啓示
皆で休みを取った間、貫之は歌選びや躬恒と月見をした以外は御書所に顔を出した他に、大内裏の他の場所にも行っていた。それは貫之にとって懐かしい場所……内教坊だ。
内教坊には貫之の母が妓女として暮らしている。貫之の本来の職場である御書所は内裏の建春門の近くにあるが、内教坊は大内裏の左端、上東門のそばにあった。遠いとまでは言えないが広大な大内裏なので、近いとも言い難い。貫之は自分の役職と歌人としての時間を過ごすのにいつも精一杯で、内教坊とは長く疎遠になっていた。
歌人として名が上がりだすと歌会や宴に忙しくて時間が取れなくなり、この数年母の顔を見に行っていない。逆に歌会が減ると自分の立場が不安定になり、そんな時に情けない顔で母親に会いに行くのはためらわれてしまう。母の舞はいまだに美しく、高貴な方々のお褒めに預かっているので消息はいつも耳に届いている。それでついつい顔を出さずにいるうちに、自分が歌集の編纂者に選ばれてしまい、母親のことなど頭から失せてしまっていた。
しかし、古歌や宮廷行事の歌などに触れると内教坊の事も懐かしく思い出される。時間が取れたら母のもとに顔を出そうと思っていた所に七夕前の休みが出来た。そこで久しぶりに母の顔を見に内教坊へと足を運んだのだ。気丈な母は、
「帝の住まわれる御殿でお勤めをなさっているあなたが、このような賤しい所に来るなんて」
と、貫之をいさめたが、貫之は、
「その帝の行われる神聖な行事の舞を舞われる母上に会いに来ているのです。何の賤しい事がありましょうか」と言ってかまわなかった。
それでもやはり母親に違いなく、我が子が帝直々の命を受けた事が心から嬉しいらしく、
「母はあなたがこのようなところでくすぶる者になってはいけないと思い、思い切って友則殿にお預けしました。あなたは大学寮でも良い成績を収め、歌人としてまでこのように立派になって、帝にお仕えする身となられました。本当に母はあなたを自慢に思います。低い身分から良くここまで頑張ってくれました。あなたの名を高貴な方々が口にする度に、母はどれほど嬉しく思っている事か」
「そうおっしゃる母上こそ御名声は伺っております。今では御自分が舞う以上に、他の方々への御指導に熱心でいらっしゃるとか」
「……もう、年なのですよ。そう多くは舞えなくなってしまったのです。来月の観月の宴のように大きな行事の時は舞いますけど、内宴などは殆んど若い人たちに任せているのです」
確かに、久しぶりに見る母の姿は随分老いて見えた。舞う時は当然濃く化粧を施し、髪も結い上げ、櫛などをさして華やかに着飾って若々しくしてはいても、こうして自分の局でくつろいで素顔でいる母の姿は年相応に見える。母もそろそろ五十が近づいているのだ。だが息子としては自分の母の老いと言うのはあまり認めたくないもので、
「何をおっしゃいますか。肌の色つやもよく、とてもお元気そうに見えます。まだまだ多くの舞を人々にお見せできそうではありませんか」と貫之は言った。
夏の歌は思った通り数が少ない事もあって、ひと月足らずで選び終えた。夏は景物が少ないので、多くがほととぎすの歌ばかり。そしてほととぎすは懐古の思いや懐かしさの象徴であった。当然選ばれた古歌も、
ほととぎす鳴く声聞けば別れにしふるさとさへぞ恋しかりける
(ほととぎすの声を聞くと、今は別れた懐かしい場所まで恋しく思われる)
と言った、ほととぎすに昔を思い出す歌ばかりであった。夏の歌を選び終えると貫之は懐かしい故郷に戻るように内教坊の母を尋ねた。すると母は、
「これから多くの舞を舞うかもしれませんね。今年はともかく、来年は凶事を払う行事が増えるかもしれません。……あなたは本来、御書所の預。何かと聞いているのではありませんか?」
と聞いてきた。母が言っているのは、最近の天候不順と陰陽師による占いの事だろう。帝と時平はこれまでの唐にならった政を一変させ、朝廷は陰陽道による占いなどこの国に昔から伝わる政を多く復活させていた。他にも雪解けの山の残雪の残り具合、梅や桜の花開いた日、風や雲の流れ……。古来から伝わるこの国にあった占いを重要視するようになった。
しかし、それがどうしたわけか、多くの事柄で凶兆が見え始めているらしい。実際まだ早い季節から今年は雷や雹が多かった。このところ落ち着いているし、今年の作物は順調で例年通りの収穫が期待できると言うが、何故か占いは星の運行なども良くなくて、来年には凶事が続くのではと恐れられている。
