遣唐使停止
貫之は忙しい合間にも、自分を引き立ててくれた敏行のもとに、友則とこまめに挨拶などに通っていた。その時、ひょんなことから敏行が「物名」と言う、和歌で行う言葉遊びを始めた。
心から花のしづくにそほちつつ憂く干ずとのみ鳥の鳴くらむ
(自らの心から花の雫に濡れているのに、なぜあの鳥は辛い、乾かないと鳴くのだろう)
「どうだ。『憂く干ず』が『うぐいす』と読めるであろう」
「本当だ。面白いですね」貫之は感心する。
「即興でこういう歌を詠むと、思いがけず遊び心のある歌が詠めるものだ。貫之殿も詠んでみると言い」
「そうですね。では」
「では……とは、何だ? もう思いついたと言うのか?」
「ええ、敏行殿の歌を聞いてすぐ。鶯には花がつきもの、『かには桜(樺桜の古語)』などいかがでしょう?」
かづけども波のなかにはさぐられで風吹くごとに浮しづむ玉
(水に潜っても波の中では探せなくて、風吹くごとに玉は浮き沈みをしている)
「どうです。な『かにはさぐら』れ、で、『かには桜』です」
これを聞いて敏行も友則も驚いた。
「早いな。それに語調もいいし、風景が浮かぶなかなかの詠みぶりだ。やはり君は即興歌で良い歌が詠める。これから頻繁に言葉遊びの歌を即興で詠むのもいいかもしれない。固さの取れた、情景豊かな歌を詠むコツをつかめることだろう」
友則の言葉に、三人は顔を合わせては物名やかけ詞の歌を楽しむようになったが、もっとも早く、多くの歌を詠むのは貫之であった。彼には特有の頭の回りの良さがあるのだ。
即興の歌は躬恒も得意としていたが、言葉遊びは貫之の方が上だった。そしてこの言葉遊びは貫之が思う以上に彼の歌を磨いていく。言葉の創造性を広げられたらしい。
畳の上でこの世の自然や森羅万象を想像する彼らにとって、この豊かな創造性と想像力は和歌の世界を大きく広げる事となった。和歌は心の吐露を詠む物からこうした知的遊戯を経て、言葉の神秘による幻想的世界を表す物へと変化していった。その流れがこの頃から特に顕著になり、中心に貫之達がいたのである。
一方道真の編纂した『新選万葉集』は、世の人々の好評を得ていた。万葉仮名で書かれたことにより、その歌集は人々に懐かしさや慕わしさをもたらしたし、添えられた漢詩がとても物語性に満ちていた事も良かった。その漢詩はただの和歌の解釈にとどまることなく、和歌をきっかけに生まれた新たなる情感あふれる世界を表していた。例えば友則の恋歌、
夕されば蛍よりけに燃ゆれども光見ねばや人のつれなき
(夕方になれば蛍より恋の思いは燃えるけれど
その光を見てくれないからあの人はつれないのか)
に添えられた漢詩は、
怨深く喜び浅し此閨情
夏の夜胸燃ゆること蛍に異ならず
書信来るを休めて年月は暮れ
千般其いかんぞ門庭を望
怨みのほうが深く喜びは浅いのが男への想いというもの
夏の夜にこの胸が燃える事は蛍と異なることは無い
だが文が来る事も無くなり年月ばかり暮れて行く
それなのに何故家の前庭ばかり眺めてしまうのだろうか
と言う物である。和歌の方は「やまと的」な切なさがにじみ、漢詩の方は恋の空しさがやや勝る所はあるが、漢詩の方が具体的で物語性を帯びている。これまでは漢詩から和歌が詠まれることは多かったが、この歌集は和歌から漢詩の物語の設定が生みだされているのだ。これにより和歌は僅か三十一文字にして、漢詩に劣らぬ創造的世界観を生みだしているのが一目で分かる。漢詩と和歌が同等の価値を持って競い合っていると言ってよい構成だろう。
この『新選万葉集』が世に広まったことにより、人々の和歌に対する評価が少しずつではあるが上がってきた。それによって和歌や文芸を推進する帝と道真に対しても人々は信頼を寄せるようになっていた。いよいよ帝の望む、和御魂や「やまとことば」の言霊を信頼する世の中が、少しずつ近づいてきたのだ。
ただそれは朝廷の殿上人にとっては大変な脅威となった。彼らは唐の仕組みを徹底的に研究、吟味して、代々に渡ってこれまでの地位を作り上げてきた。名家ほど朝廷に貢献し、家名を上げ、それを同族に代々つなげては権勢を維持してきた。その切磋琢磨の中で勝ち残ったものが権力者となり、それに繋がりを持つ人々が政と権威を担って来たのだ。
それが突然、身分も位も無い者達が作ってきた世界の地位が上がり初め、自分達を脅かし始めた。それも帝の御心一つで世の価値観が変わろうとしているのだ。そのような急激な変化は、彼らにはとても受け入れられるものではない。
そして、その不満は帝の寵愛を受け、異例の出世を遂げている道真に向けられた。なにしろ帝の命を受けて実際に世を変えようとしているのは道真なのだ。
「帝は我々の言葉など聞き入れず、すべて道真と二人で政を行おうとなさっている」
「このままでは、世は帝と道真殿の思うがままになってしまうだろう」
