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歌心(秋~冬)

 是定親王家の歌合の話から、友則は自分の歌のせいで貫之から自信を奪いそうになったと思い出話を始めた。


「あの時私は迂闊にも、貫之の若さを考慮するのをおろそかにしてしまった。あまりに熱い歌合に夢中になり、貫之が雁信に対して雁の姿よりも鳴き声に情緒を表した感性の鋭さに、思わず影響を受けたまま歌を詠んでしまったのだ」友則はそう言って肩をすくめる。


「いえ、あれは私がいたらなかっただけのこと。あの時私は友則殿の歌だけではなく、他の歌人たちすべての歌に衝撃を受けたのです。それでもあの玉章たまずさ雁信がんしんの歌は忘れられませんが」


 貫之は当時のことを知らない躬恒に、親王家の歌合わせで披露した『秋の夜に雁かも鳴きて渡るなるわが思ふ人のことづてやせる』と言う自分の歌と、その直後に友則が詠んだ『秋風に初雁が音ぞ聞ゆなる誰が玉章をかけて来つらむ』と言う歌の話を説明した。


「初雁が音に玉章……。これはまた実に優雅な。成程、これを聞いては貫之は愕然としただろうな」躬恒も貫之に同情した。


「そう、責めないでくれないか? あの後もし貫之が歌を詠めなくなったら、後見人としてどう責任を取ったら良いかと、それはそれは悩んだのだから」友則は苦笑するばかりだ。


「親王家の歌合はそれほど多くの名歌が詠まれた、素晴らしい歌合だったのだよ。大江千里殿の『月見ればちぢにものこそ……』などの歌は秀歌と言っていい」


 忠岑も懐かしそうにそう言った。


「それなら忠岑殿も素晴らしい歌を詠まれました。『山里は秋こそことにわびしけれ鹿の鳴く音に目をさましつつ』と言う歌を聞いた時には、目には山里の静かな景色が浮かび、耳には鹿の声が聞こえるようでした」今では貫之も懐かしそうに語る。


「ほう。本当に秀歌ぞろいだな。この文屋康秀殿の歌もその時に詠まれた歌ですか。



  吹くからに秋の草木のしおるればむべ山風をあらしといふらむ


 (激しい風が吹き付ける先から秋の草木は萎れてしまう

  だから山風と書いて嵐(荒らし)と呼ぶのだろう)



 言葉遊びを楽しむ歌でありながら、野分のわけと呼ばれる秋の嵐の後の荒涼とした悲しさや、安堵感がにじんでいる。嵐の去った後に相応しい、実感がこもった歌だ」


 躬恒は親王家歌合で詠まれた歌の束をめくりながら感心していた。


「あの時古歌として紹介されたこの歌も、忠岑の歌のように鹿の声を耳にした時の実感がこもった歌であろう」そう言って友則が指示した歌は、



  奥山にもみじふみわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき


 (山の奥に住む鹿がもみじを踏み分けながら鳴く声を聞くと

  秋は悲しいものだと思う)



 と言う、鹿が恋鳴きしても会えない悲しみを詠んだであろう歌であった。


「その歌の人物は悲しむ鹿に同情しているのでしょうか? それともすでに今の擬人法のように鹿に自分の心を例えて、逢う事の出来ない恋を悲しんでいるのでしょうか?」


 貫之は興味深げに友則に尋ねた。


「古い歌なのだから素朴に鹿の声を悲しいと思ったのかもしれないが、その悲しみは歌を詠んだ人物自身から出てきた感情だろう。和歌の持つ素朴な心情の吐露が、やがて自然と擬人法や、自らの心を様々な者に投影する技術に発展したと考えて良いのではないか?」


「そうですね。それが自然だと思います。古歌にも理知的な部分はある」


 躬恒がそう言って友則に賛同すると、友則は、


「この古歌は情景や心情を吐露するというより、景色から起こる感情を解説するような詠み方だ。康秀殿の言葉遊びやこの古歌は和歌としては理知的な方に入るだろう。詠み捨てられてしまう恋歌とは違う味わいがある。しかし和歌としての情感や優美さを失ってはいない。情景の装飾、美しい色彩、心にしみる音色。和歌にはそういうものがある」と言う。


