その魔術書の名は――(下)
机に戻ったローラは、そこに置かれた一冊の本をじっと見ていた。
『厄災の魔女』
そんな題名の本を。
「うう……う……」
ここ数十分、ローラは本に手を伸ばそうとして何度も引っ込める動作を繰り返していた。
厄災の魔女――
骨のような白髪と血のような赤眼を持つ魔術師。
ワン・サウザンド――伝説の魔術師マグナスを越えるほどの攻撃魔術を習得し、その強大な力をもって王国に戦いを挑んだ女。
激しい戦いの末に倒されたが、多くの王国民が死に国土も荒れ、回復には長い月日を要した。
それは、この王国における『悪』の象徴。
それは、あまりにも憎まれたがゆえに名前すらも消された存在。
その血の末裔がローラの村の住民だった。
ローラは自分の顔を両手で覆った。
雪のように白い髪が揺れて、晴れた空のような青い瞳が指の隙間から本を見る。
「はあ……」
もう何度目かもわからないため息をついた。
その本のタイトルを見た瞬間――
(見ちゃいけない!)
ローラは反射的にそう思った。厄災の魔女の話は村だとタブーだ。
「ローラよ、魔術師を志すのなら覚えておくのだぞ。決して厄災の魔女のようにはなるな。人を慈しみ、優しさを忘れず、国への忠誠を胸に刻みなさい」
何度も何度も聞かされた。
だから、すぐ本棚の前から立ち去ろうとしたが――
身体が動かなかった。
ただ、瞳がそらせなかった。ぴたりと本に吸い付いたように――視線がそらせない。
興味がないと言えば嘘になる。
自分の祖先に関わる存在。
ただ、悪だとしか教えてもらえなかった存在。
知るな、としか言われなかった存在。
その情報がここにある。
(見て、みたい……)
ローラはその欲求にあらがえなかった。ぎゅっと握りしめた左手を開き、そっと本を棚から取り出す。
そして、元の場所へと戻った。
まるで怖いものから逃げるように歩いて。
それから机の上に本を置いて――
もうずっと開けずにいる。
最後の最後でローラの心は決断ができなかった。
(……やっぱりダメだよね……)
村で何度も言われたのだ。
厄災の魔女には関わるな、と。
その言葉がローラの行動を押し留める。
それでもローラは感じていた。一秒一秒――一分一分とすぎるうちに心の抵抗が弱まっていくのを。
――いいんじゃないかな?
そんな気持ちがじわりじわりと広がっていく。
――見ればいいじゃない?
そんな声が耳の奧で何度も何度も聞こえるようだった。
ごくり、とローラがつばを呑み、その白い喉が揺れた。
「……別に、……いいよね……。だって、本を見るだけだし……」
そう、つぶやいた。
まるで自分に言い聞かせるように。
だが、それはローラの心を軽くした。本を見るだけ――ただそれだけなのだ。
それだけの、ことなのだ。
ローラは震える左手を伸ばし――
意を決して本を開いた。
「こ、これは――」
その本は魔術書だった。
「え、厄災の魔女の魔術――!?」
ほとんどの魔術師は公開されている――マジックアローのような一般に出回っている魔術のみを習得する。
それだけでも大変なことだからだ。
だが、歴史に名を残す優秀な魔術師はその限りではない。
彼らはその才能を試すかのように、この世に存在しない魔術を構築する。
つまり、彼らだけしか知らない魔術を。
魔術とは料理に似ている。レシピがわかれば――鍛錬と魔力次第で使えるようになる。
よって彼らはレシピを隠す。
そのため多くのオリジナル魔術は彼らの死とともに消えてしまう。彼らが好意で後世に残さない限りは。
厄災の魔女――まさに天変地異を操るがごとき攻撃魔術の天才。
その魔術が、ここに。
ローラはページをめくった。
めくっためくっためくっためくっためくっためくっためくっためくっためくっためくっためくった。
目を離すことなど――もうできなくなっていた。
頭は空っぽだった。何も考えられない。その空白に、膨大な情報が飛び込んでくる。
息を荒くしながらローラは魔術書を読んでいく。
意識が少しずつ薄くなっていく。自分が自分でなくなっていくような――ただ文字が流れ込むだけのような――
ローラの青い目が、
少しずつ血のような赤へと――
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――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――
「う、ううん……」
いつの間にか気を失っていたローラはゆっくりと身を起こした。
「いたっ!」
頭が割れるように痛かった。ローラはその白い髪に手を当てる。
痛みが治まるのを待ってからローラはゆっくりと目を開けた。
開けた目の色は――
空のように青かった。
彼女の視界には閉ざされた魔女の本が置いてあった。
(あの本を読んでいたはずだけど……何があったんだろ?)
思い出せない。
急に気味の悪さを覚えたローラは勉強用に積んでいた本を置いて、魔女の本を覆い隠した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「やあ、ローラ。久しぶり」
声がした。
勉強中だったローラは跳ねるように顔を上げる。
「アルベルトさん!」
そこにはローラの友人が立っていた。
ちょうど別れてから一週間、約束どおりアルベルトが戻ってきた。
「勉強ははかどっているかい?」
「はい! 貴重な経験をありがとうございます!」
そう元気よく言った後、
「あ、あの、アルベルトさん――」
たどたどしい喋り方でローラが続ける。
「どうした、ローラ?」
アルベルトが首をかしげる。
ずっとローラは迷っていた。あの日のことをアルベルトに伝えるべきか。相談するべきか。
相談するべきだろう――
だが、少し怖かった。
――やーい、魔女の子、魔女の子! 白髪は近寄るな、呪いがうつっちまう!
子供の頃、近くの街で受けた迫害。
それが頭にちらつく。
アルベルトは決してそんな態度をとらない。ローラはそう確信している。きっと心配した顔でこう言ってくれるだろう。
――大丈夫か、ローラ?
絶対にそうだ。
間違いなくそうだ。
その信頼があるのに――なぜか声が出なかった。まるで声帯が何者かに締め上げられているかのように声が出ない。
沈黙が書庫を支配した。
それで話が尽きたと思ったのであろう、アルベルトの背後にいた女性の主任がローラに手を差し出した。
「ローラさま、書庫の鍵を返していただけますか?」
その言葉と同時、ローラの金縛りは解けた。
「あ、ははは、はい!」
ローラは慌てて預かっていた鍵をさしだした。女性主任はそれを受け取るとアルベルトに話しかける。
「アルベルトさま、侯爵家の跡継ぎになるお話は伺っております。この建物について簡単にご説明しますのでお時間いただけますか?」
「ああ、構わないが……」
ちらりとアルベルトがローラを見る。
女性主任がローラを見てにっこりとほほ笑んだ。
「別室にご案内します。甘味を用意しますから、勉強で疲れた頭を休めてください。書物の片付けはこちらでやっておきますので」
「……わかりました」
ローラはうなずいた。
アルベルトと女性主任が部屋を出ていく。
ローラは自分の心に宿っていた不安を――そっと包み隠した。
(そうだ……。何にもない、何にもないんだよ。ちょっと気分が悪くなっただけだもの)
ローラはそう納得して――己を納得させて――
(アルベルトさんは大切な時期にいる。こんな話をしても仕方がない……アルベルトさんも困っちゃうだけだろうし……)
そうだと言い聞かせて――
アルベルトたちの後を追った。
ローラがヒロインでハッピーエンド! それが執筆方針です。
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