表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/87

紙と油

 あの落雷騒動は殿上人達に大きな影響を与えた。

 あれから時平は身分以上に人々に重く見られるようになった。そもそもが政治の実権を握る権力者であったが、今は道真の怨霊から内裏を守る力を持つ者として世に欠かせない存在と思われている。


 だがそのことで殿上人達は安心していられるわけでもない。帝と時平は怨霊に打ち勝つ威光と力がある。しかしその怨霊を引き寄せる元凶でもある。決して口に出すことはできないが、心の内では誰もがそう思い、暗黙の了承となっている。だから殿上人達は帝と時平をこれまで以上に敬い、ひれ伏し、彼らの政に異を唱えることは無くなった。それだけ道真の怨霊に人々は脅えていた。


 多くの殿上人は心の底で道真に怨まれる覚えがあった。誰もが一度は彼を邪魔に思い、消えて欲しいと願っていた。道真が出世をすれば嫉妬したし、自分の利益にならぬことを行おうとすれば、妨害した。一方で道真の権威にすり寄ったり、身を引き立ててもらおうと懇願したりもし、挙句の果てに裏切った。


 しかしそれは殿上においては特別な事ではない。内裏の中で貴族として生きていくためには当然の処世術だ。それが間違いだとか、悪いことをしていたなどと殿上人達は思っていない。誰もがやっていることを皆と同じようにしただけで、直接道真を追い落としたり追放したわけではない。むしろ自分達は道真に追い抜かれ、身分に不似合いな思いをさせられた犠牲者だとさえ考えている。直接道真を排斥したのは帝と時平なのだ。


 それでも人々は心の底で分かっている。道真を本当に都から追放せざる得ない状況に追い込んだのは、自分たちの声なき声が原因なのだろうと。だから道真の怨霊にこうまで脅えてしまう。

 その不安から逃れたい一心で人々は


「法皇や帝や時平による道真への破格の対応」や、


「帝と時平による追放」が道真を怨霊としてしまったのだと思いこもうとしている。


 それを口に出して皆と同じ不満を共有していることを確認し、自分だけではないと安心したいのだが、高貴な方々を相手にそれは許されない。

こうした口に出せぬ不満にははけ口が求められる。だが怨霊への不満を並べ立ててもただの愚痴になるばかりで、不安の解消にはならない。人々の心は他に不安の原因になるものを求め、それを排斥しようとしていた。


 内裏の殿上と言うのは、この世で最も清らかでなくてはならない場所だ。お身体の中に神を宿された帝がお住まいになられる場所。それが内裏と言う場所だ。この世で最も清らかな人物が暮らす場所であるのだから、内裏に穢れは許されない。

 内裏で行われることはすべてが神事であり、意味があった。内裏での行いはすべてが格式に則ったものであり、清らかに、形式通りに行われる。殿上に上がれる者も蔵人を除いて血筋も位も恵まれた五位以上の者と決められている。


 ところが今、殿上には例外的な存在がいた。五位に満たぬ下賤な者が殿上に昇っている。勅撰和歌集の編纂者たちだ。


 彼らは帝の寵愛を受けて特別に殿上に昇っている。本来なら徒歩で地面に足をつけて歩く地下人でしか無い。殿上人達から見れば彼らは清らかなはずの殿上に置いて唯一の汚点であった。高貴な者たちによって生み出された清浄な空間に紛れこんだ「穢れ」と言ってもいい。もともとそれを不快に感じていた殿上人達は、彼らに不満をはけ口を求めた。


「清浄なる内裏の奥。それも帝が御公務に当たる紫宸殿のさらに奥の奥、承香殿のさらに東奥と言う、後宮に近い場所にあのような賤しい者を置いているから、怨霊と言う穢れを導いてしまうのではないか」