「和歌は長く我々の心に寄り添っていますから」躬恒は穏やかに微笑んでそう言った。


「躬恒の歌にもそんな色合いが濃く出ているな。あの『心あてに折らばや折らむ初霜の……』と言う歌は遊び心を詠んでいても、鮮烈で清楚な白と言う色を耳にした者に強烈に印象付けている」


「ああ……、その歌が詠まれた席で、私は躬恒と出会ったのです。同色の美しさを重ね合わせる漢詩の様な感性。最後に詠んだ白菊を引き立たせる倒置法。自分に注目を集めるために朗らかに場を和ませながら、詠まれた歌は遊び心を表しているにもかかわらず、優美で繊細。何と言う才能の持ち主かと感動したものです」


 思わず貫之は当時を思い出して口をはさんだ。友則も、


「そうであったな。素晴らしい詠み様だった」と頷いている。


「二人とも私をそんなに評価してくれていたんですか。恥ずかしいな。あれは本当にとっさの事だったのに」躬恒は居心地悪そうな顔をする。


「何を言う。その機転こそがお前の歌の魅力だろう。その影響を受けて私は物名歌に夢中になったのだ」


「私の方こそお前に認められてどれほど嬉しかったか。あの時お前は私のことをかばってくれたが、それ以上にお前が私の歌を認めてくれていたことが嬉しかった。お前が歌の技術はもちろん、歌と言うのは人に伝えるために心に響かせなくてはならないものだという事を知っていてくれたことが嬉しかった。歌の心を知る者に認められるというのは、帝に認めていただく事と同じくらいに喜ばしい事だったんだ」


 そんな事を言い合う貫之と躬恒を見ながら友則は、


「二人が詠む歌はどんどん洗練されている。より優美に、より理知的に、より技巧的に。これから歌はますます高い文化を求め、そう言う事を求めていくだろう。しかし和歌と言うものは情感を失ってはいけない。人の心に寄り添い続けるもの。それが『やまとうた』だ。それをこれからも伝えるためにこの編纂作業はあるのであろう」と言った。


 そう。この歌集は『古今集』なのだ。今の技術と古歌の美しさをこれからも伝え続けるためにある。和歌の復権のためには、和歌であっても漢詩に劣らぬ技術を必要とされるだろう。しかしそれによって古歌が軽んじられることは無い。古歌が伝える心の豊かさがあってこそ、新たな技術と共に和歌は輝きを取り戻すはずなのだ。


「そうですね。我々はどうしても言葉の技術に心を振り回されがちです。逆に古歌にはそれが無い。この心を伝える事も重要なのでしょう」


 貫之は自分の詠んだ歌を振り返って反省する。どうかすれば言葉の技術に凝りたくなって、装飾華美に陥りそうになってしまうのだ。躬恒もそう思ったらしく、歌を選んだ。


「あるがままに詠む歌と言うのも、美しいものですからね。この在中将(業平)の歌のように」



  千早振る神代もきかず竜田川から紅に水くくるとは


 (目まぐるしく不思議な事が起きた神代でも聞いたことが無い

  竜田川が韓紅の色に水をくくり染めにしてしまうとは)



 紅葉の紅がくっきりと思い浮かぶような歌。川の流れは千早振るという言葉がその激しさを感じさせ、神代と言われた昔からの時の流れをも投影される。染め上げたように真っ赤に染まる竜田川。それはこれまでの時代をも鮮やかに染め上げてきた秋の情景だ。


「擬人法も、倒置法も、何かに投影させるのも、すべてただの技術ではない。歌を詠む心から生まれ出たものだ。我々はそんな心の込められた多くの歌の中で育ってきた。歌そのものよりもこの心を伝え続けなくてはならない。この心が伝わった時に、真実和歌は人々に認められるのであろう」


