四人の撰者
時平は勅撰の和歌集を創るためには、まず撰者を決めるべきだと帝に進言した。そして詩歌に対しては誰よりも造詣の深い宇多法皇を呼び、帝との面会の席を設けた。
あの道真左遷の一件から一年。ずっと仁和寺で仏道三昧に明け暮れていらした法皇と帝は、久しぶりに顔を合わせた。さぞや気まずい事になるだろうと周りは緊張したが、意外にも法皇は淡々と、
「帝の勅命にて和歌集を編纂されるのは、この国の文化の発展のために大変喜ばしい事です。遣唐使の交流も無い今、是非、国風文化を繁栄させなくてはなりません。この歌集はその大切な礎となるでしょう」
と言って、帝の和歌編纂の意欲を讃えた。さらに、
「帝の御名の下で創る以上、ただ古い歌を集めればよいと言う訳には行きません。この歌集はこれから人々が和歌に触れる時に、どのような歌が大和魂に相応しく人々の心に受け入れられてきたのかを知る、第一の手掛かりとなる物にしなくてはなりません。単に良い歌が詠めると言うだけではなく、これからの和歌の世界に大きな期待を寄せる者に選ばせるべきでしょう」
と、この和歌集に対する期待と、編纂者を選ぶ重要性を述べた。
「私もこの国のこれからの文化がかかっている編纂となると思っています。そこで編纂者を決めるにあたって父上の御意見を伺いたいと思いまして」
「そうですか。帝はどのような者を考えていますか?」
「順当に名をあげるなら内裏や後宮での祝い事などに良く歌を詠まれる素性法師や、句題和歌を奏上した大江千里。藤原興風や紀友則などがあげられるでしょう。彼らなら歌の人気も、これまでの実績も十分にあります。藤原敏行が亡くなってしまったのは残念です。彼なら良い撰者となり得たでしょうから」
「私もそう思う。惜しい人物を失ったものです。私は今あげた者の中から紀友則を推したい。彼は和歌の先人達を育てた、小野宮(惟喬)親王の集りから出た歌人だ。親王は素晴らしい歌人を育てたが、その中でも業平や敏行、友則はこれまで歌人の世界を良く率いてくれていた。友則なら良い歌が詠めるだけでなく、良い歌の選別もできることでしょう」
「友則ですか。あの秋の春霞の歌は見事だった。時平、今友則は何の職について居る?」
帝が尋ねると時平は、
「今は小内記の職にあります。なかなか正確な作文力を持っており、内記の中でも優秀な人物です。温和な性格なので人々の信頼も厚く、従弟の紀貫之の後ろ盾もしているようです」
と答えた。すると法皇が、
「貫之か。彼は確か時平が気に入っていたな。時平は彼をどう評価する?」と尋ねる。
「工夫を凝らした、それでいて情感のこもった歌を詠む者と見ております。何より明るく前向きな人柄などに好感が持てます」
「それほど良く貫之を知っているのか? 彼は今何の職についている」
法皇が意外そうに時平に聞いた。いくら気に入っている歌人とはいえ、彼は身分が低かったはず。人柄が知れるほど時平と親しいとは思えなかった。
「御書所の預をしております。有能で必要な文章も素早く探し出し、美しい筆跡で書き写す事が出来るそうです。ですが何より、歌人として和歌の世界に大変明るい希望を持っております」
「貫之をよく知っておるのだな」
「いいえ。歌合で顔を見る程度で話を交わした事も御座いません。しかし彼は去年の本康親王様の賀の折に、親王側に自ら願い出てまで屏風歌を献上しております。私の不徳により起きた政変により、歌人たちは活動の場を失っておりました。おそらく先の見通しも立たず、不安に思う歌人が多かったであろうと思います。そんな中で貫之は屏風歌に和歌の活路を求めたのでございます。こうした彼の粘り強さと前向きな思考が、私には頼もしく思えるのです」
それを聞いて法皇は納得したように頷いている、だが帝は、
「確かにもとから心構えが無くては、そう言う事も思いつくものではないな。だが、貫之は時平と同じくらいの年頃であったと思うが。この重責を担うには少し若すぎないか?」
と難色を示した。帝自身が若くして重い責務を背負う身であるので、貫之への荷の重さが気になるようだ。
「だからこそ、この国の文化を託すに値すると思うのです。彼の前向きさも若さあっての物かもしれませんので」
すると法皇が口をはさんだ。
「私は時平の意見に賛成だ。時平と帝は私と道真では成し得なかった改革を実行し始めている。これは若いお二人だからこその発想と政に前向きに向かいあう姿勢がもたらしたものでしょう。私は若い、前向きな心を信頼したい。若年だからこそ、貫之を撰者に加えるべきです」
