第105話 弱さを見せて
「えっと、何で?」
何度か探られたし、亜梨栖が意味深に微笑んでいる事から、悟の帰りがなぜ遅くなったのか予想されている気がする。
それでも、ここまで惚け続けたまま来てしまったのだ。正直に告げる事は出来ない。
じっとりと手に汗が滲むが、必死に苦笑を浮かべて首を傾げた。
「分かりませんか?」
質問を質問で返され、言葉に窮してしまう。
感情の読めない笑みは「これが最後のチャンスだぞ」と言っている気がした。
いっそ怒るか泣くかしてくれればあっさりと折れる事が出来るのに、亜梨栖は決してしない。
深紅の瞳はジッと悟を見つめており、何も伝えなかったという心の中の罪悪感を暴かれているようだ。
「……ごめん」
結局、亜梨栖が何かをいう事なく悟が勝手に折れてしまった。
顔を俯けて謝罪したが、亜梨栖は問い詰める事なく淡い微笑みを浮かべて再び膝を叩く。
「取り敢えず、お膝にどうぞ」
「分かった」
話は膝枕してからのようで、短く応えて亜梨栖に近寄る。
シミ一つなく柔らかい膝に頭を乗せれば、細い指が伸びてきて悟の頬を摘まんだ。
本気ではなく軽くではあるが、それでも僅かな痛みはある。
覗き込むようにして悟を見下ろす亜梨栖の顔は、怒りと悲しみで彩られていた。
「私が兄さんの様子に気付かないと思いましたか? 帰ってきた瞬間に分かったんですが」
「……やっぱり、か」
悟をずっと想ってくれていた亜梨栖に、隠し事は通じないと思ってはいたのだ。
それでも一縷の望みを掛けて取り繕ったのだが、最初からバレていたらしい。
悟の言葉に、亜梨栖が形の良い眉を歪める。
「隠せないと分かっていたのに、どうして隠そうとしたんですか?」
「…………情けなくて。こんな姿、見せたくなくて。嫌われたくなくて、言い出せなかったんだ」
情けない大人だと、みっともない男だと、そんな風に見られて嫌われたくない。ただ、それだけの話だった。
結局全て亜梨栖はお見通しだったので、いっそ穴を掘って埋まりたい気分だ。
澄んだ瞳を今は見たくなくて視線を逸らす。
すると、頭上から長く重い溜息が聞こえてきた。
「私は以前甘えてくださいと、遠慮しないでくださいと言いました。忘れてましたか?」
「覚えてたさ。でも、今日は俺が勝手に落ち込んだだけだ。それで甘えたら駄目だろ」
「あのですねぇ……」
馬鹿なんですかといったものを感じる声色に「う」と小さく呻き声を漏らす。
悟の頬を摘まむ指が、僅かに引っ張る力を強めた。
「私が学校関係で落ち込んでた時、兄さんは癒してくれました。なのに逆は駄目なんですか?」
「それは――」
「男女の違いや歳なんて関係なく、とも私は言ったはずです。さあ、反論は?」
「…………ありません」
頼られたいのだと、頼って欲しいという想い。悟を支える為に強くなろうとした努力。
それを悟は踏み躙ったのだと自覚し、罪悪感に押しつぶされそうになる。
顔を腕で覆いたくなったが、亜梨栖の指が悟の頬を挟んで許さない。
強引に視線を合わされて怒られるかと思ったものの、彼女は苦笑気味に微笑んでいた。
「好きな人に良い所を見せたいという気持ちは分かります。私だってそうですから。でも、辛い時は頼ってくださいよ。じゃないと寂しいです」
「そう、だよな。本当にごめん」
「何の為の恋人なんですか? どうして一緒にいるんですか? 楽しい時間を共有するのも間違いではないですが、辛い時に支え合う為でしょう?」
「……」
悟の心を包み込むような優しい声に目の奥が熱くなり、何の言葉も返せなくなる。
ぐっと奥歯を噛んで込み上げる感情を堪えていると、細い指先が悟の髪をゆっくりと撫でた。
「悟さんがどれだけ情けなくても、絶対に嫌いになんてなりません。約束します」
「アリ、ス……」
「だから、話して欲しいです。愚痴でも、悩みでも、それが些細な事でもいいです。そうやって悟さんを知りたいんですよ」
「……っ!」
視界を滲ませるものを見せたくなくて、亜梨栖のお腹へと顔を埋める。
くすりと小さく優しい笑いが耳に届き、慈しむように亜梨栖の指先が動く。
その指先から亜梨栖の温かさが伝わってくる気がして、涙の勢いが強まった。
溢れ出る感情が、悟の口を勝手に動かす。
「…………別に、何か理不尽な事を言われた訳じゃない。ただ、俺がミスしただけだ」
「人間なんですから、そういう事もありますよ」
「俺が頑張って取り返せるなら、それで良かった。でも、先輩に迷惑を掛けたんだ」
「誰かに迷惑を掛ける事が嫌だったんですよね」
「ああ。……でも、分かってるんだ。社会人二年目のやつが、仕事を完璧に出来る訳がないって」
「当然ですよ。私にも、悟さんにも、出来ない事は沢山あります」
亜梨栖は悟を突き放さず寄り添ってくれる。理解してくれる。
それは、良い子であろうとした悟が、他人に迷惑を掛けたくないと分かっているからだろう。
そして社会人であってもミスはするのだと、人は万能ではないのだと優しく諭す。
勿論、悟も頭では分かっているのだ。けれど、感情はどうしても納得出来ない。
「でも、それでも、自分が許せなかったんだ」
「なら、これから許せるようになればいいだけです。もちろん一緒に、ね?」
取り返せるミスなら改善すればいい。その為に立ち上がる力が必要ならば、喜んで力を貸す。
決して一人ではないという宣言が悟の心を揺さぶる。
酒を飲んで忘れるのを悪だとは言わない。けれど、亜梨栖に弱音を吐き出す方が何倍も心が軽くなった。
「ああ。だから、これからも支えてくれるか?」
「言われなくても、ですよ」
「……ありがとう」
恋人の優しさと心強さを噛み締め、今だけは心地よい指の感触に浸る。
亜梨栖のお腹へ甘えるように顔を押し付ければ、励ますようにくしゃりと頭を撫でられた。
「いいんですよ。その第一歩として、まずはいっぱい甘えてください」
「そうさせてもらうよ」
深呼吸をすれば、肺に亜梨栖の甘い匂いが入ってくる。
温かな彼女の体温は、ずっとこうしていたくなる程に魅力的だ。
優しい指使いも、離れたくなくなる要因の一つなのだろう。
亜梨栖の全てが悟を甘やかし、勝手に傷付いた心を癒す。
ぬるま湯のような心地よい感覚に浸っていると、だんだん眠くなってきた。
「今日はこのまま寝てください。兄さんが寝たら、部屋に戻りますから」
悟の息遣いから察したのか、亜梨栖に魅力的過ぎる提案をされた。
今更離れる気も起きず、せめて意識が途切れるまでは亜梨栖の存在を堪能しようと思う。
けれど、何も言わずに寝たくない。
「……本当にありがとな。大好きだよ、アリス」
「私も、弱さを見せてくれる貴方が大好きですよ」
ありったけの感謝を込めて愛情を伝えれば、同じ重さの愛情を返してくれる。
それが嬉しくて、幸せで。穏やかな気持ちで意識を手放すのだった。




