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新撰万葉集

 歌合を無事に終えた貫之達は、たちまち様々な邸の宴に呼ばれるようになった。特に貫之は親王家の歌合と后宮の歌合に立て続けに招かれたことにより、一気に名が広がっていた。

 位の低い、若年者がそのような輝かしい場所へ登ったことに人々は驚き、


「その青年は前世にどれほどの徳を積んだのであろうか」


「さまざまな神仏の御加護を受けているに違いない」


「そう言う人の歌を自分の邸で詠ませれば、その徳が我が身にも移るのではないか」


 そんな言葉が噂されるようになり、あの歌合で歌を詠んだ有名歌人たちの人気も相まって、貫之は忙しくも充実した日々を送るようになる。

 あの場では四季の歌のほかに、恋の歌も詠まれたのだが、恋歌では敏行や菅野忠臣すがののただおんの歌が際立っており、流行歌として世にすぐに広まった。やはり恋の歌は人気があるのだ。敏行の歌は、



  恋ひわびてうちるなかに行きかよふ夢の直路ただちはうつつならなむ


 (恋に苦しみながら寝入った時、夢の中に現れるあの人の所へ行通うための直路。

  これが現実ならば良いのに)

 


 夢の中でしか通う事の出来ない、何か訳ありの恋の苦しみである。

 忠臣の歌は、



  つれなきを今は恋ひじと思へども心弱くも落つる涙か


 (つれない人に、今は気丈になって恋をするまいと思うのに、

  心は裏腹に弱く、涙が落ちていくのか)



 これはあてにできない恋に落ちて、諦めきれずにいる悲しみであろう。

 共に恋の哀切を詠んだ歌である。歌人達は歌の世界を広げようとさまざまな歌を試みてはいるが、やはり世の中ではまだ歌と言えば恋であり、口には出せぬ心情の吐露なのであった。


 最近は風流人同士の交流も盛んで、特に歌合の後から躬恒を友則や敏行との集りに呼んでは、意見を交わし合うようになった。躬恒は、


「私はとにかく無学なもので、皆さんのように立派な理屈について行けるかどうか」


 と言って初めは気後れしていたが、


「それなら私が漢詩くらいは教えましょう」


 と貫之が言い出し、躬恒と貫之は個人的にも付き合いが増えた。やはり躬恒は賢く、漢詩はもちろん唐の複雑な歴史などもすぐに覚えていく。大学寮で学んでいれば貫之や淑望に劣らぬ秀才であったかもしれない。そして友則に連れられて貫之と躬恒が共に招かれる宴の機会も増えていく。禄もそれなりに良い物が与えられ、官は卑官でも財はそれなりに悪くは無くなった。躬恒は歌合のためにかなり無理をして装束などもそろえていたので、豊富な禄を受けられることをとても喜んでいた。


 貫之はこの禄などを使って友則の邸を離れ、ごく小さな住みかを手に入れた。その塀の修理や池の掃除などを躬恒が買って出た。漢詩を教わった礼だと言う。躬恒は長く末端の下男として働いているので、外仕事に慣れていて貫之の家はすぐに小ざっぱりとさせる事が出来た。


「もしかして、妻でも置くのか? 通うだけでは物足りぬか。君の容姿で今の人気なら、女も結構選べるのだろう?」


 躬恒は羨ましげにそう聞いたが、


「いや。私は当分妻は持たない」と貫之はあっさり言う。


「何故だい? ひょっとして少し身分の良い邸の婿の座を狙っているのか?」


「そんな事出来るわけがないじゃないか。いくら名を知られても私は卑官の身だ。相手にされるはずがない。友則殿にいつまでも世話になるのも気が引けると言うだけだ。私はなんとかして五位の位を頂くまでは妻は持たないつもりだ」


 貫之の言葉に躬恒は面喰った。


「五位……気が遠くなりそうだ。それでは恋も出来ない。位は低くてもそれなりの妻を持てばいいじゃないか。友則殿は仲の良い家庭を築いているぞ」


「恋なら出来る。気の合う女にたまに通うのもいいし、歌のためなら一人だって恋はできる。だが、妻は持たない。通う女にもそう言ってあるが、それを言うと女とは長くはもたない。あての無い男と長く逢っていても女にいい事は無いしな。友則殿は良いのだ。あの人の父上は従五位下だった。だから長子の清正殿も大学寮に入る事が出来た。それでも友則殿は私の任官に苦悩し、自分の息子たちの行く末を心配している。自分に位が無いからだ」


