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望月の駒

 貫之は友則の四十九日を終え、身を清めて喪服を脱いだ。そうなるといつまでも友則の邸にもいられない。身内であっても自分は友則の本当の息子ではない。友則とその妻には血を分けた息子が二人もいて、その二人がこれからは母親も邸も守っていく。そこに自分がいつまでもいることはできなかった。


 貫之は内教坊を訪ねた。そこに行くといかにも女たちが住まう場所らしく、空気が変わる。甘いような、何かが和らぐような、少し内にこもるような、そんな雰囲気が漂っている。

 吹く風は冷たくこれからやってくる本格的な冬を思わせるが、ここに来ると自分が元服のために母のもとを離れた、梅の花の頃を思い出す。どこからかかすかに漂う梅花香ばいかこうの香りのせいかもしれない。


 ……ああ、私が帰ってこられる場所は、もうここしかなくなってしまった。少なくとも懐かしさを味わえる場所は、ここよりほかにはないだろう。

 口やかましい女孺殿も、今は心配してくれているだろう。あの女童も、寂しがっているだろう。顔を見知っている妓女たちなども、気にかけてくれていることだろう。

 友則殿のおっしゃった通りです。私は確かに知っていました。ここに来れば、私の心に情が生まれることを。

 気づけば貫之は、その顔に久しぶりの笑みをうっすらと浮かべながら、おばば様のもとへと向かっていった。



 友則を失った傷は深かったが、それでも時は流れていく。あくる年の延喜六年二月、貫之は越前権少掾えちぜんのごんのしょうじょうに任ぜられた。さっそく躬恒が祝いの言葉をかけに来た。


「おめでとう。古今和歌集のかな序に対する、特別な恩賞だそうじゃないか」


「ああ。位は変わらず七位だが、とても良いろくをいただけるらしい。しかも遥任ようにんでこれまで通り御書所勤めが認めていただけるのがありがたい」


「それはそうだろう。帝や左大臣(時平)様が特に御目にかけている、人気歌人をおいそれと地方へやれるはずがない」


 今や和歌が息を吹き返しただけではなく貫之の書いたかな序への賛美が高まり、かなを使った文章にも注目が集まっていた。しかし現実は普通の役人にとってまだまだ詠歌の力量は低く、公の場で披露するほどの力はなかった。だが漢詩を題目として歌を詠むなどそれなりに工夫がなされ、少しずつ公の場にも和歌は浸透し始めていた。

 当然まだ、かな文字で技巧的な文章を書く技術は拙く、それだけにかな序を書いた貫之は第一人者として人々の尊敬を集めるようになった。もちろん和歌そのものの評価も上がり、歌人たちの評判もどんどん上がっていく。


「左大臣様のお気遣いは、本当にありがたい。おかげで友則殿の弔いも続けられるし、内教坊にいる女孺殿と、女童にも頻繁に顔を見せてやれる。……まあ、あの少女の方は今年で十歳だから、そろそろ顔を見せなくなってはいるが」


「ああ、友則殿の妻もだいぶ落ち着かれたらしいな。仲の良い家族だけに、息子たちが気を使っているとか」


「そうなのだ。だから私が弔うと言っても、客として顔を出す程度だ。……私は、友則殿の子息ではないのだし」


 そういう貫之の言葉には苦いものがある。躬恒は話題をそらした。


「女孺殿のところの少女も十歳か。中身はまだまだ子供だろうが、そろそろ女らしいたしなみが必要な頃だ。顔を見せぬのも恥じらいが育った証だな」


「そうだな。男の私は物を支援するくらいしかないから、おばば様に手間ばかりかけるが、あの人なら良くしてくれるだろう。私もあの子に良い結婚をさせるまでは、協力を惜しまない。……おばば様を失えば、あの子も私と同じように師であり、親である人を失ってしまうから」