「確かに占いには凶事の標が見えて、早くから対策が取れるように様々な手立てを考えているようですが、すべてほんの小さな標です。政務に大きな変化があったので、用心のために色々考えられているのでしょう。世の中がようやく安定した所なのですから」
「そうですね。御懸命な帝のお考えですものね。どうも年をとると取り越し苦労が増えて」
「それで母上の舞う機会が増えるのなら良いではありませんか。私の身分ではその舞もろくに見られないのが残念ですが」
貫之がそう明るく言うと母は少し考え込むような顔をして、
「あなたもお正月の行事が立て込む時は、編纂の仕事もお休みするでしょう。その時くらいは藤原定方様に御配慮願って、私の女踏歌の舞を見られるようにして頂きましょう」と言った。
「そんな。私が内裏のうちにいるのも大変な特別扱いですのに、そのような我儘をお願いなど出来ませんよ。それに、定方様と母上は面識があるのですか?」
すると母はおかしそうに、
「面識も何も、定方様はあなたが続万葉集の長歌でお見せした工夫に大変感心されて、とてもあなたを気に入っているのですよ。わざわざ私を訪ねていらして、帝がお召しになっていなければ、自分が従者にしたかったとおっしゃったくらいです。あなたの編纂作業が終わったら、是非従者にしたいと私に断ってきたのです」
「そのような事が。まったく知りませんでした。定方様とは草稿をお見せした時に一度お会いしただけなのですから」
「そういう、編纂のお仕事に夢中になって、まったく無欲になるあたりがお気に召しているそうよ。あなたがお願いしなくても私がお願いしましょう。私も自分が舞えるうちにあなたに舞を見てもらいたいのです。女の舞とは言え、古くから伝わる古風な舞は何かあなたの歌のお役に立てるかもしれません」
そして母とは大歌所に伝わる歌について話をし、特に「大直日の歌」や「古き大和舞の歌」は決して外さないようにと注意を受けたりした。大直日の歌は禍を吉に転ずる国の大切な歌であり、大和舞の歌は帝への絶え間ない尊敬の思いを込めた歌だからだそうだ。
その頃筑紫では、道真が山路を歩いていた。「天拝山」という、地元では霊験あらたかな霊山だ。道真はこの山の神々に自らの無実を訴え、帝に身の潔白を証明して下さるようにと、この山に登る事を決意した。同行するのは弟子の安行ただ一人。山のふもとまでは逃走防止に役人がついてきたが山に入るや、何故か激しい雷雨が降ってきて、
「登るなら勝手に登れ。我々は山路を見張っている。下手に逃げても道に迷って、獣の餌にでもなるだけだろう」
と言ってついては来なかった。それでも道真はせめて神々にだけは身の潔白を信じていただこうと山路を登り始めた。
激しい雨の止み間を縫うように道真は山を登った。時折ぬかるんだ道に足を取られ、転んでも転んでも、山路をひたすら行く。雨は小ぶりになったり、時には長く止む事もあったが、雲はずっと低く垂れこめており、不気味な雷は始終不穏な雷鳴を鳴らしていた。
神々よ。どうか信じて下さい。私は本当に無罪なのです。私と同じように苦しんでいるであろう我が子や弟子たちも、何の罪も咎も無いのです。帝に我が無実をお示し下さい。そして私と子供達を都にお返しください!
しかし願い空しく雷鳴はとどろくばかりで、雨は行く手をさえぎってしまう。それでも山頂に近づくと、
「神よ! 私は都に戻れはしないのですか? 帝に私の無実をお示しくだされないのですか!」
道真は叫んだが、そこに稲光が閃き、近くの立ち木に落雷する。
「神すらも、私の言葉を信じてはくださらぬのか! それとも神はすべてを御存じでも、帝の心は……都人の心は頑なであるのか!」
すると不思議な事に突然黒雲が割れて、青い空が僅かに顔を覗かせた。そして一筋の光が道真の身を照らす。
「おお……! やはり神はすべてを知っておられるのか。そしてそれほどまでに都は私を疎んでいると言うのか!」
道真は悲しみの涙にくれた。安行も脅えながら涙していた。
「私はもう、都に戻りたいなどとは二度と口にするものか。人の世が私を陥れ罪人と扱っても、神々は私の無実を信じて下さる。神々よ。我が子や弟子たちの事はお守りください……! 私はここで朽ち果ててもかまわない。いっそ、このまま怨み募らせて、怨霊になり果てようぞ!」
不思議な光に照らされながら天に向かってそう言う道真の耳に、不思議な声が響いた。
『そなたは霊などと言う低俗なものになる事は無い。そなたは我々と同じ神となるのだ』
「私が……。神に?」
『そうだ。そなたはこの天を雷鳴で満たす事が出来るようになるであろう。そしてその雷鳴を自在に操れるようになる。そなたが怒りの力を見せつけることで、そなたの子たちも都に戻る事が出来るだろう。これからの苦しみはそなたが神となるための苦しみ。案ずることは無い。そなたはもうすぐ、神として生まれ変わるのだ』
