25話 侯爵夫人のお仕事
ヴァレンタイン侯爵家の執務室。以前までは滅多に使われることのなかったその部屋は、ここ最近、軽快な筆音が響くことが多い。
「ふんふーん♪ ふふふ、ふふっふふーん♪」
ロザリンドは執務室中央にある大きな机に紙をバラバラに置き、鼻歌交じりに凄まじい速度で書類を作成していく。
すっかりその様子に慣れたシンシアは、ポットお湯を注ぎ入れながらロザリンドに休憩を促す。
「奥様。そろそろ休憩にいたしませんか? 今日のおやつはチェリーパイです」
「チェリーパイ? 楽しみ」
ロザリンドは固まった筋肉をほぐすように腕を伸ばし、万年筆をペンスタンドに戻した。そして別の机にうずたかく積まれた紙束の上に、今完成したばかりの書類を重ねた。
「天気が良いので、テラスでいただきましょう」
「そうだね」
シンシアはテラス戸を開けた。
ロザリンドは青のモザイクタイルの装飾が施されたガーデンチェアに座り、久方ぶりに新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込む。
「んー! 気持ちいい」
「お疲れ様です。奥様が旦那様の仕事を手伝ってくださるおかげで、オルトンも大変助かっているようです」
「わたしはウィリアム様の妻だから。当然のこと」
最近、ロザリンドの中では「ウィリアム様の妻だから」と事あるごとに言うのが流行となっている。ロザリンドはもうお飾りの妻ではなく、本当にウィリアムの妻だ。そのため、今までは最低限だった侯爵夫人の仕事にも積極的に着手している。
「ですが、あまりご無理はなさらないでください。屋敷の管理、手紙の代筆、領地の税収報告書の作成まで……」
「ん? 全部終わったから大丈夫」
「ええ!? さ、さすが奥様……!」
「事務仕事は学院で授業補佐やっていたから慣れているし、論文作成もしていたから速記も文章作成も得意。ちゃんと研究時間も確保できているし、無理なんてしていない」
ロザリンドはシンシアの切り分けたチェリーパイを一口食べた。甘さとほどよい酸味が口に広がり、自然と頬が緩む。ロザリンドの味覚はほとんど正常に戻っていた。
「奥様が仕事をいっーぱい片付けたと知ったら、旦那様はすごくお喜びになられますよ!」
「そうかな。えへへ、わたしはウィリアム様の妻だからね」
「随分、楽しそうだな、ロザリンド」
低く優しげな声に反応して振り向けば、ウィリアムがチェリーパイをつまみ食いしていた。
ロザリンドは3日ぶりに会えた愛しい夫へ、突進する勢いで抱きついた。
「ウィリアム様、おかえりなさい!」
「ああ、ただいま」
ウィリアムはロザリンドの抱擁を易々と受け止め、目を細めた。
うっとりとロザリンドがウィリアムを見ていると、わざとらしい咳が辺りに響く。
「おっほん。……旦那様、手づかみでパイを食べるなどお行儀の悪い。奥様は破廉恥でございます」
「お、オルトン……ここは我が家なのだし、少しは……」
言い訳をしようとしたウィリアムを、オルトンは一睨みで黙らせた。
「いけません、旦那様。うっかり外でやらかしたらどうするのですか。そう、あれは旦那様が7才の時――」
「や、止めろ、オルトン! ロザリンドの前で俺の恥部を暴露するな」
「わたしはどんなウィリアム様でも受け止めるよ? ねえ、オルトン話して」
「君の前では立派な大人の男でいさせてくれぇぇえええ!」
ウィリアムは叫ぶとロザリンドの耳を両手で塞いだ。
ロザリンドは首を傾げる。
(ウィリアム様ほど立派な大人の男性はいないのに)
結局、読唇術が使えないロザリンドは、オルトンが語るウィリアムの子ども時代を聞けなかった。
すごく残念なロザリンドだったが、気持ちを切り替え、ウィリアムと一緒に午後の御茶会を楽しむ。
「ねえ、ウィリアム様。わたし、いっぱいお仕事したの。頑張った」
「ロザリンド、助かる。手紙の代筆をしてくれたのか?」
「うん。とりあえず、ウィリアム様が返事をする必要のない、ご機嫌の手紙は全部片付けた」
ロザリンドは「褒めて褒めて」と獲物を狩ってきた猫のようにウィリアムへすり寄った。
「……確か、四十通ぐらいなかったか……?」
「うん。でも、5日間徹夜で論文書いたときに比べれば全然だったよ?」
