育ちゆく和歌
爰及人代、此風大興。長歌短歌旋頭混本之類、雑躰非一、源流漸繁。譬猶払雲之樹生自寸苗之煙、浮天之波起於一滴之露。
爰に人代に及びて、此の風大きに興る。長歌・短歌・旋頭・混本の類、雑躰一に非ず、源流漸く繁し。譬へばなほ、雲を払う樹の、寸苗の煙より生り、天を浮かぶる波の、一滴の露より起こるがごとし。
(こうして人の世の代となって、和歌を詠む風が大きく起こった。長歌・短歌・旋頭歌・混本歌の類などと、様々な歌の形は一つには収まりきらず、源流と言うべき歌体の流れも段々複雑になった。例えるならば、雲を払うほどの大樹も、寸の丈の苗木から育つように、天に映り浮かぶ海の波が、一滴の露から起こるようなものである。)
そう、そこでようやく我々は歌を手に入れた。それまで歌を詠むことは、神々の特権であった。スサノオノミコトがもたらした風は、小さな風だったに違いない。 だがその風は、小さくともつむじ風であった。その風に言の葉がざわめき、やがて大きな竜巻を巻き起こした。風によって葉や木の実が落ちて舞い上げられ八方に散らばったが、その実の中にあった種が新たに芽吹いては様々な歌の形を生み出した。それがまた実をつけ、種を生み、育て、広がっていく。幼い苗木から育つ大樹のように。一滴の水から始まる大海原のように。
「かくてぞ花をめで、鳥をうらやみ、霞をあはれび、露をかなしぶ心言葉多く、さまざまになりける。遠き所も、出で立つ足もとより始まりて、年月をわたり、高き山も、麓の塵泥よりなりて、天雲たなびくまでおひのぼれるごとくに、この歌もかくのごとくなるべし。」
(こうして花を愛で、鳥を慕い、春霞にしみじみとし、秋露を愛おしむような心は歌も多く、様々な歌の形で詠まれるようになった。遠くの目的地も、旅立ちは足もとから始まり、長い年月をわたり、高い山も、麓の塵や泥が積み重なり、空の雲がたなびくまで高く育つように、和歌も大きく発展を遂げたのだろう。)
歌は小さなものから大きく育っていく。あの唐の国なら大きな大樹も、大海原も広大だと言われている大地にはふさわしいのだろう。だが我が国はもっと身近な物を大切にする。花を愛で、鳥を慕い、春霞の優しい景色に心を慰め、秋の草葉に乗る露の儚さを愛おしむ心を持っている。我々にとって歌とはそういうものであろう。
歌は風のように厳しくなくても、小さな一歩がいつしか遠い世界にたどり着くように、雲を払う大樹を知らずとも、塵や泥がいつかは空に雲がたなびくような、高い山になるように育ってきた。それはいつでも我々の身近なところに寄り添うものだった。
至如難波津之什、献天皇、富緒川之篇、報太子、或事関神異、或興入幽玄。但見上古歌、多存古質之語、未為耳目之翫、徒為教戒之端。
難波津の什を天皇に献じ、富緒川の篇を太子に報ぜしがごときに至りては、或は事神異に関はり、或は興幽玄に入る。但し、上古の歌を見るに、多くの古質の語を存し、未だ耳目の翫となさず、徒に教戒の端となすのみ。
(「難波津」の歌を天皇に献じ、「富緒川」の歌を聖徳太子に奉ったという話に至っては、神による不思議な出来事に関わっており、非現実的な趣となっている。ただし、上古の歌を見ると、多くの古風な言語が残されていて、まだ人の耳目を喜ばせる段階までは至らず、ただ、教えや戒めの一端を担うのみである。)
難波津の歌は子供の初めての手習いに使われるほど、誰にもなじんだ歌だ。当然これも人の世に生まれた歌の歴史の初めにあたる。富緒川の歌も同じく古い時代の歌。
だがこの両歌は古いだけに出自があいまいで、伝説的な歌だと言われている。やはり神代の昔やその時代に近い話は神秘的ではあるが、真実性が乏しい。難波津の歌にまつわる、仁徳天皇の弟皇子との皇位の譲り合いも、聖徳太子の慈愛に感じ入って、みすぼらしい人が作ったという富雄川の歌も、今の朝廷では伝説として扱われている。
しかし貫之はここで古代の歌の拙さを、わざわざ取り上げる必要を感じなかった。さらに今の人々にとっては冨野川の歌はそれほど近しいものではない。歌心に直結しているとはいいがたいだろう。
それより貫之にはここで取り上げたい歌があった。難波津の歌と同様に幼いころから人が慣れ親しむ手習い歌、安積山の歌である。この歌にも古くからの伝説があるのだが、話が普通の人々の生活に寄り添っていて実感しやすい。
主な内容は葛城王が陸奥に遣わされたときに、国司のもてなしの悪さに不満が顔にでてしまった。当然、宴も盛り上がらない。そこに采女の娘が左の手に濁り酒の入った盃をささげ、右の手に清水を持って王のひざを打ってこの歌を詠んだ。
安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに
(山影さえ見える山の清水ほども、あなたさまを浅く思ってはいませんのに)
