呪いを恐れたのは、アルファーノ伯爵
今回はエレナのお父様視点となっております。
「はぁ……」
アルファーノ家の執務室に、大きな大きなため息が響き渡った。
「やはり失われた魔法である呪文の解析は、一筋縄ではいかないようですね」
なんとも情けなく眉を下げている執事を下がらせて、俺は頭を抱えながら、もう一度盛大なため息を零す。
「エレナ……」
ここには居ない、最愛の娘の名を呼ぶ。
エレナは最愛の娘であり、俺の最大の弱点とも言える。
名家アルファーノ家歴代当主の中でも群を抜く魔力量を誇り、欲しいものは全て手に入れ、向かうところ敵なしと称されたこのオスカル・アルファーノの、最大にして唯一の弱点。
と、説明調で語ってみたものの、それは周囲が勝手に持て囃していただけのこと。
俺はアルファーノ家の長男として生まれてからというもの、何事にも興味を持たずに生きてきた。
伯爵家の跡取りとして生きていくように教育を受け、伯爵家の得となる人物と結婚して跡継ぎを設ける、それが自分の義務だった。
義務だと割り切って結婚した女は、伯爵家の地位や資産目当てでなく、俺の顔が好みだという理由で近付いてきた女だった。地位だの資産だのを目当てにじりじりと寄ってくる女に比べればいくらか素直だったので彼女に決めただけ。
そんな彼女は早々に長男を出産してくれた。跡取りが生まれたわけだから、そこで俺の全ての義務は終わったのだ。
全ての義務から解放され、肩の荷が下りて安心しているところで生まれたのが第二子である長女エレナだった。
長男には次期伯爵としての教育を施さねばならないが、長女にその教育は必要ない。ただただ愛くるしいだけの生き物がそこに居た。居てしまった。
ぽわぽわした髪の毛に、もちもちすべすべした肌の愛くるしい生き物。
もちもちすべすべの頬を撫でれば、つつけば、きゃっきゃと笑う愛くるしい生き物。
その娘という愛くるしい生き物に骨抜きにされるまで、大して時間は掛からなかった。
「エレナは俺が腹を痛めて産んだ気がする」
「いえ、僕かもしれません」
おっと骨抜きになったのは自分だけじゃなかった。
「お父さま、僕にもエレナをだっこさせてください!」
「勉強が終わったら抱っこさせてやろう」
「おわりました!!」
「くっ、なんと優秀な長男なんだ……!」
こうして毎日のように俺と長男ハンスとでエレナを奪い合う日々が続いた。
俺とハンスとでエレナを奪い合い、それを微笑みながら眺める妻が居て、何事にも興味を持てなかったあの日々とは正反対の、それはそれは充実した日々だった。
しかし悲しいかなその幸せで充実した日々が長く続くという保障はないらしい。
「お父様、相談があります」
我が家に広がる暗雲に、いち早く気が付いたのはハンスだった。
本来ならば仕事を終えてエレナを構い倒す時間なのだが、ハンスは入念に人払いをしてこの執務室に入ってきた。
「エレナのことです」
「どうした」
「僕の考えすぎかもしれませんが、お母様がエレナに何か呪文を唱えている気がするのです」
ハンスの言葉に、俺の思考は一度完全に止まった。
妻が、エレナに、呪文を?
「な、何故」
「僕も呪文には詳しくないので、はっきりとは分からないのですが、知らない言葉を、いえ言葉……でしょうか、辺境の他国の言葉とも違う得体の知れないなにか……」
ハンスはそう言いながら涙ぐみ始めたので、一度落ち着かせるために抱きしめた。
言葉も思考もしっかりしてきたとはいえ、この子だってまだ子どもなのだ。
「大丈夫だ、お父様がついている」
落ち着いたハンスにもう少し詳しく話を聞いたところ、妻がエレナに何やらよく分からない言葉で語りかけるような仕草を見せているらしい。
その仕草をはっきりと見たのは今日だが、思い返してみれば彼女はもっと昔からその仕草を見せていた気がしたと言っていた。
俺はその仕草を一度も見たことがないので、俺には見せないようにしているのかもしれない。
「……お母様は、僕やお父様がエレナに構いっきりなのでやきもちをやいて……エレナに呪文を……」
「いや、そんなこと……」
結婚のきっかけこそ政略結婚だが、今では思い合っているし仲もいいはずだ、そもそも俺がエレナを可愛がってくれて嬉しいと喜んでもいた。
そんな彼女が嫉妬などするだろうか?
