道真左遷
殿上人達の刺すような視線の中、道真は休むことなく出仕を続けた。時平は藤原氏達の動向に不安を感じ、
「右大臣(道真)が権力を得るのは妹の穏子が入内した時の話。そして後宮での后宮(班子)様の御権勢を考えれば、今の入内は得策とは言えない。ここで我々が右大臣に迂闊なことをし、それが帝のお耳に入りでもすれば帝の信頼を失い、後に穏子が入内した時に困ることにもなりかねないのだ。後宮政治は表のようには行かぬもの。今は時を待つべきだ」
と、同族をなだめていた。一方帝も、
「道真は自分の状況にもかかわらず、良く働いてくれている。国政改革の一環である『六国史』の一つ、『日本三代実録』も彼の手により早くも完成間近にまでこぎつける事が出来た。荘園整理のための調査も細やかにおこなってくれている。彼を身近に置いて働きぶりを知る事で、道真の実直さと献身を知る事が出来た」
と、道真の事を認めるようになっていた。
「そうです。右大臣は単に賢いだけではない。この国を良くするためには骨身を削ることを惜しまない、この国になくてはならない存在です。決して帝に不忠義な真似をする者ではありません。私は若い時から右大臣に支えられてきたのです」
時平も帝がようやく落ち着いて道真を評価出来るようになったことに安心した。
「そうであったな。私は道真が長く父上の功臣であった事にこだわり過ぎていたようだ。彼は今は、私の臣下なのだ」
しかし、朝廷内では道真の悪い噂が絶えなかった。帝が荘園への調査を厳しく行うのは、道真は有力貴族の権力を弱めるために、帝に地方の事を有ること無い事吹きこんでいると人々はささやいていた。落飾した法皇が関白宣旨を帝に勧めた事で、落飾とは名ばかりで、やはり道真と法皇は深く繋がりがあり、勝手な政を望んでいると吹聴された。それどころか、
「右大臣は自分の権勢を高めることを狙っている。たかが学者の身で権力者の地位を望んでいるのだ。法皇をそそのかして帝を廃し、娘婿の斉世親王を帝とするつもりなのだ」
と、まことしやかに流言が流れていた。
しかし道真は改革の手を緩めることは無かった。今までにも増して積極的に政務に励んだ。それはまるで自らの運命を知り、少しでも多くの事を残そうとする焦りのようにも見えた。
昌泰三年(九〇〇)四月一日。宇多法皇の后宮、班子女王が崩御した。女性としては六八歳と言う高齢で、後宮に君臨した権力者も老いには勝てなかった。
これにより藤原家の穏子入内への動きは活発さを見せた。帝も今度こそ穏子が入内出来ると期待していた。だが法皇は権力が時平に傾くことを懸念し、以前と同じく、
「穏子を入内させるなら道真、そなたに関白宣旨を帝にさせるように」
と道真に告げたらしい。
これには流石に時平も納得がいかなかった。彼はこれまで法皇、帝の二代にわたり十年以上の時をかけて臣下として献身を尽くしてきた。権力者基経の長男、藤原家の氏長者としての責任も背負いながらも、決して個人の権力にも、自分の一族の権勢のためだけにも政を行った事など無かった。むしろその難しい立場の中、彼なりに懸命に皇族と藤原家の間を取り持ち、帝と法皇の関係に気を使い、さまざまな周囲との軋轢にも誠意ある対応で調整を図ったつもりだった。
若いうちは政も何かと道真に頼らねばならず、道真の言う国風文化や律令制への理想論を心から敬っていたが、時平もすでに三十路を迎え、国政を十分に把握できるようになっていた。後宮での権力争いの懸念も消え、何より帝の内覧を務めてきた誇りもあった。道真の厳しい立場もかばい、藤原氏達の不満も懸命に抑え、そしてそれは法皇も認めていると信じていた。だが、
「今となっても法皇は私の働きを認めず、藤原氏の権力を極度に恐れている。いや、これはいつか帝がおっしゃった通り、我が父への怨みの感情があるのだろうか? 私がどれほどの働きをして見せようとも、父の子である私が法皇様の御信頼を得ることなど無いのだろうか?」
そう、時平は疑わずにはいられなかった。また帝も、
「父上はどうしても私や時平を信頼してくれない。もしかすると父上は初めから、私の帝位はほんのつなぎ程度にしか考えておられなかったのではないか? 父上は私がごく幼い内に帝位に着けたがった。それは御自分の思うように私を利用できる間だけ私を帝位において、道真に十分な権力を与えた後に私を廃位し、再び道真と政を動かすための策略があったのではないか?」
と言いだした。
「いえ。いくらなんでも考えすぎでしょう。右大臣の姿を見れば、そのような邪念が無い事は一目瞭然です。あの方は本当に理想主義をお持ちですから」
「それは分かっている。そして道真は今は私の臣下だ。私も道真は信じてやりたい。しかしあの者は理想に忠実すぎる。賢い分だけ合理的に物を図り過ぎる。政も強引でこれからも摩擦を多く生むだろう。私には時平の周りの者と和を重んじて行う政の方が、この国の朝廷には向いている気がする。私は父上が道真を重んじ過ぎるのは間違っているように思える」
