それを神の領域と人は呼び(上)
俺がマジックアローを打ち続け――
九頭龍がそれに耐えながら距離を詰めてくる。
どれくらい経っただろうか。
そんな光景が――まるで何も変わらない止め絵のような状況がずっと続いた。
変わったのは二つだけ。
九頭龍の首が四本まで減ったこと。
俺と九頭龍の距離が三分の一――約四キロにまで減ったこと。
「マジックアロー、マジックアロー、マジックアロー――」
まずいな……。
スタートダッシュをかけた上で九頭龍の首はまだ半分くらいが残っていた。なのに、俺の保っていた距離は三分の一まで削られている。
おまけに――変調はもうひとつあった。
俺の身体の奥底が熱いのだ。ろうそくの炎がちろちろと燃えているかのような熱を感じる。
その熱さは時間が経つごとに少しずつ身体全体に広がっている――特に左腕の熱が激しい。
風邪でも引いたのか……? まさか、こんなときに……?
体調が悪い様子ではないのだが。これは何なのだろうか。
どうやら展開は俺に不利らしい。
……さて、どうすればいいのか。
マジックアロー飛行で逃げるのもひとつの手だが――九頭龍の移動速度だと俺がマジックアローを緩めた瞬間に一気に距離を詰められてしまうかもしれない。
あまり妙手とは思えなかった。
ここで最後の最後までマジックアローを打ち続けるしかないか。
九頭龍も傷だらけ。残った首にも余力はない。限界は近いはず。
まだ俺の負けは決まっていない――
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ!」
村からずっと走ってきたローラは足を止めて肩で息をした。右手にはライティングの魔術をかけた小さな杖を持っている。
ようやく鬱蒼とした林を抜けて湖の見える場所まで来た。
息を整えつつローラは湖へと目を向ける。
「――!」
はじめてローラは九頭龍の姿を見た。
それは大村長から教えられたとおり、九つの首を持つ巨大な龍だった。山と見間違うばかりの大きな身体が屹立している。
その龍めがけて――
対面の山の中腹から膨大な数の白い矢が飛び続けている。
そこがアルベルトのいる場所。
さすがはアルベルトのマジックアロー。その威力で九頭龍の動きをよく封じている。
よく封じているが――完璧ではない。
その証拠に、すでに九頭龍は湖から這い上がり、かなりの程度でアルベルトのいる山まで近付いている。
「……アルベルトさん!」
状況はよくわからない。
だが、そう簡単には勝てない相手なのは間違いない。
(……手伝わないと……!)
村に残っていて欲しい――
アルベルトからの希望を無視してローラがここまで来たのはそれが理由だった。
アルベルトを助けたい。
なぜなら――
今のローラは、夏休み前の無力なローラではないからだ。
ローラの小杖を持つ手がわずかに震える。
(……厄災の魔女の魔術を使えば――)
ローラの頭のなかには、あの書庫で見た厄災の魔女の魔術がくっきりと残っていた。
まるで習得済みの魔術と同じように。
おそらくは――
ローラが望めば発動できる条件は整っている。
(もちろん、わたしの魔力が持てば、だけど……)
厄災の魔女のオリジナル魔術。
そんなものを扱いこなせるかはわからない。
いや、それ以前に――
怖かった。
『決して厄災の魔女には関わるな』
村では何度もそう教えられた。
厄災の魔女の知識どころか。
厄災の魔女の力そのものだ。
そんな力が頭のなかにあることが怖かった。
そんな力を使うことが怖かった。
だけど、ローラは力を手に入れてしまった。
力を持ってしまった。
そして、眼前でアルベルトが苦戦している。
選択を与えられたのだ。
あなたは目の前の彼を救いますか? 救いませんか?
今までは楽だった。
そんな選択などなかったから。何もできないローラは、アルベルトが何とかしてくれるのを待つだけ。
だけど、もう違う。
ローラには力がある。アルベルトと同じ『世界を選択する力』が。
あなたは目の前の彼を救いますか? 救いませんか?
その問いに対する答えなど、すでに決まっている。
もしもここでローラが力を使わなければ、ローラはずっと後悔するだろう。
恐ろしくて恐ろしくて仕方がないけど――
今ここはその感情を捨てなければならない。
(そうだ! アルベルトさんのためだもの!)
ローラは覚悟を決めた。
厄災の魔女の魔術――その秘技のひとつを発動する。
「天にありしもの、そのすべてを堕とす力よ、我が声に耳を傾けよ。重を縛る鎖たる汝に告げる――!」
ローラは詠唱を開始した。
詠唱にはふたつの用途がある。
ひとつ目は己の力量不足を補うため。
完全に習得した場合は引き金となる言葉だけでたいていの魔術は使えるのだが、詠唱をおこなうことで成功率を上げることができる。
ふたつ目は魔術が強力すぎるから。
人の身で扱うには強大すぎるから。
これからローラが使う魔術はそれだった。
なぜなら――
これは神域魔術だからだ。
なぜ厄災の魔女が――ただの魔術師にすぎない彼女が王国を相手に戦えたのか。
その答えが神域魔術となる。
神域魔術とは普通の魔術とは違い、超広範囲、超長射程に影響を及ぼす強大な魔術である。
すなわち――神の領域とされるほどの。
現存する魔術書として公開されている数は数えられる程度。
それらすら、ほとんどの魔術師は習得すらできない。
厄災の魔女は彼女しか知らないオリジナルの神域魔術を無数に操り、王国と相対したのだ。
今ローラはその魔術のひとつを発動しようとしている。
それは重力を操作する魔術。
重さを持つあらゆるものを地に縛り、その動きを封殺する魔術。
この魔術を使えば――
少なくとも幾ばくかの時間は稼げるはず!
長い長い詠唱が終わり、やがて――
「不可視なる神の戒め!」
ローラは九頭龍に小杖を向けて引き金となる言葉を発した。




