冷や汗をかいたのは、下僕
引き続きロルス視点です。
ここでの生活が始まってから早数か月、俺は相変わらずぼんやりと過ごしていた。
「先生、頼まれていた資料整理が終了しました」
「あらあら早いのね、ありがとう」
ここに来て最初に頼まれた隣家の掃除を粗方終えてしまった俺は今、資料収集や資料整理を手伝っていた。
俺の新しい雇い主であるカメーリア様こと先生は収集癖があるわりに整理整頓が苦手のようなのだ。
まぁ日中の大半を石占いの仕事に費やしているので片付ける時間もないのだろうけれど。
それに気が付いた俺は、資料整理をさせてもらうことにした。
元々呪文学の資料整理を手伝っていたし、わりと得意だったから。
そして、仕事がないと余計なことを考えてしまうから。資料整理に没頭すれば、他のことを考えずに済むから。
「そうだわロルスくん、近所のケーキ屋さんでケーキと焼き菓子を買ってきてほしいのだけれどお願い出来るかしら?」
「もちろんでございます」
「よかった、それじゃあお客様用のお茶うけと、ロルスくんのおやつも買ってきていいわよ」
「いえ、私は」
「じゃあお願いね」
……俺は別におやつなど必要ないのだが。
そんなことを思いながら、指定された店へとやってきた。
店に近付いただけでお菓子の甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。この甘い香りで思い出すのは、お嬢様に無理やり口に突っ込まれた焼きたてのクッキーだった。
温かくて甘くて、口の中でほろほろとほどけていくクッキーを初めて食べたあの日、世の中にはこんなに美味しい食べ物があったのかと心底驚いた。
そして、お菓子を作ったお嬢様が纏うあの甘い香りが好きだった。
ケーキを作った日は、その甘い香りがとても強く長続きする。
世界一美味しいケーキと、世界一好きな甘い香りが同時に楽しめるあの瞬間が本当に好きだった。
「……はぁ」
暇さえあればこんな思考に陥ってしまう自分が本当に嫌いだ。
俺がお嬢様に対して好きだなんて思う、そんな汚い感情などどこかに捨て去ってしまわねば。
遠く離れてしまった今、この感情を持っていたとしてもお嬢様に気付かれることはないけれど。
だが俺はもうお嬢様の従者ではない。そもそもお嬢様をお嬢様と呼ぶことさえ許されないのだ。
俺はすべての感情に蓋をして、指定されたものを買ってただただ仕事のことだけを考えながら帰路についた。
それからしばらく経ったある日のこと。
隣家の掃除に行こうとしていた俺は先生に呼び止められた。
「今日は浄化の森について教えようと思うのだけれど」
「浄化の、森ですか?」
「そうそう。このお屋敷と、あなたに掃除をしてもらってる隣のお屋敷の間に小さな森があるでしょう?」
「はい」
その森のせいで隣家といえど多少遠いなと前々から思っていた。
「あの森の真ん中に、大きな水晶があるの。まぁとにかく行きましょう」
そう言った先生はさっさと歩き出した。
俺は何が何やらと思いつつも置いて行かれないようにと急いで先生の背後についた。
「ほら、あの洞窟の中よ」
木々の間をすり抜けながら歩くこと数分、先生がやっと立ち止まった。
そして目の前には小さな洞窟がある。その中に大きな水晶とやらがあるらしい。
「お客様を相手に石占いをやっているとね、石が多かれ少なかれよくないものを吸い込んでしまうのよ」
洞窟の中に足を踏み入れながら、先生はそう言った。
洞窟の中だというのにほんのり明るいと思えば、壁にぼんやりと光る宝石が設置されていた。さすがは石占い師が所有する洞窟といったところか。
「それで、これ」
先生の足が止まった。
そして、目の前にあったのは台座の上に乗っていて、棘の柱が六方に向けて生えたような巨大な水晶だった。
想像していたのと違った。もっと丸いものかと思っていた。お嬢様が持っていた水晶は丸かったから。
「この水晶はね、石が吸い込んでしまったよくないものを浄化してくれるの」
「石が吸い込んでしまったよくないもの……」
「よくないものを放置していると、占い師である私に悪影響が出たりするのよ。だからここで浄化するの」
よくないものが、占い師に悪影響を及ぼす……?
しかしお嬢様は浄化なんてしていただろうか?
