第101話 在宅勤務の得と損
ゴールデンウィークが空けて一週間と少し。亜梨栖の恋人になったが、以前とそこまで変わらない日常を過ごしている。
とはいえ確実に距離は近くなったし、金曜日と土曜日に亜梨栖が悟のベッドで寝るようになってはいるのだが。
そして今日は付き合った事と全く関係ないが、悟の仕事に変化が訪れた。
「おぉ……! 久しぶりのスーツ姿ですね!」
「……約束通りに着たけどさぁ。これ、意味あるのか?」
目を見開いて瞳に輝きを宿す亜梨栖の圧が強く、頬が引き攣ってしまった。
家で仕事をするので、スーツに着替える意味はない。
それに今日はカメラで姿を映さずパソコンを触っているだけなので、私服のままでいいのだ。
もちろん、だらしのない恰好で仕事をするのは駄目だが、ここまでしっかりとした服を着なくともいい。
悟の引いた姿も気にする事なく、亜梨栖が鼻息を荒くして詰め寄ってきた。
「ネクタイ! ネクタイ着けていいですか!?」
「わ、分かった。いいぞ」
明らかにやりたいだけなのだろうが、この状況で嫌だと言う度胸など悟にはない。
背を逸らして距離を取りつつ告げれば、亜梨栖が拳を握り込んで溌剌とした笑みを浮かべる。
「やったぁ! さあ兄さん、大人しくしてくださいねー?」
「それ、ネクタイを着ける時のセリフじゃないよな……?」
悟の突っ込みは届いていないらしく、えらくご機嫌なテンションで亜梨栖が悟のネクタイを結び始めた。
しかし問題が発生したようで、彼女が手を止めて顔を顰める。
視線を下ろせば、先程まで亜梨栖が触れていたネクタイは結び方も緩く歪んでいた。
「……上手く出来ません」
「そりゃあ、普段使わない人が一朝一夕で出来る訳ないだろ」
亜梨栖の制服はネクタイを使わないし、普段着も同じだ。
どうやら手順は知っていたらしいが、そんな状況でネクタイを簡単に結べるはずがない。他人のならば尚更だ。
しゅんと肩を落とす亜梨栖を励ましたくて、彼女の頭を軽く叩く。
「だから、練習したいならしてもいいぞ。まだ時間もあるからな」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
亜梨栖が沈んだ表情を花が咲くような笑顔へ一瞬で変え、悟のネクタイを再び結び始めた。
楽し気に笑みながら手を動かす亜梨栖をジッと眺めていると、少しだけ頭が冷えて胸がむずむずしてくる。
(今更だけど、これって彼氏彼女がする事じゃないよな)
仕事に行く男性のネクタイを女性が結ぶ。
漫画のような光景と言えるだろうが、こんな事をする人達は恋人よりも関係を進めているだろう。
羞恥が沸き上がり悟の頬を炙るが、同時に嬉しさが胸を満たしていく。
結局何も出来ずされるがままになっていると、亜梨栖が満足そうな顔で悟から離れた。
「出来ました。これでどうですか?」
「……うん、ばっちりだ。ありがとう、アリス」
流石に悟が頭に思い浮かべている言葉は口に出せず、亜梨栖の頭を撫でつつ飲み込む。
幸い彼女には悟られなかったようで、蕩けた笑みを浮かべていた。
「兄さんのお世話なのでお礼は要らないんですが、悪くないですねぇ」
「お互いに良い思いをしたんだから、これでお相子だ」
逆の立場にはなれないので、ささやかなお礼をしてリビングに向かう。
朝食を終えて亜梨栖が後片付けをしようとするが、待ったを掛けた。
「就業時間までまだ余裕あるし、パソコンの準備はすぐに終わるから俺がやるよ」
「就業時間? パソコンの準備?」
きょとんと無垢な顔で首を傾げられ、嫌な予感に頭が痛くなる。
「……まさか、俺が在宅勤務って事を忘れてないよな? 通勤しないんだが?」
「……………………あ」
「マジで忘れてたのかよ」
どうやら、亜梨栖の中で悟のスーツ姿を見られるという事実が先行してしまい、それが何の為に行われたのかまで思考が至っていなかったらしい。
あるいは、テンションが上がり過ぎて頭からはじき出されたのか。
唖然とした表情で固まる亜梨栖に呆れを込めた溜息を落とし、食器をキッチンへ持っていく。
「という訳で、俺は時間があるんだよ。ほら、アリスは学校に行ってこい」
「そ、そうでした……。つまり、一緒に駅まで行けないんですね……」
「そんな『今知りました』みたいに言われても……」
何を言っているのかと肩を竦めつつ亜梨栖へ近付き、肩を掴んでくるりと反転させた。
傍に置いてある鞄を持ちつつ、玄関へと押す。
「ほら、もうすぐ出る時間になるぞ」
「そんなぁ!? もうちょっと、もうちょっとだけ!」
「駄目だ。遅刻しそうになって急ぐのは危ないからな」
重大な理由があるのなら一考の余地があるが、ただ悟の姿を見たいが為に残るのは却下だ。
焦って亜梨栖が日に焼かれたり事故などしてしまえば、悟は一生自分を恨み続けるだろう。
悟の気持ちが伝わったようで、亜梨栖はむくれながらも背中を押されてくれた。
亜梨栖がローファーに履き替える姿を後ろから見るのは珍しく、不思議な感覚に浸っていると彼女が立ち上がる。
この一週間の決まりになっているキスをねだられると思ったが、両腕を大きく広げられた。
その仕草だけで何をされたいのか分かり、嬉しさを混ぜ込んだ苦笑を浮かべる。
「今日はそういう気分なのか?」
「兄さんに騙されましたから、そのお詫びを所望します」
「そもそも俺は騙してないっての。……はいはい、分かりましたって」
元々拒否するつもりはなかったものの、じろりと鋭い視線を向けられて口ごたえは出来なくなった。
亜梨栖との距離を詰め、華奢な体を抱きしめる。
立ったまま彼女と抱き合った事などなかったし、悟と亜梨栖は玄関の段差を境に分かれている。
そのせいで、亜梨栖の頭が胸ではなく鳩尾に来ていた。
何だか亜梨栖が小さくなったように思え、整えている銀髪が乱れないようにやんわりと撫でる。
「はふ……」
どうやら不機嫌さはなくなったようで、満足そうな吐息が下から聞こえた。
僅かに距離を取り、亜梨栖の顎に手を当てて上を向かせる。
普段よりも悟が屈まなければならないが、瑞々しい唇に優しく食い付いた。
亜梨栖が気持ち良さそうに喉を鳴らすものの、時間が迫っているのですぐに離す。
深紅の瞳が一瞬だけ名残惜しげに細められ、けれど何も言う事無く悟に背を向けて玄関の扉を開けた。
外の朝日を間接的に受けながら、亜梨栖が柔らかく微笑む。
「それじゃあ、いってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
少し前とは逆で、悟が亜梨栖を送り出す。
それも悪くないなと思いながら、扉が閉まるまで亜梨栖へ手を振り続けていたのだった。