「これまでの忠臣達の働きを認められず、御自分の愛する文芸や道真ばかりに御心を向けられていては、いずれ政も滞ることであろう」
「帝の御心を、道真から離さねば」
「しかし、道真を引き離すには、道真に何らかの罪がなくてはならぬ……」
いくら道真憎しと言えども、強引に罪を作るわけにもいかない。そこで殿上人達は道真を「遣唐使大使」として任命するように帝に迫った。この案にほとんどの者たちが同意していた。和歌や文芸に理解の深い敏行でさえ、道真に自分が上るはずの蔵人頭の地位を目前に奪われ、出世を逃していた。時平はまだ若く、しかも自らの背負う藤原北家の未来がかかっていた。
帝と道真は完全に味方を失っていた。遣唐使は国内の文化を向上させるために留学生を派遣するのが表向きの目的。国の文化の発展のためにこれまで最も重要な事とされていた。文化の向上を謳って来た帝と道真はそれがあだとなってしまったのだ。
「遣唐使など、もう五十年以上も派遣しておりません。しかも遣唐使副使には紀長谷雄の名を上げてきた。紀氏には風流人が多くあの歌合に友則殿、貫之殿の両名を招いていました。友則は当代一流の歌人で、貫之は世の中の話題となっている。その紀氏の者の名を挙げたのは明らかに私達への牽制なのでしょう」
道真は苦悩しながら帝に告げる。
「私は今、そなたを失う訳にはいかぬ。遣唐使はこれまで二十回近く計画されているが、うち四回は出航できず、さらに六回も遭難している。唐にたどり着けても無事に帰国できる保証も無く、これまでも多くの貴重な人材の命が失われている。前の遣唐使副使など、病と称して渡航しなかったそうではないか。そなたも病を理由に国内にとどまればよい」
帝はそう勧めたが、
「それこそ私を快く思わない者達の、思うつぼでございます。前の副使は病を理由に渡航を拒絶したために結局は流罪となりました。それが彼らの狙いなのです。私を罪人とし、二度と朝廷に戻ることのないように画策されることでしょう。帝のお傍に居られなくなっては、私には何の意味もございません」
まったく悩ましい事となった。もとは遣唐使は唐からの優れた文化を手に入れることを目的に留学生を派遣し、高い文化の書籍などを持ち帰ることを使命としていた。しかし今や遣唐使は唐国に我が国からの貢物などを送り、交流を保つ目的の方が重視されている。その見返りに唐の文化を吸収出来るならまだ良いが、今やわが国には唐国の書物のおよそ半数を内裏にて保管している。これ以上唐の文化の何を求めようと言うのか。こんな馬鹿げたことに我が命を捧げ、帝との夢を諦めねばならぬとは……。
「……そうだ。馬鹿げているのだ」
道真はつぶやいた。
「いかがした? 何か策が思いついたか?」
帝は期待を込めて聞いたが、
「策などございません。ございませんが……。私は真正面からこの任を、お断りいたします」
「道真?」
「馬鹿げているのでございますよ。今や遣唐使など無意味。必要のない事にこだわって、我々は貴重な人材や多くの時間を失っていたのです。それを堂々と証明すればよいだけの事。私はこれまで在唐の僧に商客(商人)を通じて文を送り、唐の詳細について色々な情報を得ております。唐は十年ほど前に大きな乱が起こり、いまだ国内は安定していないそうでございます。ひょっとしたらまだかなり国が荒れており、書籍なども乱のために多く失われ、我が国の内裏に保管された書の方が多い可能性があります。そのような国に貴重な人材を危険にさらしてまで渡る必要はございません。後に正式に奏上いたしますので、それを主上が吟味下されば良いのです」
「そなたは……、そなたは、遣唐使が無用だと申すのか? この国が二百年以上に渡り国の発展のために多くの命を犠牲にしながら続けてきた遣唐使を」
帝は唖然とした表情をした。どれほど時が空こうとも遣唐使その物が必要ないなど、これまで誰も口にはしなかったのだ。
「すでに役目を終えたと言っているのです。これまでは必要でございました。ですが、それが永遠に必要とは限らないのでございます。我が国は十分に唐の国に並ぶ国となりました。我が国は唐の属国などではない。それを帝が認めて下されば良いのです」
「我が国が……唐の国に並んだ。それを、認める。道真! そなた、何と言う男だ。何と言う、素晴らしい男だ!」
「それに、私などを罪人にするための口実に使われては、これまでの命を賭して遣唐使となった者達の、名誉を傷つけることにもなりましょう。私も十分に説得力のある奏上を致します。いつの日かまた、この国が新たな知識を手にするために、唐国に渡る事も必要かもしれません。しかしそれは今ではないのです。遣唐使の停止を、お考えください」
寛平六年(八九四)九月十四日。道真は遣唐使廃止の建議を求めた。そして奏上を読みあげる。奏上文にはさらに何らかの文が添えられていた。