「エレナお嬢様は浄化なんてしてただろうか、って?」
「え、その、それも、分かるのですか?」
俺の魔力量が少ないことを見破ったように、俺の気持ちまでも透けて見えてしまっているのだろうか、と少し身構えた。
「いえ、ただあなたの顔にそう書いてあっただけだから見えたわけじゃないわ」
「顔に」
「浄化については学園で習っているはずよ。学生ならまだ練習ばかりでしょうから大掛かりな浄化も必要ないし、手持ちの宝石の中に水晶が入っているでしょうから、それで充分」
「そう、ですか」
よかった、お嬢様に悪影響がないのなら。
俺が内心ほっとしていると、先生が水晶の前のテーブルに宝石を並べ始めた。
「ここに置いてしばらくすれば浄化は完了よ」
先生はそう言いながら近くにあった椅子に腰を下ろした。そして俺にも座るようにと椅子をすすめてきた。
「ここに居ると、小さな悩み事程度なら浄化してもらえるわよ」
「小さな悩み事……」
俺がお嬢様に向けている許されない感情も、浄化してくれたりするのだろうか。
「そういえばね、ロルスくん。エレナちゃんはとても優秀な子だそうね」
「はい」
魔力も学力も優秀で人望もあり石占いもそつなくこなしている。そう思った俺は即座に頷いた。
「私ももう若くはないから、この石占いを誰かに継承しなきゃならないの。だから優秀な石占い師になれそうなエレナちゃんに目を付けました」
あの、縁談のことか。「断られちゃったけれど」と苦笑を零しているし。
「でも、悪い話ではないと思わない? 王家からも気に入られていて他の石占い師よりもお給金はいいし」
「そう、ですね」
俺はそう答えながらも、そっと胸をおさえる。
図々しくもお嬢様を好きだと思ってしまった日から、お嬢様の縁談に関する話が出ると酷く胸が痛むのだ。
俺がずっとお嬢様の隣に居るのだと勘違いしてしまったから、お嬢様の隣に別の男が居ると思うだけで嫉妬をする。ただの盾だったくせに。
「エレナちゃんがこの国随一の石占い師って呼ばれるのよ?」
「それは、とても誇らしいことだと思います」
「そうよねぇ」
本当に誇らしいことだと思う。
お嬢様なら、この国随一の石占い師になれるとも思う。
「どうしても諦めきれないのよねぇ」
……と、俺に言われましても。
「ロルスくんも、諦めきれないわよね」
「……は、い?」
「毎日毎日苦しそうな顔をして、見てて可哀想になっちゃうわ」
「そんなこと……」
あるけれど。
あるけれど、だ。俺は諦めきれない、では済まないから諦めるしかない。
「諦めきれないことがあるって、つらいことなのよね」
「……まぁ、はい」
つらくて苦しくて悲しくて寂しい、本当はそう思っている。
「黙って耐えることも、たまには必要かもしれないけれど、それだけでは折れてしまうわ」
「え……?」
「職業柄、つらくて苦しい状態の人をよく見るのだけれど、今のあなたはまさにその状態なのよ。だからこの水晶の前に連れてきたの。水晶に向かって今の気持ちを声に出せば浄化してくれるから」
俺は、毎日毎日そんなに分かりやすい顔をしていたのだろうか。
確かに、仕事をしていない間はお嬢様のことを思い出しては心配してみたり苦しくなってみたりしていたけれども。
それでも、顔には出さないように隠していたつもりだったのに。
「まぁでも浄化してもらったところで解決はしないのよね。そして今のあなたは唯一気を許した人であるエレナちゃんが側に居ないから折れることも出来ない」
「……折れずとも、そのうち立ち直ります」
そう呟くと、先生の口が「無理」と動いた。無理て。
「だってあなたたち、本当はばらばらでは生きていけないんだもの」
「……え?」
「あらいけない、もうこんな時間だわ。ロルスくんにもう一つ頼みたいことがあるのだけれどいいかしら?」
「は、はい」
今言った言葉の意味は教えてくれないのだろうか。
猛烈に気になる言葉だったというのに。
「洞窟を出て右手側に湧き水があるの。その湧き水でこの水晶を磨いてほしいの」
「はい」
「この水晶は自分で自分を浄化できるんだけど、綺麗な水で磨いてあげることで浄化する速度も力も上がるのよ」
「そうなのですね」
「というわけで、お願いね。私は次のお客様が来る時間だからもう行くわね」
じゃあ頑張ってね、とだけ言い残して、先生はこの場から去っていった。忙しい人だ。
しばらく呆けていたが、ふと我に返った俺はそっと洞窟を出る。
洞窟を出て右手側にある湧き水とやらを探すために。
「これか」
湧き水は透明度が高くとても美しい。ものすごく冷たかったけれど。
側に桶と柔らかな布があったので、これで磨くのだろう。
あの水晶はきっと俺の出すよくないものを吸い込んだはずなので早く磨いてあげなければ。
どの程度の力で触れていいものなのかとおっかなびっくりしつつも水晶を磨く。
見れば見るほど綺麗な水晶だ。
先生は水晶に向かって今の気持ちを声に出せば浄化してくれると言っていたが、本当なのだろうか。
本当なのだとしたら、今ここで口に出してしまえば、俺は楽になれるのだろうか。
盾という立場から逃げ出した俺が、楽になってもいのだろうか。
俺はしばし葛藤した後、小さく口を開いた。
「つらくて苦しくて悲しくて寂しい……。俺は昔から、お嬢様が側に居ないと寂しいのです。出来ることなら、もう一度会いたい。もう二度と離れたくない」
この気持ちを浄化してくれたなら、お嬢様を忘れられるのだろうか。
その日の夕食時、俺は先生から衝撃的な言葉を聞いた。
「ロルスくん、あの水晶磨いてくれた?」
「はい」
「よかった、ありがとう」
「いえ」
「そういえばあの時言い忘れたんだけどね、あの水晶は結構な魔力を持ってるのよ」
「そうだったのですか」
自分に魔力がないからか、何一つ感じることは出来なかったが。
「それでね、あの水晶に願い事を言ったら叶えてくれるの」
「え?」
なんだって?
「他の人には内緒ね。願いが叶うなんて知ったら皆が殺到しちゃうから」
「は、はい」
俺はあの水晶に向かって何を言っただろう。
ただ今の気持ちを吐き出しただけだったか?
いや、そうでもなかった気がする。いや? あれは願い事か? 願い事と判断されたか?
もしかしたら、俺はとんでもないことをしてしまったのかもしれない、俺はそう思ってしばらく不眠になった。
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