「そ、そうか……」
ウィリアムは微笑みながら紅茶を飲んだ。
「それと、領地の税収報告書も終わらせておいた。あと、大規模な治水工事を前々からやりたいってウィリアム様が言っていたから、食料備蓄に関する政策や予想される費用をわたしなりにまとめてみた。この先数年の収穫予測とかの資料も取り寄せて机の上に置いておいたよ。それから――」
「も、もういい、ロザリンド。後ですべて目に通す……」
「ウィリアム様のサインが必要な書類が300枚ぐらいあるから、それの後でいいよ」
「あ、ありがとう、ロザリンド……」
「どういたしまして。わたしはウィリアム様の妻だもの」
ロザリンドは照れて赤くなった顔を隠すように、両頬を手で押さえた。
「……私も男を見せなければな……ははは……」
「奥様はなんて素晴らしい御方なのでしょう。書類を滞納するのがお得意な旦那様には、もったいのう方です」
オルトンはハンカチで目頭を押さえながら言った。
「……ヴァレンタイン侯爵家の溜まりに溜まった仕事が終わりそうなことは置いておいてだ。ロザリンドに話しておかなくてはならないことがある」
ウィリアムはチェリーパイをフォークで切り分けながら言った。
ロザリンドはゴクリと喉を鳴らし、ウィリアムの目を真っ直ぐに見る。
「り、離婚話でなければ……」
「何故、話を重くする!? 離婚など、何があってもしないからな!」
ウィリアムは軽く咳払いをすると、切り分けたチェリーパイををフォークに乗せ、ロザリンドの口元へと運ぶ。
ロザリンドは迷い無くそれを口に含む。
ウィリアムは「甘い、甘すぎて幸せだ……」とチェリーパイを食べていないのに呟いた。
「……ウィリアム様?」
「ああ、すまない。話というのはな、懇意にしている公爵家が主催する夜会に出席してほしいのだ。私は軍務大臣という立場から、こういった催し物に参加することが多い。君はこういったことが好きではないだろうが、一緒に行ってくれるか?」
「わたしはウィリアム様の妻だもの。地獄だろうと夜会だろうとついて行く」
「……地獄と夜会が同列なのか。まあ、分からないでもないな……」
ウィリアムはしみじみとした顔で呟いた。
「それでは奥様のマナーレッスンを強化しなくてはなりませんね。特にダンスの練習になると、奥様は逃げ出しますから」
「……うっ」
オルトンの厳しい扱きを思い出し、貧弱なロザリンドはげんなりした。しかし、ロザリンドはウィリアムの妻だ。みっともない姿は見せられない。
(……ダンス、頑張らなくちゃ)
オルトンに決意の言葉を伝えようと彼の方を見る。しかしオルトンはシンシアに押しのけられ、「ぐはっ」と呻きながら膝をついていた。
「それよりも、旦那様! 当日の奥様の装いはどうなっているのですか!?」
「それは決まっていないが。……シンシア、鼻息が荒くないか……?」
ウィリアムの言うとおり、シンシアは顔を真っ赤にさせて息を乱していた。ロザリンドはシンシアが病気になったのかと心配の眼差しで見たが、彼女は天にも昇るような幸せそうな顔をしながら身体を震わせた。
「ええ、荒くもなります。鼻血が噴き出しそうな、未だかつて無い興奮が私の身体を駆け巡っています! 侍女になって苦節5年と8ヶ月と23日。……やっと、飾り立ててもつまらない男性ではなく、夜会という戦場へ向かう女性を飾り立てることができます……!」
「シ、ンシア……?」
いつも頼りになる有能な侍女の異常な姿に、ロザリンドは一歩身を退いた。しかし、すかさずシンシアがロザリンドの腕を掴む。
「こうしてはいられません! 奥様という美しい宝石を、さらに磨き上げなければ! まずはドレスが決まらないと動き出せませんね。奥様、すぐに一流のデザイナーをお呼びします!」
「シンシア!?」
目をキラキラと輝かせ、シンシアは強引にロザリンドを連れて行く。ウィリアムやオルトンに救いを求める視線を送るが、何故かロザリンドの思いは届かず、二人は目をそらしてしまう。
諦めたロザリンドは、シンシアを始めとするヴァレンタイン侯爵家の飢えた侍女たちの着せ替え人形とかすのだった――――
安心してください。ウィリアムはこの後、書類地獄です。




