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男爵リヒルト・シュトラム(下)

「リヒルト――さま」


 俺はそう言った。

 俺は貴族なのでリヒルトを呼び捨てにしてもいい。だが、俺はリュミナスの家名を名乗っていないので、平民の立場でいる。この世界の常識として平民は貴族に「さま付け」しないとダメなのだ。

 リヒルトは照れくさそうに首を振った。


「いいですよ、タメ口で! アルベルトさんのほうが年上だし――命の恩人だ! 偉そうにシュトラムなんて家名がありますけど、実はただの貧乏男爵ですから!」


 リヒルトは人の良さそうな顔で笑う。

 ……どうやらフィルブスの読みは当たっていたらしい。


「アルベルトさんたちはもうやることはないんですか?」


「そうだな。あとは寝るだけだ」


「なら、どうですか? 俺と一緒に来てもらえませんかね?」


「どこに?」


「この軍の総指揮官のところですよ!」


 この軍の総指揮官?

 さっき道のあちこちで兵士たちが褒めていたやつか。


「そんな偉い人と会えるのかい?」


「ええ。さっき報告にいったら、別働隊で無事に戻ってきた部隊の隊長は呼ぶように言われているらしくて――」


 そこで照れたようにリヒルトが笑った。


「じきじきに褒めてくれるそうで。頑張ったかいがありました!」


「それはよかったね」


 俺は首を傾げた。


「それでどうして俺たちを?」


「皆さんは命の恩人ですからね! こんな栄誉は俺だけが独り占めしちゃいけない! ここで会ったのも縁だと思うんですよ。紹介させてください!」


「……そうか」


 本当にリヒルトは人がいい。

 あまり気の乗らない話ではあったが、何となく彼の心遣いを無視するのも気が引けた。


「わかった。俺も行くよ。ローラはどうする?」


「うーん……そうですね……」


 ローラはためらった。

 おそらくはさっきのフィルブスの話が気になっているのだろう。

 曰く、総指揮官は『たいしたやつだが――薄情者だな』。


「疲れただろう? 気にしなくてもいいぞ」


「すいません。わたしは遠慮しておきます」


 ぺこりとおじぎするとローラは先に戻っていく。

 というわけで俺とリヒルトだけで歩き出した。

 その道すがら、俺は気になっていたことをリヒルトに訊いた。


「リヒルト、今回の戦いについてだが」


「はい」


「お前たちの別働隊は――その、大変な役割じゃないのか?」


「そうですね……第一別働隊は全滅したってききますしね……。わかってます。俺たちが捨て駒っていうのは」


「嫌じゃないのか?」


「そりゃ俺だって死にたくないですよ。でも、家の名前を上げるためですからね! 頑張るしかないですよ。そうやって成り上がっていった人もいます。俺もそうなりたいんです! 見ててください。すえは公爵ですよ、あははははは!」


 リヒルトは豪快に笑った。

 まるで死の影に震えそうになる自分を励ますかのように。ありえない大きな夢で神経を麻痺させるかのように。


 俺は胸に苦しいものを感じていた。

 リヒルトの言い分はそのままフィルブスの語ったシナリオだ。


 俺は頭が悪い。

 軍略として今とられている作戦の良さは判断できない。


 だが、目の前にいるリヒルトのような純粋で気のいい人間の心が利用されているのは気にくわなかった。

 俺は他人を粗末に扱うような人間を好きにはなれない。


「リヒルト」


「はい?」


「死ぬなよ。俺はお前に死んで欲しくない」


「任せてください。こう見えても悪運は強いですからね!」


 そう言うと、リヒルトはぐっとこぶしを握って見せた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「アレンジアさま、第四別働隊の隊長リヒルト・シュトラム男爵が到着されました」


「わかった。通せ」


「……あの、隊長のみというお約束でしたが、他の人間を随行されているようです。いかがいたしますか?」


「どうでもいい」


 大量の資料を処理しながらアレンジアは顔も上げずにそう言った。

 大将であるアレンジアにはやるべき作業が大量にある。

 彼が目指すのは勝利ではない。大勝利なのだ。

 本来ならば吹けば飛ぶような、彼が『死んでもいい命』と判断した存在になど割くべき時間は一秒もない。

 それでもアレンジアは時間を割くことにした。


(俺が一言「よくやってくれた」と褒め称えれば、あのゴミどもは涙を流さんばかりに喜ぶだろう。そして、明日も死にものぐるいで戦うはずだ)


 費用対効果がいい――

 そういう判断だった。


 実は本作戦における別働隊は生命線だった。彼らに頑張ってもらわなければ本隊のダメージが増える。かといって、別働隊のなり手はそれほど多くない。

 損耗率は高いが補充がきかないのだ。

 ならば、今の人員に死ぬまで頑張ってもらうしかない。


(本来ならば口すらきけない俺と会えるのだ。つまらない家の末代まで語れる自慢ができるではないか。立派に死んでこい)


 アレンジアの顔に醜い笑顔が浮かび上がる。

 だが――

 それは次に聞こえたノックで、いつもの人好きのする笑顔にすぐ置き換わった。


 すっと書類を机に置き、真正面を見てアレンジアが口を開く。


「入れ」


 がちゃりとドアが開く。


「第四別働隊リヒルト・シュトラム。参りました!」


 二〇くらいの若者だった。その顔は緊張で凝り固まっている。

 その緊張はアレンジアの心をくすぐった。自分が上であることを否応なく感じさせてくれる。

 そしてそれは、アレンジアの言葉を重いものとし、彼の士気をより高めるだろう。


(……さて……さっさと終わらせるか……)


 そう思ったアレンジアだったが――

 その後の光景を見た瞬間、すべての思考が吹き飛んだ。


 リヒルトの背後からひとりの人物が現れた。

 その顔が、その目が前を向く。


 アレンジアと男の目が正面からぶつかった。

 刹那、アレンジアは時間が止まったかのような錯覚を味わった。


 な――!?


 漏れそうな声を一瞬にしてアレンジアは呑み込む。崩れかけた表情を一瞬で固めた。

 それでも口からゆっくりと息が漏れる。


 アレンジアを見る男の目もまた、とまどいと驚きに揺れていた。


 アレンジアは知っていた。

 男の名前を。

 男の名前はアルベルト・リュミナス。

 一〇年以上前に家を追放された愚鈍な長男。アレンジアが世の中でもっとも唾棄する兄――


 二度と会うことはあるまいと思った男が目の前に立っていた。



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shoei
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