第1話 五年ぶりの再会
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良い子にならなければ、と思ったのは小学一年生になった頃だった。
「ガキはうるせえし、もうお前には飽きたんだ。これ以上俺に関わるなよ」
リビングで泣き崩れる母を一瞥し、去っていく父。
幼いながらに、母が捨てられたという事は分かった。
それから母は夜遅くまで働くようになり、負担を掛けてはいけないと、我儘を言う事はなくなった。
家事や料理はきちんと覚えたし、迷惑を掛けてはいなかったはずだ。
ただ、父であった人が何の未練もなく去った事で、考え方が少しズレてしまったらしい。
家族ですら居なくなるのだから、友達というものが薄っぺらい存在な気がして、どうにも作る気になれなかった。
そうやって周囲と距離を置き続けて小学五年生となったある日。珍しく早く帰ってきた母は、弾んだ笑顔を浮かべていた。
「悟に紹介したい子がいるの! いいかしら?」
母が友達の居ない悟を心配した上での行動だという事は、十分に分かっている。
それでも、松原悟の頭に浮かんだ言葉は「面倒くさい」だった。
一人で過ごす事には慣れているのだ。なぜわざわざ友達を作るのか、全く理解出来ない。
しかし母に迷惑は掛けられないので、微笑を作って感情を誤魔化した。
「もちろん。今から会うんだよね?」
「そうよ。それじゃあ、入ってきていいわよー」
ゆっくりと扉が開き、リビングに家族以外の人が入ってくる。
一人目は母よりも若く見える女性だった。
そして二人目は入ってきたものの、女性の足に隠れている。
ほぼ間違いなく、二人は親子だろう。
顔は見えないが、子供の方は明らかに小学生よりも小さな体をしていた。
(うわ……。幼稚園児、かな)
どうやら母が紹介したい人は同年代ではなく、それよりも幼い子らしい。
小学生の悟が言える事ではないが、あまりに子供過ぎて我儘を言われそうだ。
もしかすると、お世話をしてくれと言われるかもしれない。
一人で過ごす気楽な時間が無くなるのが嫌で、流石に頬が引き攣ってしまう。
悟が困惑していると思ったようで、その子の母親が苦笑を浮かべた。
「ほら、お兄ちゃんが困ってるわよ。出てきなさい、アリス」
「う、うん……」
母親に促され、ゆっくりと女性の足から出て来る幼稚園児。
取り敢えず努力はするが、どうせ友達になどなれないし、いくら母の願いでもお世話は断るつもりだ。
――そんな気持ちは、その子の顔を見た瞬間に吹き飛んでしまった。
「は、はじめまして。みしろありす、です」
おっかなびっくりという風に頭を下げる幼女は、三城亜梨栖と言うらしい。
舌っ足らずでつっかえながらも、しかしはっきりと聞こえる甘い声。
他の幼稚園児とは比べ物にならない、愛らしい人形のような顔立ち。
悟とは明らかに違う、リビングの照明を受けて銀色に光る髪。
瞳は深紅に染まっており、ゾッとする程に澄んでいる。
「あ、えっと、松原悟。よろしくね」
驚きはしたが、悟の顔に浮かんだのは先程とは違って本心からの笑みだった。
挨拶を返せば、亜梨栖がくりくりとした大きな瞳を更に見開く。
「あ、あの、こわく、ないの?」
「怖い? 何が?」
「わたし、めとかみがへんだから……」
「変?」
あまりにも可愛らしいので自信はないが、亜梨栖の顔には外国人っぽさがないので生粋の日本人のはずだ。
そしてこの態度からすると、銀の髪と紅い瞳は生まれつきなのだろう。
何やら事情があるようだが、怖いとは少しも思わなかった。
「変じゃない。真っ赤な目も、きらきらしてる髪も、すっごく綺麗だよ!」
あまりにも彼女が綺麗で、可愛くて。神様が可愛らしさというものを出来る限り詰め込んだと言われても納得出来る。
鼻息を荒くして答えれば、亜梨栖の顔に歓喜の色が宿った。
「……っ!」
「あらー。良かったわね、アリス」
亜梨栖の母親が彼女の髪を優しく撫でると、宝石のような瞳が嬉しそうに細まる。
「うん!」
「アリスを褒めてくれてありがとう、悟くん」
「……は、はい?」
なぜお礼を言われたのか分からず、首を傾げた。
そんな悟をよそに、大人二人が盛り上がる。
「悟がこんな風に笑ってくれたのは本当に久しぶりよ。二人を会わせて正解だったわね」
「ええ。アリスも悟くんを気に入ったみたいだし、これなら何とかなりそうだわ」
頭に困惑を浮かべたまま会話を眺めていると、亜梨栖の母親が悟の前に来た。
彼女が腰を下ろし、悟と目線を合わせる。