そしてさらに帝は言った。
「私は時平、そなたの考えている政の方が……。そなたの方が道真より信頼出来るのだ」
「帝。……ありがたい仰せにございます」
時平は感激した。これまで時平はどうしても道真と比べられてきた。そして政では秀才と言われる道真には敵う事など無かった。時平は自分の父、基経の名の下でしか生きて行けない身の上なのだと理解し、それゆえに基経の遺した人間関係を維持することに力を注ぎ、苦悩してきた。
だが、この若い帝はあの道真よりも自分を臣下として信頼してくれているのだ。
不穏な空気を抱えたまま后宮崩御から半年の時が過ぎ、秋も深まった。藤原氏達はいよいよ穏子入内を望んでいた。そのために道真をなんとかするようにと時平に迫る。時平が道真をかばう事にも限界が来ていた。道真を邪魔に思う者達は連携し始めていた。藤原氏は定国と菅根が共に
「天下之世務以非為理」
(道真は帝の世のために理にかなった務めをおこなってはいない)
と帝に奏上し、道真の失脚を迫った。さらに源氏が道真を追い落とそうとするだけでなく、学者や下位の者までその動きに加わった。
道真に政のための書を回さず、時には彼の言葉に従わず、道真を悩ませた。特に彼に反発する学者の三善清行は、他の学者たちや上位の貴族達と共に道真に嫌がらせを繰り返した。
ある日、道真にも見せるべき書状が、時平だけに回されてきた。しかもその書は道真の命じた事が一切否定されたひどい内容となっていた。これを書いたのは清行と親しいものであることを時平は知っていた。この書状を見せれば頭の固い道真は、またひと悶着を起こすに違いない。時平が案じて書を見せずにいると、
「なぜ、私にその書を見せてくれないのです?」
と道真が聞いてきた。
「いえ、この程度の事。私一人で処理できますので」
時平はごまかそうとしたが、気真面目な道真は不快な表情を隠さなかった。度重なる人々の嫌がらせに道真は時平にまで不信感を持っていた。
「……大変高貴な御身分の、左大臣がなさることだ。政務に支障があって困るが、どうすることも出来ませんな」
道真はそう皮肉を言ってため息をついた。度重なる嫌がらせに道真も疲れていた。
そこに訳知りの道真の弟子である役人が時平にこっそり目で合図をすると、
「造作も無い事でございます。私が止めさせて見せましょう」
と、道真に話しかけた。
「左大臣殿に何が出来ると言うのだ」
「まあ、御覧になっていて下さい」
そう言って役人はこれでもかと言うほど大げさな身ぶりを滑稽に見せながら、文ばさみに書状を挟んで時平に差し出すと、その瞬間、
「ぷうっ」と、大きく高らかな音を立てておならをした。
時平はこれに思わず爆笑し、そのまま笑いが止まらなくなった。時平は無類の笑い上戸だったのだ。この役人はそれをよく知っていたのである。時平も笑いながら役人の機転に気付いて、
「ははは、笑いが止まらぬ。はははは、今日はどうにもできぬので、ははは、右大臣にお任せするしかない。はーっはっはっは」
道真は書状を読んだがこんな状況なので怒る気にもなれず、その場はとても和やかになった。その日は道真も人に意見することなく、静かに政務に励む事が出来た。
しかしこの事は清行達の神経を逆なでしてしまったらしい。道真を疎む高貴な者達からかばわれて気が大きくなっている清行達は、より陰湿な嫌がらせをするようになった。そして道真を見かけてはすれ違いざまに、
「このまま、身がご無事であればよいですな」
などと不吉な言葉をこっそりかけたりしていた。そしてついにこの年の十月十一日。清行は道真に書状を送りつけた。
「来年は辛酉にして運変革にあたり、何事が起こるか分かりません。貴方は学問の家より出て大臣の位にまで昇った方。これまで朝の寵栄、道の光華、吉備真備の外、このような例はありませんでした。この辺の所で止足を知り、栄分を察し身を退いて後生を大切にされるのがよろしいでしょう」
言葉は道真の身を案じるかのように飾られているが、これまでの確執を考えればまるで脅しである。そしてさらに十一月二十一日に帝に送られた書には、
「来年2月は辛酉革命の期と申します。君臣が君を裏切ると言う運に当ります。帝は神慮を巡らし、さまざまに警戒を厳重にし、邪計や異図を未然に防止するべきです」
と書かれてあった。
「前の定国の奏上といい、この者といい、つまらぬ戯言を書いた物だ」
と、時平は一笑に付したが、帝は、
「しかし流石の道真も、最近は人間不信気味な様子だ。まさかとは思うが」
と不安を口にする。
「右大臣に限って、君子を裏切るなどと言う事はあり得ないでしょう」
「しかし道真と言えども人間だ。これほど長い間孤立し続けて、どれほど心を強く保てるものであろう? そして他の何を置いても道真を大切にする父上に、もし何らかの企みを吹きこまれた時、今の道真が冷静でいられるであろうか?」
