混沌の呟き
二日続けての投稿。
どうぞよろしく。
薄暗い顔をした俺は亡霊の様に立ち尽くし、ビルなどが建ち並ぶ街を背にしている。
その胸からは出血したらしい、真っ赤な血の跡が残っていた。
それを見た俺は、自分の胸元に思わず手を当てたが──何も傷ついてはいない。
「帰りたい」
そいつは小声でそう言った。
「帰ればいいだろう」
俺は少々いらついて応えた。
「帰りたい──おまえは、帰りたくはないのか」
「ぁあ?」
俺は俺と対峙しながら、無性に腹が立ってきた。こんなにも胸くそ悪い気分になるのは何故だろう? そんな風にどこかで考えながら……
「俺は帰るさ。だが、あっちの街じゃない」
「何故だ? おまえの生まれ故郷だろう?」
「確かにそうだ。しかし、今の俺には帰るべき場所が他にある」
「わからない」
俺の顔をしたそれは、無表情のまま言った。
「わからないぞ」
そいつは次第に大きな声で喋り始める。
まるで俺の怒りの感情に触発されたみたいに。
「分からないだと? ──当たり前だろう。何もかも自分の物にしてしまおうとするものが、人間のことを理解できるものか!」
俺は自然とそうした言葉を口にしていた。
そして自分が何者と対峙していたかを悟る。
こいつは……混沌だ。
この混沌は俺の中に入り込んで、この奇怪な夢を見せているらしい。
こいつは人の心を探ろうとしているのだと、俺は直感的にそう感じた。
「分からないに決まっている。お前のような、全てを取り込んで自分の物にし、他を認めないものなど、歪な自分にすら気づかずに自己完結して、自分の空虚な世界に閉じ籠もるしかできないんだからな!」
そう言い放つと、もう一つの俺がぶるぶると身体を震わせて、「うううう」とか「ああああ」といった声の重なった、嫌な音を口から出し始めた。
「なんなんだ、気色悪い。お前が人間を理解したいと思っているのなら、受け入れる事だ。ありのままを。人間とは、合理性も不条理も併せ持つ、理解し難いものなのだから」
そんな言葉を叩きつけると、奴は痙攣を止めて、また表情のない顔をこちらに向けてくる。
「わからない……」
そいつは最後にそう言葉を残し、まるで靄の中に消えていくみたいに、跡形もなく消え去ってしまう。
混沌が消え去ると、辺りの靄が晴れたように視界が明るくなった。
替わりに、二つあった道の先が一本道に変わっていた。
過去の懐かしい場所への道路は消え去って、古びた建物や、石造りの建物がある場所へ続く、土の道だけが残された。
道の先には白猫が俺を待っていて、俺がそちらの道へと歩き出すと、猫はくるりと背中を向け、道の先へと先導するみたいに歩き出す。
道の先には見覚えのある町があり、こちらもまた懐かしさを感じさせるものがある。
白猫の後を追いかけていると、どこかからか声が聞こえてきた。
いったいどこから聞こえてくるのか分からない、遠くで誰かが話し合うような声。
その声は懐かしく、安堵を感じる声だ。
頭の奥から、あるいは近くて遠い、──世界の裏側から聞こえてくるみたいな女の声。
それは静かな口調で話し掛けている。
その声を聞こうと集中していると突然、息苦しくなってきた。
まるで毛布か何かを顔に押し付けられ、呼吸がし難いみたいに。
道の先に居た猫の姿はなく、代わりに霞みがかっていた空に光が差し始めた。
するとその空から声が聞こえてきた。
「あっ、駄目ですわ。そんな風にしたら、息ができないでしょう?」
女の声に応えるように、猫の鳴き声が聞こえた。
(今のは……レーチェか?)
この時になって初めてレーチェという女の事を思い出した。
……ここは夢の中。だから記憶も曖昧で、まるで自分が自分でないみたいに感じていたのだろう。
それにしてもあの猫嫌いのレーチェが、猫と親しげに会話するようになるなんて……
彼女の様子が気掛かりな俺は、この悪い夢から目覚めなければと藻掻く。──しかし、どうすればこの息苦しさから解放されるのかも分からない。
「ウニャァ──」
と、顔のすぐ上から不機嫌そうな猫の鳴き声が聞こえた。先ほどよりも近くから、その声は聞こえてくる。
……その声はライムの鳴き声だ。
俺はそう理解すると不意に、瞼の感覚を思い出す。
何もかもを取り戻したみたいに、急に「感覚」というものを思い出した。
だがその感覚は鈍重で、身体の重さを取り戻した俺は、急に自分の上に重しが乗せられた気分になる。
億劫に感じるほど重い瞼を開けると、そこには俺の顔から離れていく、白い物体が目に飛び込んできた。
「ニャァ──」
俺の顔に張り付いていた猫の所為で息苦しくなっていたらしい。
白猫は嫌々をするみたいに身体を震わせ、持ち上げようとする女の手から逃れて、俺の胸の上に着地した。
「おふっ」
見た目よりも重い猫の体重。
白い猫は俺の顔の横に来ると、ごろごろごろと喉を鳴らしながら、その頭を俺の頬に押し付けてくる。




