和歌集誕生
陛下御宇、于今九載。仁流秋津洲之外、恵茂筑波山之陰。淵変為瀬之声、寂々閉口、砂長為厳之頌、洋々満耳。思継既絶之風、欲興久廃之道。
陛下の御宇、今に九載なり。仁は秋津洲の外に流れ、恵みは筑波山の陰より茂し。淵変じて瀬となるの声、寂々として口を閉じ、砂長じて巌となるの頌、洋々として耳に満てり。既に絶えたる風を継がんと思し、久しく廃れたる道を興さんと欲したまふ。
(今上の天皇陛下の御代も、今では九年となった。陛下の御仁徳は秋津洲(日本の本州)の外にまでも流布し、御恵みは筑波山の木陰より豊かに茂っておられる。そのため、淵が瀬の流れに変わることを嘆いていた声は、寂々と口を閉じ、砂が長い時のうちに巌となる歌が、洋々と耳に満ちることとなった。そこで陛下は既に絶えた和歌の風流をのちの世に継ごうとお考えになられ、久しく廃れてしまった歌の道の復興を欲せられたのだ。)
帝。我々のような卑小な存在を、専門歌人として評価してくださった方。和歌を認め、我々とその世界を認めてくださった方。我々を内裏のうちに入れ、編纂を許し、その結果に期待を寄せてくださるお方。我々と歌の心を同じくされる方。
この方の御慈悲に触れて、歌人たちは未来に希望が持てるようになった。漢文に席巻されたことを嘆くばかりの口調も次々と閉じられた。そして一度は細かく砕かれたさざれ石すら、長い時を経て巌となる歌が、世の人の隅々まで耳に満ちるようになった。
何よりも帝が和歌の復興を欲してくださったことで、和歌とやまと言葉は救われたのだ。
爰詔大内記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少目凡河内躬恒、右衛門府生壬生忠岑等、各献家集、幷古来旧歌、曰続万葉集。於是重有詔、部類所奉之歌勒為二十巻、名曰古今和歌集。
爰に、大内記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少目凡河内躬恒、右衛門府生壬生忠岑等に詔して、各家集、幷に古来の旧歌を献ぜしめ、続万葉集と曰ふ。是に於いて、重ねて詔有り、奉る所の歌を部類して、勒して二十巻となし、名づけて古今和歌集と曰ふ。)
(そしてここに、大内記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少目凡河内躬恒、右衛門府生壬生忠岑らにお命じになり、各々の家集、ならびに古来の旧歌を献上させ、それを「続万葉集」とお名づけになられた。このことにおいては、重ねて詔を下され、奉った歌を部類させ、二十巻に書きとどめさせ、古今和歌集とお名づけになられた。)
ああ、あの「続万葉集」の献上を仰せつかった時の喜ばしさよ。これで廃れかけた和歌の風潮に光が差したと、胸躍らせたあの日よ。そしてさらに、その「続万葉集」をご覧になったうえで……もったいなくも、我々の力量を信じた上で、百年先も見るに堪える和歌集を作るようにと帝はお命じになられたのだ。その夢のような詔を受けて、今我々はこの古今和歌集を献上できる。我々卑小な者たちの名を輝かしいこの和歌集に連ねることが出来る。この幸せをどう表せばよいのであろうか!
