九頭龍の終わり
ふっと。
龍は己の左前足をとらえていた忌々しい戒めが解けるのを感じた。
(人間どもがァッ……!)
龍の体内には人間への怒りで満ちあふれていた。
九つの首のうち六つを討たれ、さらに足にまでちょこざいな魔術をかけて動きを束縛してくる。
許せぬ。
目の前の難敵を倒した後はしばらく傷を癒やし、その後にこの恨みを万倍にして返してやろう。人という人を殺し尽くし、地を血で赤く染めてやろう。
それだけを愉悦に、龍は山から降り注ぐ白い矢に耐えながら前進を続けた。
もう少しだ。
もう少しで届く。
そうすれば、この身体からわき出る毒が術者を殺すだろう。身体中を紫に染めて、腐らせた内臓を吐き出して死ぬがいい。醜くただれたお前の死体をこの足で踏み砕いてやろう。
龍は足を進めようとした。進めて進めて少しずつその現実に――
近付けていなかった。
(――!?)
龍は驚いた。
身体を灼く痛みが今までとは違うことに。
前に目を向ければ飛来している矢の量が明らかに増えていた。
ぱっと見で――
文字通りの倍だ。
とんでもない火力の増量に、今まで少しずつ前進していた九頭龍の動きがぴたりと止まる。
龍の身体がぶるりと震えた。
(な、なぜだ!? なぜ今になって急に火力が二倍になる――!?)
龍は混乱した。
起こりえない。ありえない。
それなら最初から今の火力で打ち込めばいい。なぜそうしない? ありえない! なぜこんな変化が!?
だが、それは起こっている。
龍はもがき苦しんだ。
龍は抗おうとしたが、ダメだった。白い矢の奔流は龍の身体を呑み込み、一歩も前へと進ませなかった。
龍は知った。
もう己の生命力がゼロにまで削られつつある事実を。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!
龍は吠えた。
怒りのままに。
ままならぬ現実に。
死への恐怖を振り払うかのように。
だが、何も変わらない。
それはそのまま龍の断末魔の声となった。
(人間ごときがあああああああああああああ!)
永き眠りから覚めた古代の龍は、一夜のうちにとこしえの眠りについたのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
俺の両手は二本のマジックアローを延々と吐き出し続けた。
まさか本当にできるとは……。
「マジックアロー、マジックアロー、マジックアロー、マジックアロー、マジックアロー、マジックアロー――」
両手から放たれる白い矢が容赦なく九頭龍を打ちのめす。
これは……勝てたか?
二倍の火力。
さしもの九頭龍も身動きがとれないようだった。
今までじりじりと前に進んでいた山のような巨体が完全に動きを止めている。
もう少しだ。
もう少しで終わる。
攻撃は休めない。最後の最後まで削りきる。
「マジックアロー、マジックアロー、マジックアロー、マジックアロー、マジックアロー、マジックアロー――」
俺の両手から止めどなく白い矢が放たれ続ける。
やがて――
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!
九頭龍は咆哮を上げた。
それは龍の断末魔の叫びだった。
「マジックア――」
俺は魔術を止める。
九つ目の首――最後の首をへし折られた龍はそのままぐらりと体勢を崩し、轟音とともに地面に倒れた。
大きな震動が地面を揺らす。
終わった、か……。
俺は近くの木に背中を預け、はあ、と大きな息をついた。緊張がほどけていき、身体が弛緩していく。
いったい何時間戦っただろうか。
漆黒だった夜の闇は明け方を知らせる薄闇へと変わっていた。
さすがの俺も疲れてしまった。あの巨体が迫ってくる様子――距離がゼロになれば死ぬ緊迫感は尋常ではなかった。
そのとき――
倒れていた九頭龍の身体が白い光を放った。
九頭龍の身体が光となって天へと昇っていく。やがて、そこには龍の形にくぼんだ大地だけが残っていた。
俺は九頭龍の生態など知らないが――
あれは普通の生き物ではないのかもしれない。あれそのものが天変地異か何か……そういうものなのだろう。活動のエネルギーを使い果たして形を留めていられなくなったか。
だが、もうどうでもよかった。
疲れ果てた俺には何も考える気がしなかった。
向こう側の山の稜線から上ってくる朝日が陽の光を投げかける。閃光のような光が俺の顔を照らした。
暗い夜は明け――
朝がまた始まる。
太古から続く悪夢は終わった。
もうこの地で女がいけにえに捧げられることはないだろう。
少し先の未来でリュミナス領を九頭龍が暴れる絶望もない。
終わったのだ。
何もかも。
疲れ果てた俺は急速な眠気に襲われていた。まぶたが落ちる。ずるりずるりと身体が木から滑り落ちた。
なかば無意識のうちに言葉が漏れる。
「……ローラ。やったよ、俺は……。一〇〇人のうちの九九人じゃない、一〇〇人を助けてみせた……怖くて怖くて仕方なかったけど、やったよ……俺はまだ、君の英雄でいられるかな……」
すとんと俺の腰が地面に落ちた。
「なあ、ローラ――本当は早く帰って安心させてやりたいけど――少しだけ休ませてくれ……ごめん……」
そう言うと、俺は深い眠りへと落ちた。




