それを神の領域と人は呼び(下)
不可視なる神の戒め――!
その魔術を発動させた瞬間、ローラは身体からぐらりと力が抜けるのを感じた。
身体中の魔力が一瞬で蒸発するかのような感触――
今までに味わったことがないほどの急激な脱力感だった。
「ぐう……」
だが、意識を失うわけにはいかなかった。
なぜなら――
魔術が発動していないからだ。
ローラが放とうとした魔術――その力場はまだ小杖の先端にわだかまっている。
ローラに内在する魔力が足りないからだ。
その可能性は高いと発動前からローラは思っていた。
厄災の魔女――伝説に名を残す魔術師が扱っていた神域魔術。そんなものを学生のローラが容易に扱えるはずがない。
魔術の典型的な失敗ケースだ。
いつもなら魔術の力場は制御を失って消えていく。
しかし――
「うううううううううううううううう!」
ローラは諦めなかった。
アルベルトを助けたいと思ったから。
アルベルトを助けたいと願ったから。
アルベルトを助けると決意したから。
意地でもこの魔術を発動して、ほんの少しでも――アルベルトの勝機を押し上げたかった。
もうローラの体内にはかけらも魔力は残っていない。
でも絞り出すしかない。
ありったけを差し出してでも成功させなければならない。
それでも、そんなものではとうてい足りない。厄災の魔女――天才が造り出した領域ははるかに遠い。
力場は今にも消えそうだった。
どれだけをローラが差し出しても『力』はローラに応えない。
ローラは奥歯を噛みしめた。
それでも、やらなければならないから。
だから、いつもローラに力を与えてくれる人の顔を思い浮かべて、その名前を呼んだ。
「アルベルトさあああああああああああああああん!」
そのときだった。
誰かの声が耳元で聞こえた気がした。
「――!?」
ローラの頭に痛みが走る。
あの魔術書を読んだときのような――
「う、う、う、う、う……」
痛みのせいで意識がもうろうとする。
だが、ローラは気がついた。
からからだった体内に膨大な魔力があふれていることに。
だが、ローラは気がつかなかった。
自分の目が、血のような赤に染まっていることに。
なぜこんなことが起こったのか――ローラにはさっぱりわからない。しかし、どうでもよかった。もう今のローラには考えるだけの力がない。
ローラにあるのはただひとつの渇望。
目の前の魔術を発動させるだけ。
そしてそれは、今の自分ならばできる――!
再びローラは引き金となる言葉を叫んだ。
「不可視なる神の戒め!」
瞬間、停滞していた力場が解放された。
ローラは知った。
魔術は成功した、と。
ローラの瞳が急激に赤から青へと戻っていく。ぎりぎりで保っていた意識が闇の底へと沈んでいく。
自分程度の力ではたいして効果時間はないだろう。だが、ほんの少しの足止めにはなるはず。
薄暗くなっていく視界の風景にローラは最後の想いを込めた。
アルベルトさん――
わたしの精一杯です。受け取ってください……!
もうローラは限界だった。
意識を失ったローラはばたりと地面に倒れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「マジックアロー、マジックアロー、マジックアロー――」
もう何時間たっただろうか。
俺は右手から延々とマジックアローを撃っていた。
身体の奥底で感じていた熱は全身に広がりきっていた。特に左手の熱は無視できないほどだ。
だが、決して不快ではなかった。
むしろ、適温の日差しを浴び続けたかのように心地よかった。
……これは何なんだろうか……。
そのとき――
九頭龍の動きがおかしくなったことに気がついた。なんだろうか、左前足がうまく動かせないというか。
歩くのに苦労しているようだった。
急な異変に俺は眉をひそめる。
何が起こったのだろうか――
気にはなるが、チャンスはチャンスだ。
この瞬間に逃げてしまうべきだろうか。距離を置いて仕切り直せば確実に九頭龍を殺しきれるだろう。
しかし、気になることもある。
俺のマジックアロー飛行は細かく旋回したりできないので小回りがきかない。少しだけ距離をとる――という使い方は難しい。
というわけで逃げるなら一気に逃げて仕切り直しになるわけだが、そうなると九頭龍は俺を無視してこの辺を壊滅させてしまうかもしれない。
あるいは九頭龍のフェイントという可能性もある。
俺が手を緩めた瞬間、一気に間合いを詰めてくる。その場合、俺は死んでしまうだろう。
様々な可能性が俺の頭をよぎる。
最善手は何か――
「マジックアロー、マジックアロー、マジックアロー――」
やめよう、無駄に考えるのは。
俺にはこれしかない。
愚鈍の俺にできることなど、ただただ積み重ねるだけだ。
撃ちきろう。ここで九頭龍を押し切るのだ。
少なくとも俺の持ち時間がいくばくか増えたのは事実。その優位のすべてを火力に変換する。
俺の放ち続ける白い矢が九頭龍の身体へと降り注いだ。
動きがままならない怒りもあるのだろう――
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!