「かかるに、今、すべらぎの天の下しろしめすこと、四つの時九かへりになむなりぬる。あまねき御うつくしみの波、八洲のほかまで流れ、ひろき御恵みの陰、筑波山の麓よりも繁くおはしまして、よろづの政をきこしめすいとま、もろもろのことをすてたまはぬあまりに、いにしへのことをも忘れじ、旧りにしことをも起こしたまふとて、今も見そなはし、後の世にも伝はれとて、延喜五年四月十八日に、大内記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少目凡河内躬恒、右衛門府生壬生忠岑らにおほせられて、万葉集に入らぬ古き歌、みづからのをも奉らしめたまひてなむ、それが中にも、梅をかざすよりはじめて、ほととぎすを聞き、紅葉を折り、雪を見るにいたるまで、また、鶴亀につけて君を思ひ、人をも祝ひ、秋萩夏草を見て妻を恋ひ、逢坂山に至りて手向けを祈り、あるは春夏秋冬にも入らぬくさぐさの歌をなむえらばせたまひける。すべて千歌二十巻名づけて古今和歌集といふ。」
(こうして、今、天皇陛下が天下を統治なさること、四つの季節を九回迎えることとなった。世の隅々まで満たす御慈愛の波は、「八洲」の外にまで流れ、広く御恩恵の陰は、「筑波山」の麓の森の茂りよりも豊かでいらっしゃり、多くの政務をおこなわれる暇に、色々なこともお見捨てにならぬあまりに、昔のことも忘れぬよう、古いことも復興なさろうとお考えになられ、今もお目にかけてくださり、後世にも伝わるようにと、延喜五年四月十八日に、大内記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少目凡河内躬恒、右衛門府生壬生忠岑らに仰せられて、万葉集に入らない古い歌、自分たちの歌を奉るようにとお命じになられ、その中でも、梅をかざす事から始めて、ほととぎすを聞き、紅葉を折り、雪を見るにいたるまでの「季節の歌」、また、鶴亀につけて君を思い、人を祝う「賀の歌」、秋萩や夏草を見ては妻を恋しく思う「恋の歌」、逢坂山に至り、旅路の無事を祈る「離別の歌」あるいは春夏秋冬のうちにも入らないような「雑歌」などを選ばせられた。すべてで千首の歌、二十巻のこの歌集を、名づけて「古今和歌集」と言う。)
帝は覚えておられるであろうか。我々があの和歌集編纂を始めた最初の夜のことを。深夜、帝が私をもったいなくもご自分の居場所にお招きくださり、ほととぎすの歌をご所望になられた素晴らしい夜を!
読みあげるかな序は奏上の日付と、選者たちの名を挙げるところに来ていた。貫之に身に一層の感激が走る。
我々は僭越ながら帝の慈愛に守られて、これ以上ない仕事をさせていただきました。こんなに歌人として冥利に尽きることはございません。ここには大まかではありますが、この歌集がどのような部立てで、どのような流れになっているか、ここに書かせていただきました。これぞ我々の心血を注いだ結晶でございます。
そんな思いから貫之は一瞬詠みあげる声が詰まりそうになり、息を整えて声の震えを抑えた。まだだ。まだ、涙をこぼすには早い。帝の御前で見苦しくないように、最後まで読みあげなくては。この美しい「やまとことば」を帝にしっかりと、お届けしなくては。貫之は感慨の涙をこらえて、かな序の文を詠み続ける。
臣等、詞少春花之艶、名竊秋夜之長。況哉進恐時俗之嘲、退慙才芸之拙。適遇和歌之中興。以楽吾道之才昌。嗟乎人丸既没、和歌不在斯哉。于時延喜五年歳次乙丑四月十五日、臣貫之等謹序。
臣等、詞は春の花の艶少なく、名は秋の夜の長きを竊めり。況や、進みては時俗の嘲を恐れ、退きては才芸の拙きを慙づ。適和歌の中興に遇ひて、吾が道の再び昌なることを楽しむ。嗟乎、人丸既に没したれども、和歌は斯に在らずや。時に延喜五年、歳は乙丑に次る四月十五日、臣紀貫之等謹みて序す。
(この臣下等は、使う詞に感じる春の花の艶さえ少ないにもかかわらず、名声を秋の夜の長さを盗んだように得ている。ましてや、人前に進んでは時代の風潮に嘲られることを恐れ、だからと言って退いては自らの才芸の拙さを恥じるばかりである。それでも、たまたま和歌の復興に巡り合うことができたので、我が道の再びの栄を喜んでいる。ああ、人麿はすでに没しているが、和歌はここに存在しているのだ。時に延喜五年、乙丑にあたる歳、四月十五日、臣貫之ら謹んで序を記す。)
本当にこの編纂で思い知らされた。世の人たちに少しばかり名声を誉められたと言っても、膨大な和歌を目の当たりにしその一首一首の味わいを知ると、自分のこれまでの世界がどれほど小さなものだったか良く分かった。臆病な自分は人々の和歌に対する評価の低さにおびえ、内裏で堂々とふるまうことすらできなかった。さまざまなことを恥と思いながらも、帝の和歌に対するお心に励まされて、和歌復興のこの場に立ち会うことが出来た。
……そう。和歌は今、この奏上によって再びの春を迎えることとなったのだ!
