アルベルトとアレンジア
俺は背筋が凍ったかのような――いや、俺の神経そのものが凍ったかのような感覚を覚えた。
目の前にいるのは――
アレンジア・リュミナス。
俺の弟。
俺よりもはるかに優秀な弟。
一〇年前、学院から逃げ帰った俺を――家から追放された俺を冷たい目で見ていたアレンジアを思い出す。
それは俺にとっての思い出したくない光景のひとつ。
「――く……」
俺はこぼれそうになる声を奥歯で噛み殺す。
それほどの痛みだった。胸を槍で刺されてもこれほどの痛みは感じないかもしれない。
きっとひどい顔だろう――
俺は俺の表情を想像して暗い気持ちになった。
一方、アレンジアの表情に変化はない。
一〇年前から何も変わらない、出会った瞬間に他人が思わず気を許してしまうような人好きのする笑顔をたたえている。
気づいていないはずはない。
アレンジアは何を思っているのだろうか――
アレンジアはにこにことした顔のまま口を開いた。
「シュトラム男爵、よく来てくれた」
「はい!」
「そうかしこまるな。遠慮せず近くに寄ってくれ。ドアの前に立たれたままでは話しにくい」
にっこりとほほ笑んでこう続けた。
「だって、君の貢献を讃えるために設けた場だからね」
「ありがとうございます!」
リヒルトの言葉には感激がにじんでいた。
リヒルトがアレンジアの執務机へと近づく。俺はアレンジアの顔から目をそらし、リヒルトの影のように従った。
アレンジアはじっとリヒルトを見た。
「シュトラム男爵、君の隊の活躍は聞いている。君たちの獅子奮迅の活躍により敵は混乱――結果、軍本隊の攻撃は最大の効率を保ったまま敵を粉砕せしめた。今日の大勝はまさに君たちの献身のたまものだ。私はそれを理解している。よくやってくれた」
「ありがたいお言葉! シュトラム家の誇りといたします!」
「私ごときの言葉など何の価値もない――いや、違うか。君が誇れるような立場にならなければな。そのためにも男爵、明日からも力を貸してくれ」
「はい! 力の限り頑張ります!」
アレンジアはうん、とうなずいた。
「話は終わりだ。男爵、下がってくれてもいいぞ」
「あ、お待ちください、アレンジアさま!」
「……何かね?」
「その、紹介したい人がいるんです。こちらの――」
そう言ってリヒルトは半身になって俺に手を向けた。
「魔術師アルベルトさん!」
……。
視線を感じた。
アレンジアの目がついっと動き――今、俺を見ている。
逃げ出したい。
もしも消失の魔術があるのなら、今それを自分自身にかけたい。
だが、そんな現実逃避を考えても意味などない。
俺は俺の現実と――あるいは過去と向き合わなければならない。
俺は顔を上げた。
アレンジアの瞳と俺の瞳が正面から互いを映した。
俺は口を開かない。
アレンジアも口を開かない。
俺は無表情に、アレンジアは口元に小さな笑みを浮かべて俺を見つめている。
しん、と空気の振動が止まる。
その沈黙を嫌ってリヒルトが慌てて口を開いた。
「アルベルトさんはですね、すごい魔術師なんですよ! この人がいなかったら俺たちは全滅していたかもしれない!」
「……へえ、そうなんだ」
アレンジアが薄笑みを浮かべて応じる。
その目が言っている。
本当に? この出来損ないが? 学院から逃げ出した男が?
お前にそんなことができるのか?
俺はぎゅっと手を握った。
リヒルトが話を続ける。
「アルベルトさんも軍に派遣された魔術師なんですよ。明日からはばりばり活躍してくれますよ、ね、アルベルトさん!」
「……そう、だな」
俺はうなずいた。
その声を絞り出すだけが精一杯だった。
リヒルトがにこりとした。
「そうか。それは期待したいね」
そして、こう続けた。
「はじめまして、アルベルト」
はじめまして、か。
……そうか、それがお前の答えか、アレンジア。
だがそれは――そう悪くはない対応だった。
栄達した弟のアレンジアが相手だからこそ、追放された兄である俺は自らのみじめさに息苦しさを覚えた。
だが――
目の前にいるのが知らない貴族だとするのなら。俺はただの平民の魔術師とするのなら。
二人に関係がないとするのなら。
何も悩むことなどない。
俺は頭を下げた。
「お初にお目にかかります、アレンジアさま。少しでもお役に立てるよう微力を尽くす所存です」
「君の活躍が私の耳に届く日を楽しみにしているよ」
にこにことした笑顔を崩すことなくアレンジアが応じた。
そして、アレンジアが右手を挙げる。
短い会談が終わった。
本部の建物を出るなりリヒルトが口を開いた。
「いやー、アレンジアさま、やっぱりオーラありますね! 王さまにも気に入られているらしくて、この件をうまく処理したら権力の中枢に入るとか噂されていて! すごいですよ!」
「はは……本当だな」
俺は苦笑した。
苦笑するしかできなかった。
興奮するリヒルトに別れを告げて俺はひとりで歩き出した。陣地は大勝に浮かれた連中であふれかえっている。
華やかな空気のなか、俺は冷えた心を抱えて歩いていた。
そのときだった。
「おいー? ありぇ? お前、アルベルトじゃねーの?」
酔っ払った声が飛んできた。
驚いて振り返ると――
そこには若い貴族が立っていた。年の頃は俺と同じくらい――俺の知っている、昔の俺を知っている貴族だった。
この戦線には多くの貴族が参加している。
昔の俺を知る人間がいてもおかしくはないのだ――
俺は腹にむかつきを覚えた。
「あー、やっぱり、アルベルトじゃーん。家を追い出されたんじゃねーの?」
酔っ払いの貴族がげらげら笑いながら俺に手を伸ばす。
俺は反射的にその手を払った。
「……人違いじゃないですか」
貴族の顔を見ずにそう言うと、そのまま貴族を置いて走り去った。
腹のむかつきは消えない。悔しさが喉をえぐる。
どこをどう走ったのだろうか。
いつの間にか俺は人のいない場所へとやってきた。もうとっくの昔に太陽は落ち、夜と月の世界へと変わっている。
遠くから聞こえる陽気な笑い声と陣地を灯す明かりがまるで異世界からの影絵のようだった。
「う……ぐ――」
とうとう我慢できなくなった俺は膝を折り地面に胃液を吐く。何も食べていなかったのが幸いだった。
げえげえとすべての胃液を吐き出した後、俺のなかには虚無感だけが広がっていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
二日後――
アレンジアの第二攻勢が始まろうとしていた。
フィルブスが口を開く。
「よし、行くぞ。アルベルト、ローラ」
俺がどんな気持ちであろうと世界は動く。時間は進む。
「はい」
いよいよ俺とローラの初陣が始まるのだ。




