東風吹かば
道真左遷が決められた翌日。様々な憶測から錯綜した話が内裏中に広がっていた。そこで貫之は友則の邸に躬恒と共に出向き、噂について話していた。貫之は自分の仕事柄かなり正確な情報を得る事が出来た。
「右大臣(道真)様が任を解かれた? どういう事だ」
躬恒は信じられないと言った顔で貫之に問いかけた。
「私も詳しくは分からない。だが、私の仕事の場は御書所。書状や詔を書き記すために必要な形式の文章を調べて、書物から書き写すのが役目だ」
「ああ、知っている。君は多くの文字を毎日書いて筆跡が良いので、恋文を書くにも苦労がなさそうだから」
「この仕事は筆跡が良くなるだけじゃない。内裏の政の大体の流れや、詔のおおよその内容も早くに知る事が出来る。今日、突然人事に関する書状が書かれ、それが右大臣の任を解いて太宰権帥とすると言う内容だったらしいんだ」
「突然過ぎるだろ! 右大臣様は正月七日に二位に叙されたばかりだぞ。あれからまだ、二十日と経っていないじゃないか」
「これは噂だが、昨日法皇様が内裏の門に駆けつけられて中に通すように命じられたが、帝はそれをお許しにならず、法皇様は夜まで裸足でそこに立たれていたそうだ」
「法皇様が……。内裏で右大臣様の事が決められていたからか」
「そうだと思う。きっと右大臣様にただならぬ何かがあったんだ。法皇様はまるでもぬけの殻となられたような御様子で、仁和寺に戻られたそうだから」
「右大臣様は何か帝のお怒りに触れるようなことをしたのか。しかし、帝の父上であらせられる法皇様までそのような事になっているとは。帝と法皇様の間にも何かあったんだろうか?」
道真の左遷は突然参議が集められて、法皇ですら気付かぬうちに秘密裏に決められ、処理されていったので、すぐには人々に伝わる事も無かった。貫之の仕事先が御書所で無ければ、歌人たちにも話は伝わらなかったかもしれない。
「右大臣様に送られた書状に添えられた書きつけの内容では、右大臣様は帝の廃位を仕組まれた疑いがあるそうだ。証拠は無いがこの太宰権帥就任はまったく形ばかりの物で、罪人としての流刑同然の措置らしい。右大臣様の罪状は、
『己を知らず専権の心があり、上皇を惑わし父子の心を離れさせ、兄弟の愛を破ろうとした』
ということらしいのだ。」
「罪人……右大臣様が」
友則や躬恒は愕然とする。道真は歌人などの文化人にとって希望の存在だった。友則は、
「私が聞いた噂では、博士の清行殿が帝に差し上げた書状を左大臣(時平)様が真に受けて、
『道真は天皇を廃し、娘婿の斉世親王を立てようと企んでいる』
と、帝に伝えたらしいのだ。あの左大臣様が右大臣様を疑っていたとは信じがたいが、左大臣様は藤原家の氏長者。家の権威にかかわるとなれば周りの圧力も相当強かったのではないだろうか?」
と言う。時平に自分の出世を頼った友則は複雑な心境なのだろう。
「大宰府への出発日や、詳しい事はこれから決められるようだ。右大臣様は今は御自分の邸にいらっしゃるが、役人が右大臣様を見張っていて、まったくの罪人扱いとなっているらしい。法皇様との御面会も、帝への釈明も許されないと言う。どうやら大変厳しい御処分が検討されているようだ。これは帝や左大臣様も、右大臣様にそれなりの疑いを持っておられるのかもしれない」
貫之の暗い見解を遮るように躬恒が尋ねる。
「法皇様は? 法皇様は何とおっしゃられているのだ?」
しかしこれには友則が、
「法皇様はこのことには一言の御言葉も述べておられないそうだ。それどころか今は誰にもお会いにならず、仁和寺に閉じこもってお勤めも手につかずにいるとか。昨日内裏の門が開かなかった事が、相当お心に堪えたらしい」
と、ため息交じりに答えた。友則は敏行からその話を聞いたのだが、すでに高齢な敏行にはこの件は衝撃的だったらしく、驚きのあまり体調を崩してしまっている。
「法皇様は右大臣様と共に、ずっと文化の振興に力を注いでおられた。今の我々が専門歌人としての立場を保てるのは、このお二人の御尽力によるものだ。しかし右大臣様がこのような事になり、法皇様も仏門に入られている。和歌の世界はこれからどうなってしまうのだろう?」
歌人たちが未来を不安視する中、昌泰四年正月二十七日、早々と道真とこの件にかかわった者への処分を決めるため、詮議が行われた。ただしそこに道真が呼ばれることは無かったが。
詮議に臨む前、時平は弟の藤原忠平に声をかけられた。