しかし、女が腹の中で何を考えているかなど、俺には分からない。
「お父様、僕はお母様に気付かれないように呪文学を学ぼうと思います。エレナを守るために」
そう言ったハンスの瞳には、強い決意の炎が宿っていた。
決意を秘めたハンスが学園に通うため従者を連れて別邸へと移ってからというもの、エレナは窓の外を眺めてぼんやりしていることが増えた。
遠くを眺めながら大きなため息を零し、どこか元気がなくなっているように見える。
それを見てしまうと、もしかして本当に妻がエレナに呪文を唱えて、呪い殺してしまうのではないかという不安が嫌でも脳裏にちらついてしまう。
ハンスが呪文学を学ぶと言っていたが、あの呪文の真相が分かる前にエレナを失ってしまえば元も子もないのだ。
自分でも何か対策をしなければ、そう思った俺は執事に呪文学の資料を集めさせた。
「……呪文学というのは、本当にあまり解明されていないのだな。全部に「※諸説あり」と書かれている」
俺がそう零すと、執事が静かに頷いた。
「失われた魔法、と言われていますからねぇ」
大体の資料に人々の魔力量が増えたため、呪文の詠唱なしでも魔法が使えるようになり呪文は衰退した。※諸説あり、と書かれている。
「こうも解明されていないと対策のしようもないな……」
「私の知人が呪文学を学んでいたのですが、呪文が主流だったころは呪文を直接掛けられぬように盾となる者を身近に置いていた者もいた、というような話を聞いたことがあります」
俺は執事の言葉に目を瞠った。
「盾となる者……」
「おそらくこちらも「※諸説あり」でしょうが……」
「あーそっかーやっぱり諸説あるかーそうだろうなー」
しかしまぁなんの対策もないよりはマシだろう、と盾となる者を探すことにした。
そもそもハンスが居なくなってからエレナの元気がなくなった気がしているので、ハンスが知らず知らずのうちにその盾の役を担っていた可能性も皆無ではないわけだから。
そんな折に出会ったのがロルスだった。
ロルス本人は家名がないと言っていたが、おそらく田舎の貧乏貴族の息子だろうと思った。
たまに居るのだ、貧乏なのに子沢山で結局家計が回らなくなりこっそり子どもを商家などに奉公に出す奴が。
「うちだってねぇ、仕方なく引き取ったけどあんたなんか居なくたって人手は足りてるんだからね!」
と、子どもに向けて言い放っている女が証拠のようなものだろう。
頼んできた相手が貴族だったから仕方なく引き取ったけど、と言外に含まれているものが見え見えだ。
育ち盛りだろうに、酷く痩せこけたみすぼらしい少年は、死んだような目をして店の前に佇んでいる。
それを見たとき、この店にこの少年が必要じゃないというのなら、自分がつれて帰ろうと思った。盾が、必要なのだから。
後で思い返してみれば、このときの自分はどうかしていたのだろうと思う。
エレナが大切で、大切過ぎて、見ず知らずの子どもに呪いを背負わせようとしていたのだから。
しかしその時それに気付けなかった俺は迷わず店内に足を踏み入れて、先ほどの女に言ったのだ。
「表に居る少年、貰っていってもいいだろうか」
と。
女は俺の身なりを見てうろたえていたが、結局はロルスをこちらに渡してくれた。
ロルスは特に疑問を持たなかったのか、それとも自分に何の権限もないことを理解していたのか、何も言わずにこちらについてきてくれた。
「ここに居るよりもいい暮らしをさせることを約束しよう」
「……はい」
「ただし、君の仕事は俺の娘、エレナに向けられた呪文の盾になることだ」
「はい」
「このことは他言無用だよ。俺と君だけの秘密だ」
「わかりました、旦那様」
ロルスと契約を結び、みすぼらしかった容姿を整え、ロルスをエレナの従者にするようにと妻に引き渡す。
すると妻はどこか不思議そうな、そして怪訝そうな表情を浮かべながらロルスを一瞥する。
「従者……ですか」
「あぁ。ハンスが別邸に移ってしまって、エレナが寂しそうだったからな」
「まぁ、そうですね。退屈そうではありますけれど……」
「なにか不満か?」