「神として……生まれ変わる」
『そなたはこの後、「天満大自在天」を名乗るが良い。そなたは我々の仲間。不浄な地上の時間はもうすぐ終わる。あと少しの辛抱である。案ずるな……』
黒雲は瞬く間に去り、青空が広がって行く。道真は安行の肩をつかんだ。
「今の、神々からの天啓を聞いたか? 私は……私は神に認められた! 私は神となるのだ! 天満大自在天となるのだ!」
安行には道真の言葉の意味が分からなかった。安行が知ったのは道真がこれほどまでに追い詰められてしまっていると言う事だ。我が身がここで果てようとも、自分の無実が晴れず、怨霊となってでも、我が子と弟子たちに救いの手を伸ばして欲しいと神に祈るほどに追い詰められていると言う事を。
「師よ、もう下山いたしましょう。もう、十分でございます……」
安行はなだめるようにそう言った。
「ああ、戻ろう。大丈夫だ。苦しみは一時のこと。私はいずれ神となるのだ。近いうちにな」
道真の目に怪しい光が宿っていることに、安行は気づかななった。
貫之達の秋の歌選びはやはり難航した。春同様この季節は景物が多く、歌の数が多かった。七夕の、
秋風の吹きにし日よりひさかたの天の河原に立たぬ日はなし
(織姫は秋風の立った立秋の日から
彦星の到来を持って天の川の河原に立たない日は無い)
と言った歌から、紅葉が散る、
竜田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなむ
(竜田川に紅葉が散り乱れて流れているようだ
この川を渡ると錦のような紅葉を断ちきってしまうだろうか)
と言った歌まで、月や初雁や花や虫など、さまざまに詠まれた歌から選び出すのは容易ではなかった。それでも少しは作業に慣れた事もあってか、新嘗祭までには秋の古歌を選び終えた。冬の歌は夏以上に少ないし、恋の歌は古歌の方が自然な事もあってあまり減らさない方向で考えている。この分なら今年のうちに古歌の選別は終えられそうだ。
「雲行きが怪しいな。また雷が鳴るんじゃないだろうか」
祭の準備に忙しい人々を眺めながら、貫之は言った。祭の間は内裏の中も騒がしくなってしまうので、編纂作業も中断しなくてはならない。忠岑は定国の従者として祭の席でも控えているし、友則もこの機会に家族とくつろいでいる。躬恒はせっかく祭の日に内裏の中にいられるのだからと、雰囲気を楽しんでいるらしい。祭の間は内裏の中もささやかな無礼講があり、袍の色など禁色(特に高貴な人間以外には許されない色)を除けば好きな色を身につけたりもできるのだ。
「せっかくの新嘗祭なのに。雨なんか降って欲しくないな」躬恒は空をにらんだ。
「私達では五節の舞姫の微かな気配にも近づけやしないけどな」
「そう、そこだよ。お前は母上が妓女なのだろう? 何かのつてで舞姫の姿をほんの少しでも垣間見ることは出来ないのか?」
「何を言う。いくら舞姫のお世話をすると言っても、相手は良家の子女。母上もお声も直接はかけられない。それでなくても身分違いの私達は、殿上人から目をつけられているんだ。軽々しい真似をすれば帝の御好意を汚すことになる。祭だからと浮かれてはいけない」
「ああ、そうだった。残念だな。それにしても今年はやけに雷が多い。もう冬だと言うのにいまだに雷鳴が聞こえるなんて。来年は占いでは凶兆が見えると言うのは、本当のことだろうか?」
「陰陽師達が幾度も占っているそうだが……。あまり良くないようだな」
それに内裏では嫌な噂がささやかれ始めていた。なんでも大宰府の道真が雷雨の中地元の霊山に登り、何かを呪っていたらしいと言うのだ。だから今年は都に雷が多いのだとか。もしそれが本当なら、道真は都を相当恨んでいると言う事になる。道真が特に恨むとすれば、やはり帝と時平を怨むだろう。今、自分達はその帝と時平の命によって歌集を編纂している。お二人の身は大丈夫なのだろうか?
四人は心の中でそう案じていても、それを口には出せずにいた。道真の様な聡明な人がそのような恨みを晴らす心に走るとは、考えられずにいた。だが彼らは知らなかったのだ。道真が大宰府でどんな扱いを受けていたかを。季節外れの雷雨の中で、ひどく雨の漏る今にも朽ち果てそうな家の中で光る稲光に目を輝かせながら、
「もうすぐ時は来るのだ。もうすぐ……!」
と繰り返し、役人たちに罪人としてさげすまれながら、都を呪い自分が神となる日を夢見ていることを。




