第106話 体育祭の昼食
「初めて見たけど、何と言うか綺麗な学校だな」
あれよあれよという間に五月末となり、悟は目の前の建物を見上げる。
特段、悟が通っていた高校と違った点はない。
強いて言うのなら、校舎が妙に綺麗な気がするくらいだろうか。
もしかすると、有名な進学校という評判が悟の目にそう見せているだけなのかもしれないが。
「普通ですよ、普通。まあ、私は他の高校に通った事がないので分かりませんが」
事前に待ち合わせした佳奈が悟の隣でおかしそうに笑う。
妹である真奈と一緒に弁当を食べるだけなので、今日の佳奈はラフなワンピースだ。
しかしその服装が小動物的な可愛さを引き立て、社会人としての落ち着いた雰囲気と合わさっている。
亜梨栖という恋人が居るので悟は褒めなかったが、敷地内に居る男子生徒からチラチラと視線を向けられていた。
「その言い方からすると、佳奈はここの卒業生か」
「はい。あの頃の純粋な自分が懐かしいですねぇ……」
卒業した後で大変な目に遭ったからか、佳奈が哀愁を漂わせて遠くを見る。
こんな所で暴走させる訳にはいかないので、苦笑を浮かべて目の前の正門へ足を向けた。
「懐かしさに浸るのも悪くないけど、もう昼休憩だ。早くしないと二人に文句を言われるかもな」
「それは困りますね。ただでさえアリスちゃんが不機嫌かもしれないので、機嫌を損ねたくありません」
女性として、亜梨栖の気持ちがよく分かるのだろう。
話の腰を折った悟に不機嫌になる事はなく、佳奈が隣に並んだ。
文化祭と違って体育祭にそこまで警備は必要ないと思ったのか、門の前で簡単な質問をされるだけで中に入る。
正面の昇降口であろう場所に向かえば、そこには銀の髪を靡かせた少女と活発な小動物を思わせる少女が居た。
「来てくれてありがとね、お姉ちゃん! それとこんにちは、悟さん!」
「こういう時くらいお姉ちゃんしないとね」
「こんにちは、真奈。体育祭でも元気だな」
佳奈が来る事についてもう折り合いはついているらしく、真奈は申し訳なさに嬉しさを混ぜ込んだ笑みを浮かべている。
それでも溌剌とした声を掛けてくれる辺り、彼女の元気さは体育祭でも衰えている様子はない。
「当然ですよ! ……まあ、一人は完全にダウンしてますが」
真奈が頬を引き攣らせて隣へと視線を向けた。
そこには瞳に光が無く、どんよりとした空気を纏っている亜梨栖がいる。
いかにも不機嫌そうな態度だが、それでも亜梨栖は悟と佳奈へと頭を下げた。
「…………こんにちはです、佳奈さん」
「こんにちは、アリスちゃん。その、大丈夫?」
「ええまあ、何とか。体育祭なんか無くなってしまえという気持ちは変わらないですがね」
「あ、あはは……」
普段よりもワントーン下がった声で呪詛のように言葉を紡いだ亜梨栖は、それだけで妙な迫力があった。
その圧に佳奈が苦笑を浮かべ、乾いた笑いを零す。
「兄さん、わざわざ来ていただいてありがとうございます」
「わざわざとか言うなって。こんなの当たり前だ」
「……ありがとうございます」
五月末という事で春の陽気はほぼなくなっており、半袖でも暑いくらいだ。
そんな中、亜梨栖と悟の弁当を持って来るのは確かに大変だった。
しかし後悔はしていないし、何度でも同じ事をするだろう。
自信を持って答えれば、多少元気が戻ったのか亜梨栖がはにかんだ。
(にしても、ホントに辛そうだな……)
病人ではないので休ませられなかったが、今の亜梨栖は顔に疲れが見える。
体育祭に行かせた悟には資格がないのかもしれないが、彼女を労おうと手を僅かに浮かせた。
しかし今は学校の敷地内だし、亜梨栖へと男が近付いたせいで周囲から沢山の視線が向けられている。
状況を理解して手を下ろせば、少しの仕草だけだったにも関わらず、亜梨栖は悟が何をしようとしたのか理解したらしい。
嬉しそうに目を細め、柔らかい笑みを見せた。
「今は駄目なので、後でたっぷりしてください」
「分かったよ。それじゃあ飯にするか」
隣の姉妹に声を掛けるが、二人は呆れたような、微笑ましいものを見るような目をしている。
「多分、家でも普段からこんな感じなんだろうなぁ……」
「お姉ちゃんが来ていて良かったよ。アリス達だけだったら、何もしてなくても恋人と察せられそうだからねぇ」
「いや待て。何もしてないんだが?」
「はいはい。自覚がない人はこれだから……。ここじゃ人が多すぎますから、移動しましょうか」
訳が分からないと首を傾げるが、肩を竦める真奈に呆れた風に肩を竦められた。