 貫之は友則が亡くなってから、友則の邸と同じくらい、頻繁に内教坊に顔を出していた。躬恒は貫之があまりにもつらそうなので、内教坊の妓女と恋でもしてくれれば良いと思っていた。しかし友則の弔いを身内と同じに出来ないもどかしさを、そういう形で癒そうとしているなら、浮いた話など起きそうもない。


「お前も妻や子を持っていれば、こういう時の寂しさも紛らわせられるのにな」


 躬恒はそういったが、


「だから、友則殿は私に、女孺殿と女童を大事にしろと言ったのだろう」


 と貫之は友則への想いに心を沈めてしまう。


「……おまえが平中殿のように女心に挑むくらいの男なら心配しないのだが。まあ、それがお前の性格だろうしな」


 躬恒はため息をつく。そうはいっても次々と浮名を流しては華やかに恋をし、情はあっても落ち着きがあるとは言えない貞文と、友則の家庭に憧れ、名が高まるほどに官位の低さを気にして恋に慎重になる貫之では、どちらが友として信頼できるかと言えば、自分は確実に貫之を選ぶだろう。だからこそ、その傷つきやすい心が心配になるのだが。


 しかし友則の言った通り、内教坊の女孺と女童の世話を焼くことは、貫之の心を癒していたらしい。母に甘えるように、娘を慈しむかのようにするうちに、貫之の表情から影が消えていった。友則の家庭にかりそめの家族愛を得ることが出来る貫之の感性は、女孺と女童から同じ愛を見出すことが出来たようだ。なまじ、貫之の名声に浮かれる女に慰めを求めるよりも、結果的にはよかったのかもしれない。


 そんな風に過ごすうち、やがて貫之も歌詠みの心を取り戻していた。そこへ屏風画を見て、歌を書きつけるようにと内裏からの依頼があった。それは八帖の屏風画で、月ごとに行われる行事が描かれていた。貫之はその屏風に四十五首の歌を詠み、奉った。評判の高まった貫之が詠んだ歌と言うことで、当然その屏風歌も好評を博したが、その中でも八月の『望月の駒』の歌は有名になった。


    延喜の御時、月次つきなみの御屏風に


  逢坂あふさかの関の清水に影見えて今やくらん望月の駒


 (逢坂の関に行くと、関の清水に満ちた月影が映っている。今頃牽いているのだろうか。望月の馬を)


 八月に『駒牽きの儀』と言う馬を宮中に奉る行事があった。そのために信濃国の望月と言うところから良い馬が用意される。その馬を役人が迎えに行く様子を描いた『八月駒迎へ』と言う題材の画を見て詠まれた歌である。

 馬を迎えに行った役人が、逢坂の関で見目も麗しい駿馬に出会う。そこには旅人の乾いたのどを潤す清水が湧き出ていて、その月影が映し出されている。それは八月十五日の満月、『望月』である。

 信濃国望月の馬が都への関にたどり着き、待ちかねた時が満ち、八月の月も満ちた。この凛々しい馬を帝に奉るべく、心躍らせる役人が宮中に引いて行く。役人の頭上には一年で最も見るに値する満月が浮かんでいる。そんな絵が描かれた屏風画の魅力を、この歌は存分に引き出していた。いや、もし絵がなかったとしても、美しい情景を巧みな枕詞や掛詞に織り込んだこの歌は、それだけでも十分な価値があった。


 貫之もこうした空想世界に浸ることで友則の死と言う悲しみから逃れることが出来た。そして友則殿も本当はこの優しい世界をもっと堪能したかったはずだと思い至った。

 その思いが貫之の歌に優美さを与え、磨いていった。貫之は歌人としての充実期を迎えようとしていた。和歌復興と言う光と、身内であり師である人の喪失と言う両極端なまでの影が遊興的な技巧を冴えわたらせる一方で、花鳥絵巻を思わせる幻影的で、空想的な世界を華麗に創造する歌風を貫之は生み出していく。そしてそれが貫之を、この時代の代表的歌人として祭り上げていくこととなった。