瞳を閉じてううんと呻る妻に、やはり一抹の不安がよぎる。エレナの側に人が居ては、何か困ることがあるのか、と。
呪文の標的の側に盾があると困るのか、と。
「不満……というより疑問……いえ、分かりましたわ。エレナのところへ連れて行きます」
「連れて行くのは俺が」
「あら、お仕事は終わったのかしら?」
終わってませんでした。
妻に連れられて行くロルスの背中を見ながら、どうか呪文の盾になってくれますようにと祈った。そして、犠牲にしてしまってすまない、と謝った。
ロルスという従者を得たエレナはというと、窓の外をぼんやりと見ていたときとは違い、生き生きとした様子でロルスの世話をしていた。
どこに行くにも連れて回り、文字の読み書きを教えていたり。
これでしばらく安心出来るのではないかとほっとした。
そうして月日は経ち、エレナは学園へ通うために別邸へと移ることになった。
ハンスは卒業してしまっており、俺もハンスもエレナの側には居なくなってしまうわけだが、その頃にはロルスがしっかりとエレナを守るようになってくれていたので以前ほどの不安を感じることはなくなっていた。
ただ最愛の娘と離れ離れの生活がつらいことつらいこと。寂しさのせいでやつれてしまったところ、執事に笑われてしまった。悲しい。
寂しさを我慢して我慢してやっと迎えたエレナとの食事の日、そこに現れたエレナとロルスがとても元気そうで死ぬほど安心したのは言うまでもない。
ロルスから学園生活の報告を聞き、エレナと雑談を交わす。ただそれだけなのにとても幸せだった。
これで妻の呪文さえなくなっていればもっと幸せなのだが。
「ロルス、その後……妻の呪文の様子はどうだろうか」
エレナがデザートを選びに行った隙に、ロルスへ尋ねる。
「例の呪文のような文言は、あちらでも何度も聞いております」
「やはりか」
「お嬢様が呪文学に興味を持ったとき、やはり奥様のあの文言が気になっているのかと思ったのですが、どうもそちらは別件のようで……」
「というと?」
「例の文言を気にする素振りは一切見せず、何故か五代目国王の死因を調べ始めていまして」
「死因?」
「死因」
俺は一度静かに頭を抱えた。え、死因?
「……しかし、それに興味を持ったきっかけは呪文学を選択したクラスメイトと仲良くなったことですので、私も機会を見てそのクラスメイトに呪文について教わろうと思っております」
「あ、あぁ、そうしてくれ。ロルスに友人が出来ると、俺も嬉しいから」
「……私に友人など必要ありません。私はお嬢様を守るためだけに生きると決めたのですから」
ロルスの死んだような目に、いつしか強い光りが宿っていた。
最愛の娘との和やかで幸せな食事のときは、あっという間に終わってしまう。
もっとこの幸せを噛み締めていたい、そう思っていたとき、その幸せはなんとその最愛の娘の一言で凍りつくこととなる。
「てっきりわたしがローレンツ様の花嫁候補になるかもしれない、ってお話でもされるのかと思ってちょっとだけ身構えていたのです」
という、えげつなく恐ろしい一言によって。
その後、自分がどうやって家に帰ったのかは覚えていない。
ただ頭の中で、結婚の二文字が浮かんでは消し飛び、浮かんでは消し飛びを繰り返していた。
いや、衝撃を受けている場合ではない。
一刻も早くその噂の出所を潰さねばなるまい。俺はまだエレナを手放すわけにはいかないのだ。
なぜなら俺が腹を痛めて産んだのだから。産んでないけど、ほぼほぼ産んだようなものだから。
この俺よりもエレナを愛することが出来るやつにしか嫁にはやらない……例え相手が次期侯爵であろうと、王子であろうとも、だ。
「あっはっは、たった数ヶ月離れ離れになっただけでやつれていたのですから、エレナ様がお嫁に行ってしまっては、ただの骨になってしまうかもしれませんなぁ旦那様!」
「笑い事ではない!!」
誰だこの失礼な奴を執事にしたのは!
俺か!!
母親の乙女ゲー語りが家族を震え上がらせる……!
ブクマ、評価、拍手ぱちぱち、コメントありがとうございます!
レス不要のコメントでしたが、運命を感じていただけて嬉しいですきっとそれは運命だと私も思いました!




