぞ」
「いえ、恥ずかしいだけで嫌だとかは、ない、です」
「……そうか」
羞恥に頬を染めた亜梨栖が愛らし過ぎて、再びむず痒い空気になってしまった。
視線を逸らして短く応えたはいいが、会話が続かない。
向き合ったまま無言でいると、風呂場から音楽が聞こえた。
「お風呂沸いたみたいですし、入ってきますね!」
「お、おう、行ってらっしゃい」
脱兎の如くというのがぴったりと当てはまるように、亜梨栖が風呂場へと逃げていく。
バタリと扉が閉まったのを確認し、大きく息を吐いて体の熱を逃がした。
「あっぶねぇ……。流石にあの状況で手を出したらヤバかった」
悟の勘違いでなければ、亜梨栖は期待していたはずだ。
とはいえ汗の事を忘れていたようなので、最後まで行けたかは怪しいが。
何にせよ一難は去ったので、亜梨栖が風呂から上がるまでに下半身の熱を静めなければならない。
先程の艶っぽい亜梨栖や匂いを頭を振って追い出しつつ、心と体を落ち着かせる悟だった。