貫之は深く息を吸って呼吸を落ちつけた後、しっかりと最後まで読みあげた。
「かく、このたび集めえらばれて、山下水の絶えず、浜の真砂の数多くつもりぬれば、今は飛鳥川の瀬になるうらみも聞こえず、さざれ石の巌となるよろこびのみぞあるべき。それまくらことば、春の花にほひ少なくして、むなしき名のみ秋の夜の長きをかこてれば、かつは人の耳におそり、かつは歌の心にはぢ思へど、たなびく雲のたちゐ、鳴く鹿の起き伏しは、貫之らが、この世に同じく生まれて、このことの時にあへるをなむよろこびぬる。人麿亡くなりにたれど、歌のこととどまれるかな。たとひ時移り事去り、楽しび悲しびゆきかふとも、この歌の文字あるをや、青柳の糸絶えず、松の葉の散りうせずして、まさきの葛長く伝はり、鳥の跡久しくとどまれらば、歌のさまをも知り、ことの心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、いにしへを仰ぎて、今を恋ひざらめかも。」
(そして、このたび集め選ばれた歌は「山下水」のように絶えることなく、「浜の真砂」のように数多く集まったので、今は「飛鳥川の淵」が「瀬」となり「流れ」てしまうように、歌が廃れてしまうという恨みを聞くこともなくなり、「さざれ石」が「巌」となるかのような、和歌の繁栄の喜びがあるだけである。我々はそれを「枕詞」のように当然に思ってしまい、「春の花」にしては「匂い」が少ない未熟者にもかかわらず、むなしい名声だけを「秋の夜長」にかこつけて得ているので、一方では人の評判を恐れ、一方では歌の心に対して恥ずかしく思いながらも、たなびく「雲の立ち居」のように振る舞い、「鳴く鹿」の「起き伏し」のように暮らす貫之ら選者が、和歌復興の世に同じく生まれて、古今和歌集を帝に奉る時にめぐりあえたことを、ただ、喜んでいるのである。人麿は亡くなってしまったが、歌はこの世にとどまることができた。たとえ時が移り、物事が去り、喜びや悲しみが行き交おうとも、この歌の文字は残り、「青柳の糸」のように「絶える」ことなく、「松の葉」のように「散り」失せず、「まさきの葛」のように「長く」伝わり、鳥の足跡のように久しく残るならば、歌の姿を知り、歌の心を知ることができる人は、大空の月を見るように、昔を仰ぎ見て、和歌の栄える今を恋しく思わないはずがないだろう。)
本当は、こんな「歌ことば」のような美しい暮らしをする自分ではない。名前ばかりが独り歩きするだけで本当に、本当にささやかに生きるばかりの人間なのだ。
だからこそ、この晴れの日をこうして迎える中に、自分が加わっていることに喜びを覚えずにはいられない。帝にはここで読みあげた言葉の何倍をもの感謝が、我が心にあふれているのでございます……。
貫之はそう思いながら、万感の思いを込めて読み終えた。その頬にはついに一筋の涙がこぼれ落ちていった。




