イデアと魂
イデアとか神智学とか、ルドルフ・シュタイナーとか、気になる方は調べて見てください。
ためになるかどうかは分かりませんが。
ルドルフ・シュタイナーは『神智学』という考えの中で、こんな事を言っている。
「人間生活の中には、新しく何かを始めるとき、すでにこの世で習い覚えたことをするかのような、身近な印象を魂の素質に与える場合が存在する」
そうした感覚を「前世の記憶」とするのは容易い。そうではなく、ここはC・G・ユングの考える「集合無意識」について考えるべきだろう。
……おっと、これらの問題について、あまり多くを語るべきではないか。閉ざされた門を探るのもまた、「探索者」の為すべき事柄であるのだから。
「ははは……懐かしいな、シュタイナーか」
汗を拭いながら、俺は金鎚と鏨を置く。
気づけば象徴武具の鎌は出来上がっていた。白銀色に輝く刃の部分だけだが、驚くほど細かな、稲穂と波飛沫が合わさったみたいな、繊細な装飾が浮き彫りにされて浮かび上がっている。
ほとんど無意識に造り上げたそれを前にして、すぐに宝石を取り付ける二ヶ所を確認したが、ちゃんと窪みが成形されていた。
「うん、いい出来だ」
鑑定してみると、地と水の力が込められた魔力回路が安定し、刃の表面に反射する光の中に、青色や金色に光る光沢が映り込む。
近くで見ていたケベルとサリエも、固唾を呑んで見守っていた様子だ。出来上がった鎌を見て緊張を解いている。
技術は「目で盗め」と言われるのは、口頭で説明されるよりも、自分の頭で考えて出した答えと、現実にそれを試してみた結果が一致した時に初めて、確実な結論に至るからではないか。
真剣に他人の作業を見つめ、考える者にもまた、仕事の中に自らを投じて、自身を成長させる可能性を持っているのだ。
上っ面だけを見て、自分勝手な結論を得る者は、同じ場所を何度も何度もグルグルと回る危険がある。
そうしているうちに、その回転にばかり意識を奪われて、やがては回転の外にある物を弾き飛ばし、拒絶して、自身を疎外感の中に押し込めてしまう。
誤った考えを正しいと誤認した者は、あらゆる神秘からも遠く、理性の門の前を通り過ぎて行く浮浪者の様なものだ。
幸いにしてうちの徒弟は、自らに厳しく、そして考えても分からない事は、師匠に尋ねるだけの余裕も持ち合わせている。手の掛からない弟子達である。
間違いを正しいと感じる様な事が無いように見守っているが、彼らはそうした自身の心の動きにも敏感で、厳しく自制をしながら作業に取り組んでいた。
失敗すれば素材を無駄にするという緊張感のある作業の中で、一つ一つの作業から、多くの学びを得ようと努力する若者達の姿を見ると、こちらも負けてはいられないと奮起する気持ちが湧いてくる。
仕事の効率化の為だけに徒弟がいるのでは無い、と改めて感じた。──彼らの存在が、俺をさらなる鍛冶師の高みへと駆り立ててくれるのだ。
教えるという事は、教わる事でもあるのだと実感する。教えるには、その物事を深く考察し、理解するのが重要だ。もう一度、錬金鍛冶という仕事を考え直し、理想とする鍛冶のあり方や、必要とされる仕事とは何なのかを考え抜く機会も得た。
若い、新しい風を受け入れて、ますます高く飛び上がる鳥になった気分で、俺は造り上げた鎌を磨き上げる作業に入る。
それにしても、鏨と金鎚を使用して、こんなにも細やかな装飾を彫り上げるとは、我ながら──いや、これこそまさに、形相の具現化に他ならない。
俺は感成型について深く考えていたつもりだったが、金属に向かい合っているうちに、その金属の中から沸き上がってきる、完成型の形相を造り上げていたのだ。
それがプラトンの言うところの「イデア」だろう。
いざ作業を始めてみると頭の中で考えていた答えだったのか、それとも金属の中に答えがあったのか、分からなくなる。