「そう言えば今年は紀友則が六位に出世していた。帝が道理に反した待遇をあのような粗末な者に与えるから、怨霊などに付け込まれるのだ」


「そもそも和歌など、色恋ごとのためにその場で詠み捨てられるような物を、さも大仰に扱われるから、このような事が起こるのだろう」


「下賤な者は早く殿上から追い払うべきだ」


 殿上人達は口々に編纂者たちを内裏から追い出すようにと帝や時平に迫った。しかし、


「何を言うか。和歌は今ではこの国の重要な文化だ。特に遣唐使が停止した今となっては、やまとことばによる文化の発展は欠かせない物となった。編纂者たちを特別に扱うのは国の利にかなったことだ」


 と言って時平は編纂者たちを擁護した。


「文化と言っても……たかが和歌ではございませんか」


「その和歌が重要なのだ! 自分たちの言葉で、自分たちの誇れる文化を記す事が重要なのだ」


 時平の一喝に、人々は息をのんだ。……あの雷雨での姿が思い浮かぶ。


「あの大国であった唐の今の姿を知らぬわけではあるまい。あれほど優れた国でさえ一旦荒んでしまえば多くの書や文化が失われ、内戦が繰り返され、理屈の通らぬ野蛮な国となってしまう。隣の半島の国々も戦を繰り返している。自国の誇りと文化を失えば、この国もすぐにそのような野蛮な国となり下がるであろう」


 殿上人達は青くなった。唐の荒廃ぶりはすでに隠しようのない状態となっていた。我が国が憧れ、目標としてきた国の荒んだ姿は、理念を失い文化を放棄した国の末路が、いかにあっけないかを物語っている。もともと自己保身の塊となっている殿上人達は、そのような荒んだ世を生きることなど想像もしたくない。


「もっとも編纂者の二人は紀氏の者だ。紀氏は遠い昔には大変優れた武士であった。彼らにとっては野蛮な戦の世の方が、今よりずっと生きやすいかもしれんが」


 時平の言葉に殿上人はぞっとする。彼らにとって武芸とは儀礼的な儀式でしかない。しかし確かに昔はこの国にも戦はあった。今でも西国などは入寇の脅威から逃れられずにいる。この国も大国、唐の政を模範として文化を重んじ、法を整備し続けてきたからこそ、今の自分たちの地位がある。もしそれを失えば紀氏の様な家が栄え、自分達はこれまで築いてきた多くの物を失うのであろう。


 一方で和歌は女相手に詠み捨てられてきた半面、高貴な女達と縁を結ぶための有効な手段としても使われてきた。そして時平は自分の妹を使って大きな権力を手に入れている。高貴な女たちとの歌のやり取りはこれから一層重要になるだろう。すでに和歌は「たかが」と言えない文化となっていたのだ。



 殿上人達は編纂者を内裏から追い出すことはあきらめざるを得なかった。しかしそれで不快感が無くなる訳ではない。むしろ権力者に優遇される彼らに対して、嫉妬の感情はいや増すばかりである。編纂者への視線はますます冷たくなり、彼らに協力する貫之の主人、藤原兼輔と、兼輔と親しくしている従弟の定方への対応までも冷酷になっていった。特に定方は泉大将(定国)の弟と言うことで、若く身分も地方官でしかないがそれなりに重んじられている。それだけに嫉妬もされやすいのだろう。


 そのため兼輔と定方が貫之に提供していた多くの紙や灯し油が、二人が人にいいつけてもきちんと用意されなくなっていた。役人の手に渡った途端に必ず行方不明になってしまうのだ。

 兼輔が役人に不手際を非難しても、役人はいい訳すらせずに固く口を結んでこわばった顔をするばかり。おそらく殿上人に口止めされているのだろう。


「紙が無くては不便であろうに。主人の私の力が及ばないとは情けないことだ」


 兼輔は貫之にそう言って悔しげにしている。この主人は従者のために我が心を痛めることができる、優しさのある人だった。


「めっそうもない。それに不便などしておりません。我々はもともと刀筆とうひつ。これまで通り木片に書きつければ良いだけのことです」


「しかし、油は困るであろう。日が暮れては作業ができぬ」


「今はまだ夏でございます。作業するには十分な時間がございます。日の長い今のうちに出来るだけ作業を進めます。冬になったら……、その時はその時でございます。御書所からでも分けてもらいましょう。それより兼輔様や定方様の事が心配です。我々のことでご迷惑をおかけしてはいませんか?」