私たちがお勧めしているのは深い心を込めた濁り酒。底が見える浅い山の清水ではございません。どうかご機嫌を直してください。そんな娘のとりなしで、王の心はほぐれたのだという。同じ伝説的な歌ではあるのだが、歌の歴史としては誰もが知るこの歌の方が理解されやすいはずだ。
「難波津の歌は帝の御はじめなり。安積山のことばは、采女のたはぶれよりよみてこの二歌は、歌の父母のやうにてぞ、手習ふ人のはじめにもしける。」
(難波津の歌は帝の御代(仁徳天皇)の始めのお歌である。安積山の歌は、采女が遊び心から詠んだものでこの二つの歌は、和歌にとって父母の様なもので、文字の手習いをする時、初めに習う歌にもなっている。)
人々が慣れ親しみ、長く伝え続けられた歌。内裏の書面の中で守られてきたのではなく、人々の中で伝えられ生き抜いてきた歌。これこそ我々の心を伝える歌。まさしく和歌の父母と呼べる歌であろう。
「そもそも、歌のさま、六つなり。唐の歌にもかくぞあるべき。その六つくさの一つには、そへ歌。大鷦鷯の帝をそへたてまつれる歌。
難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
といへるなるべし。
二つには、かぞへ歌。
咲く花に思ひつくみのあぢきなさ身にいたつきのいるもしらずて
といへるなるべし。
三つには、なずらへ歌。
君にけさあしたの霜のおきていなば恋しきごとに消えやわたらむ
といへるなるべし。
四つには、たとへ歌。
わが恋はよむともつきじ荒磯海の浜の真砂はよみつくすとも
といへるなるべし。
五つには、ただごと歌。
いつはりのなき世なりせばいかばかり人の言の葉うれしからまし
といへるなるべし。
六つには、いはひ歌。
この殿はむべともみけり三枝の三つば四つばに殿づくりせり
といへるなるべし。」
(そもそも、歌の種類は、六つある。それは漢詩においても同様である。その一つ目の種類は「そへ歌」と言う。大鷦鷯の帝(仁徳天皇)になぞらえ、奉られた歌。
難波津に咲くこの花は、冬に耐えてこもっていたが、今は春が訪れたと、咲いているのだ。この花は。
と言うような歌であろう。
二つ目の歌は「かぞへ歌」と言う。
咲く花への思いに取りつかれてしまう身の上は、なんと味気ないことだろう。その身に病が忍び込んでいることも気づかずに。
と言うような歌であろう。
三つ目の歌は「なずらへ歌」と言う。
あなたがけさ、朝に『立つ』霜のように『立ち』去っていたならば、私はあなたを恋しく思うごとに、霜が消えるような思いを味わうのであろうか。
と言うような歌であろう。
四つ目の歌は「たとへ歌」と言う。
私の恋は数えても尽きることがない。磯の荒い波が作る、浜辺の砂を数え尽くすことが出来たとしても。
と言うような歌であろう。
五つ目の歌は「ただごと歌」と言う。
偽りのない世の中であったならば、どれほどの人の言葉を、嬉しく思うことだろう。
と言うような歌であろう。
六つ目の歌は「いはひ歌」と言う。
この御殿を見ればなるほどと思う。太い三つの枝に二つ、三つと広く大きな葉が美しく生えているかのように、多くの建物を連ねた立派な御殿が造られているのだから。
と言うような歌であろう。)
ここに貫之は漢文の六義の説明にあたる解説を持ってきた。だが、それは唐の国の詩文の六義とは少し内容が異なる。
「風」は「そへ歌」で、これは出来事などを遠まわしに表現する歌である。
「賦」は「かぞへ歌」で、物の名を数えるように並べ立てる歌。ここに挙げた歌ももちろん物名歌である。この歌には「つくみ」に鳥のツグミが、「あじきなさ」に鳥のアジ(アジガモ)が、「いたつき」に鳥のタヅ(鶴)が詠みこまれ、鳥の名が連なっている。
さらに「いたつき」には病の意味と板を突くもの……弓矢の矢の意味がかけられていて、鳥を狩る道具まで読み込まれた大変技巧的な歌でもある。漢文の賦は、比喩を用いず物事を羅列することなのでだいぶ意味が違うのだが、これは和歌の表現についての定義なので問題ないだろう。ただし情緒的でない表現であることは共通しているが。
「比」は「なずらへ歌」で、その名の通り何かに心をなぞらえる比喩表現の歌である。
「興」は「たとへ歌」で心を景物にたとえる歌。さっきの「なずらへ歌」と同様に比喩の歌の一つであろう。ただしこれは比喩対象との同化ではなく、対比したものになるが。
「雅」は「ただごと歌」で、正した言の歌……言葉を景物に頼らずに、真っ直ぐに表現する歌だ。表現は限られるが相手に伝わりやすい。理解されやすい歌だろう。これも唐の国の六義の雅とは意味を違えるが、これが和歌の特徴であるので致し方ない。むしろ独自文化として尊重したいものだ。
「頌」は「いはひ歌」で、祝いのための歌。これはそのままの意味なのでやはり分かりやすい歌だろう。
これこそが和歌の六義。我が国固有の文学の定義である。