「自己紹介が遅くなってごめんなさいね。アリスの母親の三城奏よ」
「よろしくお願いします。奏さん」
「礼儀正しい良い子ねぇ。そんな悟くんにお願いがあるの」
「お願い?」
髪と目の色は違えど、亜梨栖に似た顔が申し訳なさそうに曇った。
「私も彩さんと同じで夜遅くまで働かなきゃいけないから、アリスと遊んであげて欲しいの」
彩、というのは悟の母親の名前だ。そして言葉から察するに、奏と亜梨栖は悟達と似た境遇なのだろう。
少し前までは断ろうと思っていたものの、既にそんな気持ちなど無い。
とはいえ、幼稚園児とどうやって遊ぶかなど、悟には分からないのだが。
「わ、分かりました」
「本当にありがとう。あんまり我儘言ってお兄ちゃんを困らせたら駄目よ、アリス」
「はーい!」
亜梨栖は遊び相手が出来た事が嬉しいのか、奏の言葉に元気よく返事をした。
納得はしたものの、我儘過ぎたらどうしようかと苦笑する。
そんな悟の頭へと、彩の手が伸びた。
「ごめんね、悟。こんな事しか出来なくて」
「いいよ。心配しないで」
彼女と遊ぶ事を選んだのは悟なのだ。不安ではあるが後悔はないし、強制されたと思ってもいない。
今にも泣きそうに顔を歪ませている彩に笑みを返し、おずおずと亜梨栖へ手を伸ばす。
すると、目の前の幼女が溌剌とした笑みを浮かべた。
「よろしくね。さとるおにいちゃん!」
眩しい程の信頼をぶつけられ、愛らしい笑顔を向けられ、なぜか心臓が跳ねる。
沸き上がる感情に戸惑っていると、亜梨栖が悟の手を掴んだ。
柔らかく温かな感触に、心臓の鼓動が更に加速する。
「ね! ね! なにしてあそぶー?」
「え、えっと、どうしようか……」
「そうだ! さとるおにいちゃんのにがおえをかいてあげる!」
「に、似顔絵かぁ……」
やはりというか、遊ぶ内容は幼稚園児のものだ。
天真爛漫な笑顔に振り回され、悟の顔に苦笑が浮かぶ。
唐突な出会いから始まった、年の離れた悟と亜梨栖の関係。
これから大変だなと思いつつ、けれど嫌だという感情は湧いてこない。
むしろ胸は弾んでおり、沸き上がる温かいものに動かされるまま、亜梨栖のしたい事に合わせて遊ぶ。
自分がどんな父の息子なのか、全く自覚しないまま。
部屋に鳴り響く電子音に、無理矢理意識を覚醒させる。
横になったまま腕を伸ばして音を止め、のそりと体を起こした。
そのまま背伸びをすれば、凝り固まった背骨が悲鳴を上げる。
「いたた……。今になって、あんな夢を見るなんてなぁ」
先程までの夢の内容を思い出し、大きく溜息をついた。
懐かしくはあるものの、今ではあまり思い出したくない記憶だ。
ただ、あんな夢を見た原因には心当たりがある。
「まあ、仕方ないか。今日の予定が予定だもんな。にしても、高校卒業以来かぁ……」
高校を卒業し、大学生となる際に悟は家を出た。
本当ならば家族にも等しい存在であった幼馴染に、悟の住所を告げるべきだったのだろう。
しかしかなり悩んだ末、告げずに出て来たのだ。
連絡に関しても悟達の母親に頼み込んで絶っており、結果として今日まで彼女と会う事はなかった。
「……あぁ、気が重い」
先日、彩から連絡が来て「話したい事がある」と言われた際には、身を固くしたものだ。
しかも詳しい用件を告げず、時間と来る人だけを伝えて切られたのだから質が悪い。
出来る事なら遠慮したかったのだが、後を全て任せた身としてはそうも言ってられなかった。
「取り敢えず、片付けしないとな」
自室から出てリビングに入る。そこには、酒の缶や弁当箱が散乱していた。
昨日のうちに片付けをしていれば良かったのだが、最後の最後まで現実逃避した結果がこれだ。
後三時間程度で会う事になるので、もう駄々を捏ねてはいられない。
不安に揺れる心を誤魔化すように、掃除を開始するのだった。
「ふー。こんなもんか」
掃除始めてから二時間と少し。部屋は見違える程に綺麗になった。
ゴミはきちんと纏めて、キッチンへと押し込んでいる。
リビングからは見えないので、一時凌ぎにはなるはずだ。
何とか間に合ったという安堵の中、キッチンの水道水をコップに注いで飲み干す。
一息ついた後は、身だしなみの確認だ。
悟の家に来るとはいえ、部屋着で会うのはマナー違反だろう。
とはいえスーツを着る必要もないので、外出用のシャツとズボンに着替えるだけだが。
「よし、準備完了だ。あー、つっかれたぁ……」
客人を迎え入れる用意を終え、リビングのソファで寛いでいると、呼び鈴が鳴った。