「兄上は藤原の氏長者です。そして兄上は断腸の思いで道真殿の讒言を帝に申し上げたことは知っております。だが参議の人々はそれだけでは飽き足らず、さらに重い処分を求めて来るでしょう」
「そうであろうな。道真殿の左遷が決まって人々の心も少しは和らぐと思っていたのだが、逆にこれまでの憎しみが一気に噴き出してしまった」
多くの人に衝撃を与えた道真の左遷だが、道真を疎む者はこの決定に不満があった。帝にあだなす行為を行ったと言う事で罪人として道真の官位剥奪を望む者が多くいたからだ。時平としては道真を都から遠く離す事で人々の心を和らげ、道真の身の安全をはかり穏便に事を運ぼうとしていた。だが道真を疎ましく思う者たちの心はすさまじく、完全に裏目に出てしまった。
「兄上は道真殿をかばいたくなるでしょうが、それはいけません。兄上は氏長者として藤原家の人々を納得させなくてはなりません。この事が尾を引けば今後帝の政に関わります。お辛いでしょうが兄上は、帝の御為に一切の口出しをなさらないよう」
「なんと! それでは誰も道真殿をかばえず、彼や弟子たちにどれほど重い処分が科せられるか分からないではないか。そなたも家のためなら国文化の礎を作った道真殿を、葬り去る事もやむ無しと考えているのか!」
時平は弟を怒りと驚きを持って見ていた。弟の忠平は時平と共にずっと道真に導かれてきた。道真を政でも文化の面でも師と仰いできた。その弟でさえも家のためなら道真を裏切るのかと愕然とした。だが、
「兄上。私をそんな風にお思いですか? 私にとっても道真殿は尊敬する師。私は堂々と道真殿をかばう事が出来ます。ですが道真殿が去る以上、帝には兄上の存在は欠かせません。その兄上がこれ以上殿上人達に憎まれるわけにはいかないのです。こうなった以上、兄上が政を支えずして、誰が帝をお支えするのですか?」
「忠平……」
「矢面に立つのは私で十分なはず。それに多勢に無勢である事に代わりはありません。兄上が少し物を言ったからと言って、大勢は変わらないでしょう。どうかここは耐えて、詮議の成り行きをお見守り下さい」
帝や時平が想像した以上に、人々は厳しい処分を求めた。道真が太宰権帥として大宰府に下る事は決定済みなので、彼の政に賛同する人や彼の息子を連座させることを人々は求めた。
特に右近衛権中将の源善は法皇に近しい人で、あの鷹狩りなどにも同行していた事もあり、彼こそが道真に謀反をそそのかしたと官位剥奪の上流罪を求められた。
「それはできない。道真殿さえ大宰府への左遷であるのに、証拠が無い上に罪が重すぎる」
そう言って忠平は一人、人々に意見した。
「しかし善殿は危険人物。いつまた法皇に取り入って帝の帝位を脅かすことをしないとも限りません。彼が都にいては、帝の世の安寧は望めませんぞ」
「それでは仕方がない。善殿の身は都以外の地に置く事としよう。善殿は仮にも源の姓を持つもとの御皇族。そのお身がらに恥じぬよう出雲守とするのが適切でしょう」
忠平の言葉に源氏の人々は満足げに頷いた。しかし藤原方はさらに、
「では、弟の巌も連座させるべきです」と言う。
「兄の罪に弟まで連座させるのか?」
「こういう事は遺恨を残さないことが肝要です。源氏の方々も良くお考えください。もしまた皇族が帝位を軽んじて奪い合うようであれば、われわれ藤原家は帝の政をお支えする気にはなれません。そうなれば政は滞り、世の中は荒れることでしょう。それを避けるためにも罪人にかかわった者には厳しい処分を行うべきです。それが出来なければ我々は源氏を信用できません」
藤原家の人々はどこまでも強気であった。これは道真を憎む皇族や源氏が見せてしまった隙であり、藤原氏はそれを決して見逃さない。この機に乗じて源氏の勢いを削いでしまうのが目的なのだろう。
しかもこの件にかかわったと疑われる法皇寄りの源氏は他にもいた。それでなくても藤原氏は参議の数が源氏より勝っている。ここで源氏が藤原氏に抗う事はかえって源氏を不利にさせるのだ。源氏は処分を受け入れ、他にも源敏相など道真と親しかった者が地方へと左遷される事となった。
処分は道真の家族にも及ぶ。特に直系の息子が処分の対象となるのは仕方ない。だが、
「すべての子を、皆散り散りに都から追放する?」
忠平は唖然とした。それほどまでに道真が憎いのか。
「そうです。善殿でさえ弟とは引き離すのです。道真殿の息子をひと塊りになどしてはおけません」
これには時平も黙っていられず、
「しかし道真殿の子にはまだ幼い者もいる。そんな子供を母から引き離すのはあまりにも」
と言いかけたが、