「帝は、右大臣を信頼できないと仰せですか?」
「道真を信頼しないのではない。だが父上がこれを聞いて黙っておられるとは思えない。時平、そなたはそれほど父上を信頼しているのか?」
「……」
時平は法皇を信頼していると言うつもりが、何故か言葉が出なかった。
「そなたは藤原家の氏長者だ。私もそなたに甘えるのは限界だと思う。どうであろう。ここは清行の書を真に受けたことにして、道真に強引にでも辞職させると言うのは。道真が大臣の職にあるかぎり、彼が都に暮らすのはあまりに危険であろう」
時平は迷った。これは道真の身を案じる心ばかりでない。帝ご自身も法皇様への不信が募っていらっしゃるのだろう。それに帝は藤原の氏長者である我が身までも御案じ下さっている。その御心を無駄にしたくは無い。
それに時平自身も疲れていた。もう法皇と道真の陰から脱して、帝と共に新しい国造りに乗り出したいと言う思いを心のどこかに持っていた。
「分かりました。私から右大臣に辞職を勧めてみましょう」
時平は道真のもとに向かった。
「帝が、私をお疑いになっておられる?」道真の顔は不満をあらわにした。
「仕方ないでしょう。清行殿からあのような書状がもたらされては。実際右大臣は斉世親王様に娘を差し上げていらっしゃる。帝の我が妹への執心ぶりは、右大臣も良く御存じのはず。妹を入内させればあなたは関白宣旨を受ける。帝が不安に思うのも仕方ありません」
時平はそう説明して、職を辞するように勧めた。
「朝廷の政は不甲斐ない身なれど私が帝をお支えして、必ず改革も、国風文化の推進もやり遂げて見せます。法皇様も今は仏道修行に励まれる身となりました。右大臣もそろそろ余生をゆっくり過ごされ、後世の幸せを祈る日々を送られるのがよろしいかと」
時平はそう言ったが、道真は受け入れなかった。
「いや、まだだ。まだ、法皇様と私の目指した理想に届いてはいない。それまで私はこの身を投げ打ってでも政から引き下がれない。なぜ、帝はお疑いになどなられるのか。私の誠意は伝わっていないのか?」
「そんな事はございません。帝は御聡明な方。それはあなたも良く御存じのはず」
「では、法皇様をお疑いなのか? 天子である帝が実の父上を信じられぬと?」
その言葉に時平はとっさに言い返した。
「そのような事はございません! 帝はそのような不敬な方ではない。それは私が……この私が帝に申し上げたからです。私は法皇様が信用できなくなっています。ですから長く孤独になられている右大臣は今の世に御不満をためられているので、法皇様に帝の御廃位をそそのかされ、心揺れているのではないかと」
それは帝のための方便だったのか、それとも時平の本音だったのか。とにかく時平はこれで道真が大臣の座を辞してくれることを祈っていた。しかし彼は甘かった。道真はどこまでも徹底した理想主義者だったのだ。
「我が身が疑われるのは自分の不徳ゆえ仕方のない事。だが、法皇様をそのようにお疑いとは悲しい事だ。そのような方々が本当に法皇様の夢をかなえる事が出来るのか。やはり私は退くわけにはいかない。私だけが法皇様の夢をかなえる事が出来るのだ!」
そう言って道真は辞職はおろか、より一層強引に改革を進めようとした。すでに彼も意固地になってしまっていたのかもしれない。
「駄目だ。このままでは道真は危険すぎる。朝廷も政務が頓挫してしまう。道真を都から出さなくてはならない」
帝はそう言って決意した。
「右大臣菅原道真を、右大臣の職から解き、太宰権帥とする建議を行う」
こうして昌泰四年(九〇一)後に七月十五日に改元され、延喜元年となる年の正月二十五日。突然道真以外の公卿や参議の者達が集められた。道真に釈明の猶予は与えられず、自分の邸に留め置かれた。その知らせを聞いた宇多法皇は驚き、仁和寺を飛び出して内裏に駆け付けた。だが門前で滝口の武士に厳しく遮られた。この滝口の武士は内裏の警備のために、法皇が帝であった頃に自ら儲けた職であった。皮肉にも彼らによって法皇自身が遮られてしまったのだ。
「私は法皇だ! 帝の父だ! 父が息子に会うのに、何故邪魔をされなくてはならないのだ!」
法皇は涙ながらに懸命に訴えた。恐れ多い事なので武士たちは蔵人頭の菅根を呼んだが、出てきた菅根も、
「ここは内裏。帝のお許しが無ければ、誰人たりとも門を開ける訳には行きません」
と言って帝に取り次ぐことは無かった。
「帝! 道真は無実だ! 無実なのだ! みかどおー……!」
法皇はそこで裸足のまま叫んだ。そのまま夜まで立ちつくしていたが、ついに門が開くことは無かったと言う。帝と時平はその叫びを、どのような思いで聞いていたのだろうか。
こうしてこの日、菅原道真の大宰府左遷は決定した。
大鏡で有名な「時平の笑い上戸」
自己流アレンジしてます。