「位が無くても、今の君なら」


「今はいいだろう。だが私の人気は物珍しさだ。私に本当の徳など無い。歌の実力もまだまだだと思う。いつ禄が途絶えるとも限らない。妻を持てばいずれ子が出来る。私は卑官で我が父も卑官の身だった。もし私の子が君のように才能に恵まれたなら、その子がその才能を開かせる機会に恵まれると思うか? 君のように運よく良い主人に恵まれて、引き立ててもらえると思うか? 祖父は卑官。父は一時は人気があったが所詮未熟な歌詠みで、しかも卑官の身。その私のかりそめの名声だけを頼りに、我が子に生きろと言うのか?」


 それを言われると言い返しようがない。何より自分の運の良さを、躬恒は良く知っていた。普通父親の位の低い者は、主人と直接口を聞くのも難しい。自分ももともとは主人の建物にすら近づけなかった身だ。


「何よりあれほど盛大な歌合は滅多に行われまい。あの歌合での人気などすぐに冷める。賀茂の祭りの熱よりもっと冷めやすいだろう。あの歌合は特別だった。おかげで殿上人達は道真殿に不満を持っている」


「そうなのか? 道真殿は帝の御寵愛も深く、この度は参議にもなられたじゃないか」


「それこそが不満を大きくしているんだ。私は毎日御書所で文書の作成に必要な文章を漢書の中から選んでは、書き写す仕事をしている。そして日に日に漢詩や和歌の宴にかかわる文書が増えいて、それを扱う人達が忌々しげにしていることを知っているんだ。道真殿に対する殿上人の視線はかなり刺々しい物だろうと思う。彼らは家柄を無視し、文芸と言う実用性の無い事で低い身分から出世した道真殿が気に入らずにいるんだ」


「しかも、道真殿は権勢高い方々を差し置いての御昇進だしな。歓迎はされにくいだろう」


「急に帝の御寵愛で出世しても、周りは納得しない。やはり身分は大事だし、和歌の地位も低い。私は引き立てて下さった友則殿のためにも、和歌を世の中に認めさせたうえで五位の位を得たい。私が妻を得て子を持つのはそれからだと思っているんだ」


「まあ、男女の事は前世の縁なのだからそう頑なになる事も無いが、君の生き方を否定する気も無い。それにしても道真殿がそれほど厳しいお立場とは」


「ああ、帝の御寵愛が、あだにならなければ良いのだが」



 是定親王や后宮の歌合の翌年。寛平五年(八九三)二月に道真は参議となった。もとは受領ずりょう(国司)上がりの身分の低かった者が、多くの身分のある人を押しのけるように、僅か二年で参議に身を並べているのである。人々は快く思えるはずも無かった。


 そもそも帝と道真が中心となって行った盛大な歌合も、殿上人達からすれば気に入らない。たかが歌合にあれほど世の人の注目を浴びさせ、しかも身分の低い者を招いている。

 これが名家を多くそろえた詩の宴などならば各々の家が権威を示す場ともなろうが、名もなき位の無い若者などを招くような席、しかもたかだか和歌である。そんな事に力を入れてそれが帝のお褒めに預かり、御寵愛を得ているのだ。


 さらにその年の四月。帝の行動に朝廷は揺れた。


「大変です! 帝が、敦仁あつひと親王を立太子なされたそうです!」


 この知らせに人々は驚いた。誰もそんな話は耳にしていなかったし、気配も無かったのだ。どういう事かと浮足立つ殿上人に帝は、


「私が道真と良く良く考えて決めた事。東宮は敦仁である」


 と、他の者の意見など全く耳を貸さなかったという。


 これは朝廷内では大問題となった。敦仁親王の母は藤原高藤ふじわらのたかふじの娘であった。高藤は従四位下と親王の外戚としては低い身分で、その職も播磨権守はりまのごんのかみを務める地方官……受領でしかない。朝廷を占めるのは以前の権力者であった基経に繋がる人々である。それにもかかわらず帝は基経の娘を差し置いて、身分低い人の娘の子を他の者に相談もせずに道真と二人で立太子させるように謀ったのだ。