「皆様に謹んで申し上げます。私は在唐の僧に、去年三月、商客の王訥等に文を送らせ、唐国の現状について知らせを受けておりました。その文をこの奏上文に添えさせていただきます。そこには大国であった唐国も、いまは荒廃していることがつぶさに記されております。ですら唐には我々が朝貢する意思が無い事を伝え、この度の入唐は停止といたしましょう」
「停止? 遣唐使を大使自ら停止だと?」
「まだ出航も試みぬうちに停止など、聞いた事も無い」
人々はうろたえざわめくが、道真はかまわず続ける。
「唐の故事にも、代馬、越鳥(馬や鳥ですら故郷を忘れぬたとえ)の言葉にある通り、故郷を慕う心は忘れ難い物にございます。しかしこれまでの記録を見る限り、度々使者達は海を渡ろうとしては命を落とし、あるいは海賊に襲われて身を滅ぼされる事もありました。いまだ唐では乱に荒れた国の回復には至らず、国は飢えや寒さに苦しむ悲しみを見て見ぬふりをしているとか。在唐の僧がそれを国に申し上げても、それがどのように扱われたかなど推し量るべくもございません」
唐の国が荒れていると言う噂は皆耳にはしている。しかしこうもはっきりと渡航停止を訴える者がいるとはその場の人々は考えていなかった。
「ですから皆さまに私は伏してお願い申し上げたい。彼の僧が記した文をご覧いただき、すべての公卿、博士に御検討いただき、遣唐使の進止の可否を定めていただきたいのです。これは国の大事にて、我が独り身の都合のために述べているのではございません。我が真心を持って、伏して、この件の御処分を賜わりたいのでございます。再度、謹んで申し上げます」
道真の奏上が帝に献上されると、帝は、
「唐国で乱があったことは私も知っているし、このように唐国に居る僧からの文も添えられている。私としても我が国の貴重で優秀な多くの者達を、そのような状態の所に危険を冒してまで送りたいとは思っていない。そのことを重々承知したうえで、皆、この件を良く検討するように」
と言う。しかし、実際に唐国の実情を知らせた文が添えられ、唐国の商客が唐国の荒れようを証言できるのであれば、誰もこの奏上に異を唱えることなど出来ない。そしてそれを誰よりも時の帝が認めているのである。
「荒れ果てた国に朝貢するなど愚かな事。我が国はすでに唐に頼る必要は無い。これからは貴重な人材をむやみに唐国に送ることなく、我が国の文化の発展に力を注いでもらいたい。我が国は唐国に並ぶ国となったのだ!」
結局、道真の奏上に異を唱える者はいなかった。反対意見を述べるどころか、長い歴史の間、常に唐の国を見習い続けたこの国で、遣唐使を停止し、朝貢せず、この国が唐国に並んだなどと言う考えが、誰も想像すらできなかったからだ。
だがこれによって道真は危機を回避し、帝と道真は革新的な、権力者に頼らぬ政を鮮明に打ち出す事となる。無論唐国文化に頼れなくなった以上、国風文化の推進はより必要性を増していった。
帝はより道真を頼りにし、翌年の寛平七年(八九五)には道真を中納言に昇進させた。さらに翌年寛平八年(八九六)には道真の長女、衍子を女御(帝の妻)に迎え、公私ともに関係を深めていった。
そしてそれは、殿上人達に深い恐怖を与えていったのだった。
このお話では道真を詩人ではあるが和歌にも理解がある人と言う、特殊な設定で描いています。もしかしたら道真はあくまでも詩を中心に愛する人であり、それほど和歌に関心はなかったのかもしれません。
ただ、道真が共に律令制の堅持に励んだ宇多天皇は、唐風文化一色に染まった我が国に国風文化の復活を望んだようです。和歌に対しても漢詩同様に重視する傾向があったらしく、数多くの歌合を行った後に道真に『新選万葉集』の編纂を命じています。
道真本人が和歌にどの程度の関心があったかはわかりませんが、天皇は明らかに和歌に愛着があり、道真はその天皇の意をくんで和歌促進のために真剣に筆を執ったのだろうと思われます。それが『新選万葉集』に和歌に合わせて詩文が生み出され、添え書きされることとなったのでしょう。
私が参考にしているネタ本には、こうしたことを
「天皇と学者文人の道真との結合によって支えられる理想主義を彩る産物」
「和歌が漢詩と肩を並べるようにして宮廷文学として発達してきたことを示す現象」
「儒家の正統として漢詩文に卓抜の才をもつ菅原道真が、宇多宮廷の歌合を選歌の場として、こうした性格の歌集を編纂したところに示唆的なものを感ぜざるをえない」(藤岡忠美著 紀貫之)と書かれています。
道真は詩人だったのでしょうが、宇多天皇に共感することによって、和歌に対しても相応に興味を深めていったのではないでしょうか?
私はこうした考えで、道真に特殊な設定を与えています。