 和歌を理解してもらうには、知識の共有もある程度は必要だろう。しかしもっと大切なのは歌心の共有。それを伝えるために彼らは和歌の並べに数々の工夫をもたらしているのだ。



「竜田川の美しい姿は変わらずとも、時雨が降れば季節は冬ですね。冬の歌はこれを初めにしましょう」



  竜田川錦織りかく神無月時雨の雨をたてぬきにして


 (竜田川は錦を織ってかけている

  十月の時雨の雨を縦糸、横糸に使って)


 紅葉の美しい竜田川に時雨が降れば、その雨は紅葉を一層色鮮やかにする。それは時雨の雨を糸にして見事な織物を織っているからだろう。山の姿はかけられた見事な錦織のようではないか。美しい山の紅葉に冬の初めを感じながらも目を奪われた古歌らしい素直な歌だ。



「鮮やかな歌だ。冬は雪を詠む寂しい歌が多い。初めの歌ぐらいはこのくらい華やかでいいかもしれないな」躬恒もこの歌を冬の初めにするのは納得しているようだ。


「いやいや。雪の歌が寂しいとは限らない。それなら私は美しい雪を詠もう」


 そう言って貫之は歌を詠んだ。



    冬の歌とてよめる


  雪降れば冬ごもりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける


 (雪が降れば冬ごもりしている草や木にも

  その積もった雪によって春には知られることのない花が咲くのだ)



「おお。これは雪の歌としては華やかだ。是非白雪を岩に咲いた花だと詠んだ、紀秋岑きのあきみね殿の歌の前に置こう」


 躬恒は喜んで貫之の歌を並べる。寂しげな雪の孤独を詠む歌の間にこの歌を並べると、雪の歌もすがすがしく思えて来る。


「是定親王家の歌合も素晴らしいが、寛平の御時に行われた后宮様の歌合も名歌が多いな。この興風殿の歌はこちらの想像をかき立てられてしまう」


 貫之が示したのは藤原興風が后宮の歌合で詠んだ歌だ。



  浦近く降りくる雪は白波の末の松山越すかとぞ見る


 (海岸の近くに降ってくる雪はまるで白波のようだ

  この波ならば末の松山ですら越えるのではないかと思って見ている)



 末の松山とは、どんな波でさえも超える事が無いとされる場所。そんなところでさえも降り積もる雪を白波に見立てれば、波が越えたように見えるのではないかと眺めている気持ちを詠んでいる。海辺にいれば雪でさえも波のように見えるのか。都にいながらその姿を想像するのは実に楽しいことである。


「本当だ。雪を詠んでいながら、何か胸を躍らせられる歌だな」


 躬恒も楽しそうにそう言う。これも人の心に寄り添う歌であろう。


「后宮の歌合で冬の歌はもう一つ選んであるぞ。これもありきたりで無い、心がハッとする歌だ」



  雪降りて年のくれぬる時にこそつひにもみぢぬ松も見えけれ


 (雪が降って年がくれる頃になってこそ

  最後になっても紅葉しないのは松である事が見られるのだ)



 人々は草花の美しい変化を好む。それが春や秋を憐れむ心にもつながっている。どうしても華やかなものに心は奪われ、やがて散ると分かっていても花や紅葉を称賛する。

 しかし松は変化をしない。いつの時も青々とした色で人々の目を慰めている。華やかな花の影や、紅葉の裏にひっそりとしている時は誰もその価値に気付かない。すべてが雪に覆われ、年も暮れようとする時になって人は気づくのだ。決して枯れたり散り落ちたりしない松の美しさに。そして新たな年を変わらず迎えることへの感謝をも、この歌は詠んでいるのだろう。


「ああ、本当だ。これは心が洗われる歌だ。こういう歌が和歌の本質を表しているのかもしれない」


 漢詩でこれを語れば、どこか堅苦しく、理屈っぽくなってしまうだろう。そうした教えを和歌はやんわりと心に沁み込ませてくれる。


 こうして美しい四季の歌は並べられた。そして編纂は人生の喜びを祝う、賀の歌へと入って行く。





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