これは法皇からの帝と時平に対する許しの言葉であった。二人は法皇と道真を引きはがし、道真を不幸の底へと落し込んだ。道真は今も大宰府で苦しんでいることだろう。助ける事が出来ぬ法王にとっても、胸中は苦しみの真っただ中だ。それでも二人の改革はそれだけの価値がある。
法皇はそう認めたのである。
今ではこの三人は、道真を罪人としてしまった罪の意識を、共有する同士となっていた。
「それに素性法師は歌の贈答を交わし合うなど道真を大変尊敬しておりました。帝からの勅命を受けるのは少々酷かもしれません。千里も道真を通じて句題和歌を献上しております。心情的にも複雑でしょうし、同じような任を繰り返すことにもなります」
時平はそう進言した。道真の影響を受けた文化人は多い。いくら法皇が陰から支援しても、やはり道真に近い人物や、時平から遠い人物は選びにくいという事情もあった。その点、友則は出世を時平との贈答歌で求めてきたり、さまざまな歌会や歌合で時平が友則と貫之に注目していたりと、時平にとってこの二人は推薦しやすい存在でもあった。
「成程。これは紀氏の二人は決まりでよいであろう。他には興風など……」
帝が歌人の名を上げようとした所に、再び時平は歌人の名をあげた。
「凡河内躬恒はいかがでしょう?」
「躬恒か……。確かに良い歌人だ。しかし彼はかなり低い家柄の出身だったはず」
「はい。凡河内氏は殆んどの者が親の代から無位無官で、下人ばかりの家柄です。ですが、躬恒は本人の努力で甲斐少目として甲斐の国に下向しております。四年前に都に戻ってからはまた無官でありますが、分かりやすく優雅な歌は人々に人気があります」
「人々に広めるための歌集に、そう言う撰者は相応しそうだ」
「それだけではありません。躬恒と貫之は大変親しい仲で、この二人の和歌は互いに深く影響を受けあっているのです。躬恒は即興歌が得意なのですが、その影響を受けて貫之も今では物名歌の名手となっております。躬恒の歌に雅やかな技巧が優れて参りましたのも、漢詩に造詣が深い貫之の影響でしょう。こうした意欲的な関係を持った者を撰者に加えれば、優れた歌集が生まれると思うのですが」
「しかし……もとの地方の四等官か。やや位が低いな。撰者に選ばれれば内裏での作業を余儀なくされる。もう少し位を上げねばならないだろうか?」
帝のこの言葉を法皇がいさめた。
「いえ、それはなりません。帝は私と同じ過ちを犯すおつもりですか? 安易に位を上げては、人々から強い反感を買う。そしてその者を孤立させてしまう。恐らくは位が低いほどに影響は大きいでしょう。躬恒は自身の努力によって少目となったと言うのだから、歌才を見てもなかなかに能力が高いと思われます。そう言う者ほど妬まれるのを私達は十分すぎるほど知っている。家柄も低いと言うのなら、むやみに身分を上げてはなりません」
「そうでした。おっしゃる通りです。思慮に欠けました」
こんな部分で若さが出てしまう。やはり法皇様に助言を求めて良かったと時平は思う。
「これで三人。熟練の友則に、比較的若い躬恒に貫之。せめてもう一人練れた人物がいた方が良さそうです。私は、壬生忠岑を加えたいのだが……。忠岑は友則と大変親しいと聞いているが」
法皇の問いに時平が即座に答えた。
「はい。長年の親友同士と私も聞いております」
「この二人も長年にわたり良い歌を詠み続けている。おそらく貫之と躬恒のような関係を続けた結果であろう。長年和歌の世界を牽引していた二人だ。他の二人の足らぬ所も補ってくれるであろう」
「それは期待できますね。撰者はその四人で決めようと思います」
帝のこれまでの流れから、法皇の意見に賛成した。
「しかし忠岑は躬恒よりさらに下の身分。確か八位にさえ届かぬ身であった。この際、歌集の撰者たちは優秀な歌人として特例を認めるようになさってはいかがであろう?」
「成程。そのほうが後々身分が低くとも優秀な歌人を、行事の席などにも招きやすくなりますね。父上のおっしゃる通り、そのほうが良いかもしれません」
「だが確か忠岑は泉大将と呼ばれている、大納言藤原定国の大変従順な従者だと聞いている。定国と時平は長く権勢を争って来た。その定国の従者を撰者に選ぶ事に、時平は異存が無いのか?」
法皇は忠岑が時平に次いで権力を持つ定国の従者であることを気にかけたが、