九頭龍が怒りの咆哮を上げる。
そんな威嚇などに俺はひるまない。
「マジックアロー、マジックアロー、マジックアロー――」
ひたすら打ち続けた。
九頭龍の首が残り三本になったときのことだ。
俺は九頭龍が体勢を整え、前進のペースを元に戻していることに気がついた。
どうやら九頭龍の異常は解決してしまったらしい。
……やはりそう簡単には勝たせてくれないか。
俺は思わず左手を握った。
左手を、握った。
左手――?
それはするりと俺の頭に入ってきた。
もしも、九頭龍の異変でわずかばかり冷静さを取り戻していなければ気づけなかったかもしれない。
俺は左手をじっと見た。
ひょっとして、この身体の熱さは体内の魔力が活性化しているからではないだろうか。
思えば、今日一日だけで何発のマジックアローを放っただろう。朝のフルバーストの準備だけでも一万発だ。
前に実験でマジックアローを八時間連続で撃ち続けたこともあったが全力ではなかった。
これほど長時間に渡って本気のマジックアローを打ち続けたのは生まれて初めてのこと。
いつもとは違う反応を示してもおかしくはない。
そして、左手の熱。
これは左手から魔力を放出したいと身体がシグナルを発しているのではないか?
魔術は左右どちらの手からでも出せる。左手から放ったこともある。
であるなら、この右手の射撃から左手の射撃に切り替えれば少しは落ち着くのだろうか?
しかし、俺は別のことを考える。
もうひとつの可能性があるのではないか。
……今まで試したことはなかったが――
両手から同時に出せたりするのだろうか?
右手で一発のマジックアローを撃つよりも、両手で二発のマジックアローを撃ったほうが強いのは当たり前。
単純に火力が二倍になるのだから。
だが、本当にできるのだろうか?
基本的に魔術は『一発動一発』が常識。なので、そんなことは起こらない。よって試したことすらなかった。
両手による一発動二発。
その非常識はありえるのだろうか。
実に馬鹿げた話、空想と願望の産物だ。
だが、今の俺の状態――何時間も同じ魔術を放ち続ける状況に陥った魔術師は過去にいるのだろうか。
今の俺のように、身体全体に高揚にも似た熱をまとった魔術師はいるのだろうか。
魔力をここまで活性化させた魔術師はいるのだろうか。
……俺自身にもさほど信じられない理屈なのだが。
だが、感じるのだ。
この左手が新たなる可能性をつかもうと――開こうとしているのを。
試すだけなら失うものもない。この土壇場だ。やれるだけのことはやっておこう。
「マジックアロー、マジックアロー、マジックアロー――」
マジックアローを射出する右手の横に左手を広げた。
引き金となる言葉を口にしてみる。
「マジックアロー」
熱くなった左手に魔力がほとばしるのを感じた。
いつもの感覚だ。
力が走る感覚。マジックアローが放たれる感覚。
無限にも等しいマジックアローの積み重ねが、今ようやく新たなる世界を切り開いた。
今この俺の両手に奇跡が結実する。
俺は見た。
両手から放たれる鮮烈なまでの一対の閃光を。