自分は確かに仕事をしたし、象徴武具の鎌を造り上げたのは間違いない。しかし、その完成した物が、全て自分一人が成し得た事なのかは不明瞭だった。
熱い炉の前で作業をしたのは間違い無く俺だ。
細かな装飾を彫り込もうと決めたのも俺だ。
しかし完成したそれは、俺の想像していた物よりも──遥かに、完成度の高い物として生まれてきた気がする。
プラトンやアリストテレスは、こうした職人の気持ちを理解していたのだろうか。
もちろん満足のいく仕事ばかりでは無い。
時にはまだまだやれたのではないか、と思う事もある。
無心に取り組んだ仕事の先に、自身の予想を超える結果が生まれ出るというのは、奇跡を目の当たりにする気持ちに似ているだろう。
哲学者の思考、その中で得られる「閃き」にも、そうした感覚を覚える瞬間があるのかもしれない。
そう言えば、シュタイナーも物質界と霊界についての話の中で、同じ様な事を言っていた。
人間は体、霊、魂の三つからなっていると説き、鉱物的、植物的、動物的、人間的な部分があるとも説いていた。
物にもそうした部分があるのか、それとも人間の霊的な部分が物に投影されて、形相という形で具現化されるのだろうか。
「オーディスさん、どうかしましたか」
ケベルに声を掛けられて、はっとする。
「ん? いや……考え事をしていた」
見ると俺の手の中で、白銀色に輝く鎌がピッカピカに磨き上げられていた。艶やかな刃の表面に己の顔が映り込むほどだ。
「宝石を填め込み、とねりこの柄を差し込んで完成だ」
俺は黄玉と水晶を刃に取り付けると、次にとねりこの枝を取り、それを鎌に作った穴に填め込む為、削っていく作業に取り掛かる。
霊的な事象というのは、物質的な法則とは違う性質の世界にある、異なる理の中にあるもののはずだが、それらは互いに共通し、関係性を持ってもいる。
象徴とはまさにその典型的なもので、この二つの世界に橋を架けるみたいな役割があるのだろう。
シュタイナーは「肉体の諸感覚が物的存在を知覚するように、魂と霊の諸感覚は魂的、霊的存在を知覚する」と言っている。それはつまり、象徴が働き掛けるものとは、魂や霊という不可視の部分にあるのではないだろうか。
シュタイナーはこうも言っている。
「幾つもの事柄が、最初はただ比喩的な仕方で語られ、そして暗示されるにとどまっている。しかしそれはそうせざるをえないからである。なぜならこのような比喩は、人間を高次の世界の方へ向け、次いで自分でそこへ参入するようにうながすことのできる手段なのだからである」
人には分からぬ理の世界、そこには神の領域に関わる神秘という名の答えがあるのだろう。
とねりこの木を削りながら、ルドルフ・シュタイナーについて思い出せる事を思い出してみた。
神智学は人智学を基に、シュタイナーが作り出した神秘学だ。
それは人間の本質を見抜こう、発見しようとする考え方で──哲学や心理学、科学などを対応させる思考と観察の学問である。
過分に神秘学的ではあるが、人間の精神については、科学が発達した世界に於いても不明な部分が多い。それは人間自身が、己の事を実際は「よく理解していない」ところからも立証される。
何もかも理解しているのなら、人は間違いや失敗など起こさないだろう。また極端に言えば、いつまでも眠らずに活動を続け、寝ようと思った瞬間に睡眠に移行する事も可能なはずだ。
人間の身体や精神──生命や死とは、動物的な部分だけでなく、それ以上の意味を与えられた「神秘的な」何かなのではないだろうか。
「」内の文章の一部を、ルドルフ・シュタイナー『神智学──超感覚的世界の認識と人間の本質への導き──』から引用しました。
こういった本の内容を理解するには、この本だけを読んでも意味がほとんどありません。多くの関連する事柄についての知識や発想を得ていないと、偏った認識に誘導されがちなので注意が必要です。