 しかし、歌人たちにとって心揺るがす別れは友則だけにとどまらなかった。貫之たち歌人の庇護者であり、忠岑の主人でもあった定国が、この年の七月二日に亡くなったのだ。


「忠岑殿はさぞや落胆しているだろう」


 忠岑が定国の忠臣であったことは周知の事実だ。誰もが忠岑の心情を思い、心を痛めた。

 しかし定国の死は忠岑だけでなく、貫之や歌人たちにも大きな衝撃を与えていた。定国は醍醐帝の生母の弟で、彼の政への影響力も大きかった。貫之にとっても主人の兼輔かねすけのいとこにあたる人だった。風流人でもあり和歌への理解も深く、歌人たちを招いた催しも多く開催していた。


 前年にも定国の妹満子が定国の四十の賀を開いた時には、それを助けようとする帝の命を受けて、古今和歌集の撰者四人を含めた歌人たちが大和絵屏風に歌を詠んでいた。帝の外戚である定国は、歌人たちにとって活躍の場を与えてくれる重要人物でもあったのだ。

 親友に続いて、頼るべきよりどころの主人を失った忠岑の嘆きはもちろん誰よりも深かったが、ほかの歌人たちにとっても彼の死は衝撃的だった。前年に賀を開いたばかりの四十一歳での死は、あまりにも早すぎた。


 友則も庇護者に定国の名を挙げていた。友則だけでなく歌人たちは皆、この帝の外戚である風流人を多少なりにも頼りにしていた。しかしその人がこんなにも若くしてこの世を去った。


「今はいい。今は古今和歌集の人気が高く、貫之殿に対する人々の評判もある。帝も国風文化に力を注いでくださっている。しかし、この風潮がもし、何かにさらわれてしまったら……」


 和歌が復興し、歌人の評判が上がったとはいえ、歌人たちの実際の身分は低い者が多い。何事かが起これば彼らの名声など芥子粒のように吹き飛ばされるかもしれない。誰もがそんな不安を心の奥に抱え込んでいた。


「なに、大丈夫。和歌や歌人に対しては、左大臣様の庇護がある。これほどの心強いことがあろうか?」


 歌人たちが時平に期待を寄せるには理由があった。時平はただ和歌の復興、促進に努めたのではない。歌人たちに古今和歌集の編纂をさせる一方で、荘園整理などの官符をさらに促進すべく古今和歌集奏上の年に、施行するための細則、『延喜式』の編集に取り掛かっていた。これが完成すれば、律令制はより細やかに管理することが出来る。実効性が高まるのは間違いなかった。

 時平はこうしたやや強引なまでに律令制を進める一方で、和歌などの国風文化を奨励し、人心の動揺を抑えようとしていた。硬軟双方に気を配った政治手法は、帝の外戚となりながらも、帝と宇多院の親子関係をとりもつ時平らしいやり方でもあった。


「いにしえの昔のように、歌で官位は望めないだろうが……。左大臣様の庇護さえあれば……」


 歌人たちの本音は歌人の中からも、出世をする人に早く出てきてもらいたかった。だが漢文や学問に長けた博士などですら、そうそう高い位には昇れないことを皆良く分かっている。無理をすれば道真殿のようなことにもなりかねない。ましてや歌人では……。

 それでなくても歌人は想像の世界を生きる感性を持っているせいか、やや浮世離れする傾向があった。世渡り上手な人間はそう多くない。だから一人、また一人と庇護者を失っていく不安を、時平と言う大樹をよりどころにかき消してしまおうとしていたのだ。

 こうした不安は友則を失った貫之や、主人を失った忠岑の個人的な感慨だけではなく、歌人たちの性質と不安定な立場から和歌世界全体に漠然と存在していた。それが和歌をより幻想的に、非現実的に磨き上げていったのだった。






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