「そのように心配するという事は、そなたたちも辛い思いをしているのであろう。まったく殿上と言う所は分からず屋が多い」


「分かっていただけるような歌集を編纂して見せます。我々にはもったいなくも帝の御信頼と、時平様の後押しがございますので。我々の事に御心配は要りません」


「その、自信ある言葉に心配が無くなった。素晴らしい歌集を期待している。我々の方も心配はいらぬ。私は帝の東宮時代から昇殿し、帝をお支え申し上げている。その帝がこの和歌集に大変期待なさっておられるのだ。そなたたちは安心して作業にいそしめば良い。紙と油の件はなんとかする」


「そのお気持ちだけで十分でございます」


 貫之は本当にそう思っていた。兼輔は帝への忠義も深く、文化文芸、特に和歌への理解も深く、従者や使用人たちへの心遣いも出来る、明るく伸びやかな気質の人物だった。こういう人に自分を認められて従者となり、こうした気遣いを見せていただけるだけでも貫之には十分に幸せな事だった。



 しかし、兼輔は貫之を決して放っては置かなかった。ある日貫之は編纂作業の合間を見て久しぶりに御書所に顔を出した。するとそこの役人たちから大量の紙と筆、灯し油を渡された。


「これは、一体どうしたのだ?」


「これは兼輔様と定方様が我々に良い仕事をするようにと下さったものです。ですが、我々にはこれほど多くの紙は必要ありませんので、貫之殿に使っていただこうと思いまして」


 役人はそう言いながら目配せをしてきた。おそらく初めから兼輔が貫之に渡すように頼んであったのだろう。殿上人もこんな末端に配られる物にいちいち目を通してなどいないはず。


「兼輔様も定方様も、私達の役目をとても重んじて下さっています。紙も油も使いきれないほどご用意くださっているので、貫之殿が必要なだけもって行ってかまいません。これからも不足することがあれば、遠慮なくこちらからお持ちください」


 役人はそう言うが、真っ白な上質の紙。ふんだんな油。書き心地の良さそうな筆。どれも他の役人たちも使ってみたい品々であろうに、どの品もまったく手をつけられた様子は無い。それは彼らの心遣いをそのまま表している。


「殿上は厳しいところでしょうが、我々は皆、素晴らしい和歌集が編纂されることを期待しています。これからも御不便があればこちらにおいで下さい。出来るだけのことはさせていただきますから」


 役人はそう言って笑顔を見せる。


「皆……。我々編纂者が殿上したせいで、雷を呼び寄せたとは思わないのか?」


 思わず貫之は、殿上人達が投げかけた言葉を問うたのだが、役人たちは、


「下賤な者がいるから雷が落ちるというなら、この辺りはとっくに黒こげになってますよ」


 と言って笑う。


「それに、貫之殿達には徳があります。素晴らしい歌人と言う徳が。歌は我々の心を和ませ、思いを伝えてくれる。その素晴らしい徳は殿上するに値すると我々は思っています。どうか自信を持って下さい。我々も楽しみにしているのですから」


 貫之は胸が熱くなった。これほどまでに人々は歌を求めている。どれほど高貴な方が妨害しようとも、和歌への情熱は冷めるどころか、こうした人々に支えられて熱く燃えあがるようである。


「ありがとう。必ず期待に応えよう」


 貫之は真っ白な紙を大事に抱えながら、御文庫へ向かう。この紙の束を見て、喜びと熱い感謝に高揚するであろう、他の編纂者の顔を思い浮かべる。

 我々は負けぬ。何があろうとも。


 皆の思いはこの紙よりも重い。そして、和歌集に寄せられている思いはさらに重いのだ。

 

 



  

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