すぐにインターホンへ向かい、エントランスの鍵を開ける。
「はぁ……」
ソファに戻る気も起きず、インターホンの前で溜息を零した。
もうすぐ彼女が来ると思うだけで、心臓の鼓動が早くなる。
何も告げずに居なくなったので、怒られるのだろうか。それとも、別の事を言われるのだろうか。
悟としては絶交されるのも覚悟で飛び出したので、今更会うとなっても困るだけだ。
逃げ出そうかとこの期に及んで考えていると、玄関の呼び鈴が鳴った。
ただそれだけの事なのに、びくりと体が跳ねる。
「……行くしか、ないか」
どこにも逃げ場がないのを理解し、頬を叩いて気合を入れなおす。
油断すると動かなくなりそうな足を必死に動かして、玄関へと向かう。
震える指先で扉を開ければ、家族である女性の姿が見えた。
「久しぶり、悟。元気にしてたかしら?」
「ああ、元気だよ。久しぶり、母さん」
昔から殆ど変わらず、良くも悪くも見た目は普通といった感じの悟の母――彩の姿に安堵を覚え、胸を撫で下ろす。
もし最初から幼馴染と会っていれば、これほど落ち着いた対応は出来なかったかもしれない。
「会社生活はどうかしら?」
「大変だよ。でもまあ、何とかなってる」
「ふふ。社会人になってもう少しで一年だものね。これからが大変よー?」
「分かってる。頑張るさ」
偶に彩は悟の様子を見に来ていたし、全く話さなかった訳でもない。
顔を合わせての親子の会話はあっさりと終わり、彩を家に招き入れた。
部屋の配置を知っているからか案内は断られ、彩が一人でリビングへと向かう。
母親を見送って玄関に視線を戻せば、彩とほぼ同じ年の女性が視界に入ってきた。
無表情であれば怖さすら感じる端整な顔が、柔らかく綻ぶ。
「大きくなったわね、悟くん」
「お久しぶりです、奏さん。高校生の頃から大して変わってませんよ」
五年前に会った時と変わらず、いかにも仕事の出来る女性、といった見た目の奏に頭を下げる。
もうかなりの歳のはずだが、三十代前半と言われても通用しそうな程に若々しい。
「そうでもないわよ。社会人の貫禄が出て来たわ」
「奏さんにそう言われると擽ったいですね。さあ、上がってください」
「それじゃあ失礼するわね。勝手に上がるけど、いいかしら?」
おそらく彩と同じように、悟達の再会の邪魔をしたくないのだろう。
これから何が起こるか分からないので、悟としても先にリビングへ向かって欲しい。
「もちろんですよ」
穏やかな瞳の中に、僅かに申し訳なさが宿る。
しかし何も口にせず、奏がリビングへと歩いていった。
改めて最後の一人を意識してしまい、彩と奏のお陰で落ち着いた心臓が、再び悲鳴を上げ始める。
手に汗が滲む中、扉の端から黒の日傘が現れた。
「え、っと……」
悟の家は3LDKのマンションで、エントランスに入ってからは直接日差しが入って来ない。
にも関わらず、まるで悟から姿を隠すように黒の日傘が視界を埋め尽くしていた。
困惑を言葉に乗せると、日傘がゆっくりと閉じていく。
少しずつ見え始める、傘の持ち主。
背中の中程まで伸ばされた、直接日の光を受けていないにも関わらず、輝いているように見える艶やかな銀髪。
長い睫毛に縁取られた、ルビーのように鮮やかな紅の瞳。
悟が最後に見た時からは考えられない程に、女性らしさを感じさせる体。
その全てが見えるまで、時間が遅くなったように感じられた。
あまりにも成長した彼女が美し過ぎて、どくりと大きく心臓が跳ねる。
「お久しぶりです。兄さん」
涼やかな声には感情が乗っておらず、人形のように整った顔は完全な無表情だ。
思い出の中の彼女との違いに、悟の思考がついていかない。
動揺でつっかえそうになる口を、必死に動かす。
「久しぶり、アリスちゃ――アリス」
身に纏っているのはシンプルなワンピースだが、それが逆に彼女を大人びた一人の女性として引き立たせている。もう子供扱いは出来ないだろう。
昔の呼び方を咄嗟に変えたが、寒気がする程に整った顔はぴくりとも動かない。
そのまま、お互いに無言で見つめ合う。
「「……」」
表情と同じく、瞳にも感情が浮かんでいない。
凍り付いたように固まった空気に、先に折れたのは悟だった。
「……どうぞ、上がってくれ」
「はい、お邪魔します」
全く表情を動かさないまま、五年前まで家族同然の間柄だった幼馴染が家の中に入る。
絶世の美女、という言葉が似合う程に美しく成長した亜梨栖に、蓋をしていた感情が湧き出すのを感じた。
本日二十二時過ぎに二話目を投稿します。