「遺恨を残さぬためです! どれほど幼くても帝の地位を脅かした者の子です。いつ、どんな人間が近づいて、どんなことになるとも知れません」
理屈はそうかもしれない。だが幼子を親から引き離すのは非人道的だ。これは道真憎しの感情で物を言っているとしか思えない。
「我々は帝の世の安寧を願っているのです。それを藤原の氏長者で帝の功臣である時平殿が、御理解できないようでは困る。帝の内覧を任されているあなたは、政の要なのですぞ! 何よりも、世の安定を図るべきです!」
それは藤原家の勝手な理屈。世の安寧を図ると言いながら源氏の力を削ぎ、道真にかかわった者を排し、藤原の権力を何よりも安定させる事が目的だろう。それが分かっていながら、時平は反論する訳に行かないのだ。彼は藤原家の氏長者なのだから。
兄上。どうか、御辛抱を。
時平を見つめる忠平の目がそう語っていた。帝を本当に思うなら、この国の事を本当に思うのなら、ここは耐えねばならぬ。たとえどれほど人道に背くことであっても。
そして忠平は厳かにこう言った。
「元服を済ませた子は都を追放されても仕方が無いでしょう。そして、万が一にも謀反を企てることなど無いよう散り散りに置くしかありません。しかし幼い子供を親から離すのは、これからこの国をお導きになる天子のもとで行う事とは思えません。御身に神を宿らせる帝にそのようなお考えは無いはず。せめて二人の幼子は都には置けずとも、父のそばに身を寄せさせるべきです。そうでなければ帝の威信に関わります。帝の御世を思うなら、幼子には寛大な処置を与えるべきです」
帝の世の安寧を盾に取る人々に、忠平はその安寧のために幼子に情をかけることを訴えた。さすがにこれに人々は反論しなかったが、忠平への敵意に満ちた視線は注がれた。
忠平は明らかに時平の盾となっていた。時平は自ら道真をかばえないこと以上に、忠平を盾にしてでも氏長者の立場を守り、帝を支える地位にしがみつかなくてはならない自分を呪った。
道真殿。あなたはいつか私を呪う日が来るかもしれぬ。しかし今はまだ良い。私は自分自身をこれ以上ないほど呪っているのだから。自分で自分を呪う以上の苦しみなど、きっとこの世には無いであろう……。
激しいやり取りの末、道真の子は追放は免れたものの地方への降格と、幼子二人が道真に付き添って大宰府へ行くことが決められた。元服した息子で大学頭の高視は土佐介に、式部丞の景行は駿河権介、右衛門尉の兼茂は飛騨権掾と降格されて散り散りに都を追われ、文章得業生となった淳茂は播磨へ送られた。忠平も奮闘したが親が追放同然の身の上では、これが精一杯の処置であった。
道真の弟子たちへの処分は本来ならかなりの数に上るはずだったが、弟子の数は多数に上る上に、彼らは優秀で内裏の様々な司で責任ある職についていた。それを三善清行が指摘して、
「道真公の弟子は役人の半数近くを占めています。すべての人を罰しては朝廷の政が滞ってしまうでしょう。彼らのことは私が管理しますので、弟子の処分はお見送り下さい」
と言った。こうして清行は道真の多くの弟子を自分の側に引き入れることに成功した。
ここで時平と忠平は気が付いた。ひょっとすると、清行にしてやられたのではないかと。
清行は以前から自分の師である大蔵善行と共に道真と対立していた。
善行と道真は学者として弟子の数を二分する大きな存在であった。善行はこの一件で清行の働きにより、労せず多くの弟子を得ることが出来た。
もしかしたら初めから善行がすべてを仕組み、法皇と帝、帝と源氏、源氏と藤原氏、そして道真との確執を上手く利用し、道真を陥れたのかもしれない。
しかしそんな証拠はどこにも無い。たまたま事の流れが善行に都合よく流れただけかもしれない。すべては憶測である。それに今更気づいてもすべては遅すぎた。
この処分は驚くべき早さで処理され、昌泰四年二月一日、道真は弁解を受け入れられぬまま、妻や親族たちとの別れもそこそこに、幼い息子と弟子を連れて大宰府に出立した。
その出発の朝。護送の役人たちにせかされる中、道真は名残惜しげに庭の梅の木の前に立ち止まり、
東風吹かば思い起こせよ梅の花
主無しとて春を忘るな
(東から春の風が吹いたらその花を咲かせて香りを届けておくれ。梅の花よ
主人の私が居なくても春を忘れるな)
と歌を詠み、さらに邸を出る時には、
君が住む宿の梢を行く行くも隠るるまでにかえり見しやは
(君が住んでいる家の立木を道行きながら、隠れて見えなくなるまで振り返って見ていた)
と詠んで、都の親しい人々との別れを惜しんだと言う。