「時平はそう言う事にこだわる者ではございません。私の政のために権勢を高め、強引な手段を取っているにすぎません。信頼のおける臣下とはそう言う者だと、父上も御存じのはずです」
思いはまた、道真へと向けられていく。もしかしたらすでに彼らは、道真への罪悪感と言う呪縛に、縛られてしまっていたのかもしれなかった。
「では、撰者は紀友則、貫之、壬生忠岑、凡河内躬恒の四人と言う事で。四人にはすぐにでも、万葉集からもれてしまった後世に残すべき優れた古歌を集めさせましょう。それに撰者以外の歌集なども集め、続万葉集の編纂の詔を近々下せるように致します」
そう言って時平は四人の撰者に知らせを送った。
知らせを受けて驚いたのは撰者たちだった。
「我々で歌を集めて新たなる万葉集とし、勅撰の和歌集を編纂する? 万葉集から漏れてしまった名歌を発掘し、近代の各家集も集めて名歌を抜き出し、歌の手本とし、高貴な方々に広く流布するようにとの、帝直々の御命令?」
知らせを受けて集った四人は、唖然とした。
「帝は権帥(道真)殿を都から追放したり、貴族たちに節約を求めて宴を減らしたり、それなのに権帥殿の政策を推進したり……。今度は和歌の撰集とは! いったい、どういう事であろう?」
友則も混乱気味だが、忠岑や躬恒はもっと混乱している。
「その撰者に俺のような卑官が選ばれるとは。泉大将(定国)様の従者の忠岑殿はともかく、帝は何をお考えなんだろう?」
躬恒はそう言って首をひねるが、忠岑も、
「私だって身分は躬恒殿より下だ。しかも我が主人の泉大将様は長く左大臣(時平)様と権勢を競っておられた。左大臣様の世となった今、何故私などに声がかかるのか」
「たかが歌を集めるなら、高貴な人々がご自分のお好みで集めて、私選の歌集を作れば良いようなものだが」
貫之がそう言うと友則はハッとしたように、
「いや。たかが歌ではないのかもしれない。帝はそれだけ真剣に、新たなる万葉集の編纂を望まれているのかもしれない」
「帝が歌を望まれている?」躬恒は信じられないという顔をした。
「良く考えてみるといい。我々が知っている帝も政も、すべて人づての話に過ぎない。帝は権帥(道真)殿や法皇様の政策を受け継いでいらっしゃる。改革を進めつつ律令制や国風文化を取り戻す努力をなさっておられる。宴が減ったのも政変の衝撃と朝廷での節約令から人々が悪目立ちするのを恐れて貴族たちが自粛していたにすぎない。実際去年も賀は行われていた。だから貫之は屏風歌を献上出来た。権帥殿の事はよほどどうにもできぬ事態が起こったのだろう。帝が法皇様や権帥殿と同じ政を望んでおられるならば、和歌の編纂を真剣にお考えでもおかしくは無い」
「そう言われると……。帝はあれほど文芸に理解の深い法皇様の皇子でいらっしゃった方。影響をお受けにならないはずは無いか」貫之も考え直す。
「朝廷の都合や権勢を無視してまでも……身分を越えてまでも、帝は和歌が復権することを望んでいらっしゃる。本気で後の世までも伝えられる第二の万葉集を編纂しようとお考えなのだ。そして、我々ならそれが出来ると信じて下さったのだ。純粋に、歌を見極める力だけで選んで下さったのであろう」
「帝が……」
衝撃の後に訪れた感激。もし、友則の言う通りならこれは大変な名誉。そして大きな責任が伴う作業になるだろう。万葉集は百年もの間、これまですべての歌人たちにとって和歌の手本であり、故郷であった。それを自分達が自らの手で古歌を発掘し、編み出さなくてはならないのだ。
「何にせよ、これは和歌の世界にとって大切な仕事になる。まずは編纂する歌を帝の女御穏子様の住まわれる藤壺で行われる藤花宴までに奏上するように言われている。あと二ヶ月程度だが和歌の世界の未来がかかっているのだ。最上の物を帝に奏上できるように納得のいく名歌を数多く集めよう」
貫之達には帝の真意など知るはずもない。ただ、この機会を失えば本当に和歌は女との恋の道具にすぎないものに終わってしまうかもしれない。長い間培ってきた物が消えるか否かの瀬戸際である。自分たちの愛する世界を守るためにはやるしかない。
そんな切実な思いで歌人たちは古い歌、新しい歌それぞれを探し出しては、これから百年以上の時を経ても残すに値する歌かどうかを見定めながら、それぞれ懸命に集めて行った。
他に自分たちの歌を詠み、長歌なども創らねばならない。貫之はその長歌でささやかな工夫を凝らした。その発想力がその後の彼に大きな転機をもたらす事となる。