 しかも帝は道真に春宮亮と言う東宮の後ろ盾の役目を与えた。これも道真に対する破格の扱いだった。帝は東宮に、


「道真にはこの国の新たなる形を作る重要な役目を任せている。唐の文化に頼らない自国の誇りと帝の権威を大切にする、本当の国風文化を持つ国にこの国は生まれ変わらねばならぬ。それを肝に銘じて、道真の意見を良く心にとどめるように」


 と言い含めて道真に東宮を任せた。


「多くの不満を背にしての重要な責務。そなたも苦しいと思うが耐えて遂行して欲しい」


 帝のねぎらいの言葉に道真も、


「これは帝と私の夢のための道でございます。何の苦しい事がございましょう」


 と言って道真は周りの風あたりなど気に留めぬように、着々と国風文化の推進に着手して行く。道真は『日本三代実録』の編纂に着手した。これは帝から大蔵善行おおくらのよしゆきなど数名と共に編纂するよう命じられたが、実際は道真と善行の二人による作業で行われた。

 内容は朝廷で行われた詔勅や、表奏文、節会せちえや祭祀の様子を細かく記録した物である。前例を記録することにより、こうした宮廷文化を安定して伝えていくことが目的である。


 そして、大江千里に依頼していた古今の歌集も奏上させた。大江家の家集、『句題和歌』である。千里も漢詩に通じており、漢詩の句を題材にした和歌を百十四首詠み、他に自身の身を訴える和歌を十首加えていた。これは千里が帝の「和歌と漢詩は同等に表現出来るもの」と言う考えを汲んでの物らしい。そして和歌同様に歌人である自分も、現在の不遇を改善して欲しいと訴えたのだろう。一度は臣下に下されたことのある帝は、千里の訴えをどのような思いで受け止められたのだろうか?


 その傍らで道真はあの歌合いから厳選した歌集を編纂していった。私編『新選万葉集』である。上巻は春夏秋冬に恋を加えた百十九首がその名の通り万葉仮名で記され、それぞれに漢詩が添えられている。下巻は春夏秋冬に思を加えた百九首で漢詩はつかない。この上巻のありようは、やはり帝の和歌と漢詩の同等性の考えに配慮したものと思われた。

 そしてこの歌集は七割近くをあの后宮の歌合から採られていた。帝が催したも同然の、あの歌合がいかに意味深いものであったかが分かる。この歌集は実際には私選を越えた存在として扱われることを念頭に置いて作られたものなのだ。


 この歌集に貫之の歌もいくつか選ばれた。あのいつかの初恋の娘に詠んだ、



  君恋ふる涙しなくは唐ころも胸のあたりは色もえなまし



 の歌も、后宮の歌合で詠んでいたのだが、それも歌集に加えられた。編纂を終えた道真はふと思う。


 この若者が和歌の世界の中心に立ち、この新撰万葉集が、これまでの万葉集のように和歌を詠む時の一つの手本となる頃には、世の中はどれほど変わっているであろうか?

 すべてが唐風に彩られたこの都も、何かこの国に相応しい色に彩られ、新たな価値観が生まれ、権力者が牛耳る政ではなく帝のもとで和御魂にぎみたまを胸に、この国に本当にふさわしい政が行われているのであろうか?

 そして私は、それを目にする事が出来るであろうか?


 きっとできる。これは帝と私の夢。もしかしたらもっと多くの者の夢でもあるかもしれぬ。

 大江千里は歌人である我が身の不遇を訴えていた。歌人たちは和歌を軽んじる風潮のせいでその才能の素晴らしさを認められずにいる。

 詩人の私は出世を果たしている。さらにもっと高みを目指し、この国の文化を変える力をもてるところまで行こうとしている。


 私は彼らの境遇を変えて見せる。この、唐の属国のようになってしまった文化を変えて見せる。和御魂を信じる心を……帝の政を信じる心を取り戻して見せる!

 そして新しくなった都の姿を、あの素晴らしい帝にお見せするのだ。いつの日か、きっと。




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