問い詰めたくはあったものの、立ち話をし続けていては亜梨栖が辛そうなので、ぐっと堪えて移動する。
敷地の端にある校舎の裏に来たところで、佳奈と一緒にシートを引いた。
校舎が日陰を作り出し、しかもグラウンドが反対にあるお陰であまり人が居ない。
そういう場所を選んでくれた真奈に感謝しつつ、ようやく腰を下ろした。
「はぁ……。座っているだけなのに疲れました……」
「むしろ長袖で座ってるのって拷問だろ。ゆっくりしてくれ」
「はい。ここなら遠慮する必要はないですからね」
テントの中では何があるか分からないので、亜梨栖は念の為に長袖で居た。
しかし今は休憩中だし、日陰が突然無くなる事もない。
溜息をつきつつ、亜梨栖がジャージを脱いでいく。
半袖くらい家で何度も見ているので平気だと思ったのだが、予想に反して悟の理性がぶん殴られた。
(……これは目に毒過ぎる)
テントの中とはいえ、ずっと長袖で居たせいだろう。
亜梨栖は汗を掻いており、シャツが透けてしまっていた。
当然、彼女が着けている淡い水色のものが見えてしまっている。
一気に頬が熱くなるがずっと見ては失礼なので、指摘しなければならない。
亜梨栖に申し訳ないのもあるが、万が一男子生徒に気付かれるのは絶対に嫌だ。
「なあ、アリス。せめて肩にジャージを羽織ってくれないか?」
「え、嫌ですよ。折角涼めるのにどうしてそんな事をしなきゃならないんですか?」
「へー。アリスは見せびらかすのが趣味なんだぁ? 他人の趣味にとやかく言うつもりはないけど、見せるなら松原さんだけにした方がいいよ?」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべた真奈が亜梨栖を揶揄った。
悟の口から告げるのは恥ずかしかったので、正直なところ有難い。
佳奈はというと、亜梨栖の意図しない大胆さに尊敬するような目をしている。
「……見せびらかす?」
きょとんと首を傾げた亜梨栖が、自分の体に視線を落とした。
すぐに自分の状態に気付き、頬を一瞬で真っ赤に染める。
「~~~っ!」
「あれぇ? 松原さんに見てもらわなくていいの?」
「いいの! こんな準備してない状況で見せたくないの!」
「じゃあ準備してたらいいんだー!」
「ううううるさい! 黙ってよー!」
亜梨栖が真奈と仲睦まじいやりとりとしつつ、肩にジャージを羽織った。
ホッと胸を撫で下ろし、周囲へと視線を移す。
人は少ないものの、それでもほぼ全ての人から視線を向けられていた。
幸い亜梨栖の下着が見られた訳ではなさそうだが、悟へと嫉妬の感情が向けられている。
しかも男子生徒だけでなく、女子生徒からもだ。
(まあ、そりゃあそうか。全員可愛いもんな)
決して口には出さないが、今の悟の状況は両手に華どころではない。
その一番の原因は、やはり亜梨栖と親しい事だろう。
いくら亜梨栖とは家族のような立場であっても、あるいはだからこそ、悟の立場が羨ましいようだ。
女子生徒に関しては、傍で亜梨栖がはしゃいでいるのが親密に思えるのだろうか。
何にせよ、佳奈と一緒に家族を見に来た男として見られているのならそれでいい。
多少の負の感情を受けるくらい安いものだ。
「はいはい、二人共落ち着けって。ほら食べるぞ」
「はーい」
「……はぁい」
真奈は元気よく、亜梨栖は未だに羞恥に頬を染めつつ返事した。
すぐに弁当へと箸を伸ばし、舌鼓を打つ。
「松原さんが作った弁当って美味しそうですよねぇ」
「ん? 食べるか?」
「いいんですか!? では私のと交換で――」
「柊さんには私のを分けましょう。そっちは駄目です」
昼食を摂っていると普段の調子を取り戻したのか、亜梨栖が威圧感のある笑みを浮かべた。
おそらく、悟とおかずを交換させたくなかったのだろう。
頬を引き攣らせた真奈が大きく頷く。
「わ、分かった、分かったからその圧は止めて欲しいなぁ……」
「分かればいいんですよ。はい、どうぞ」
「ありがとー、アリス!」
揶揄ったり脅したりはするものの、それでも仲睦まじく会話する亜梨栖と真奈。
亜梨栖の雰囲気が柔らかくなったので、ある程度は気分転換になっているはずだ。
最初は悩んだものの、来て良かったと胸を撫で下ろす。
そんな悟へと、佳奈が柔らかい微笑みを向けた。
「アリスちゃんが元気になって良かったですね、先輩」
「ああ、本当にな。提案してくれてありがとう、佳奈」
「その言葉だけで十分ですよ。にしても、若いっていいなぁ……」
はしゃぐ女子高生を見つつ、社会人二人が生温い笑みを浮かべるのだった。




