七話 佐久間神社の戦い 2
『我が身に宿し大蛇よ。我はアスラ=ティエノフ。盟約の名の下にその姿を顕現せよ』
アスラの足元に黒い円陣が浮かび、そして彼の前後左右から八頭を持つ蛇が現れた。古の人を石にさせる毒を放つカトブレパスと呼ばれる魔物の一種だ。
「千里さん、早く逃げて……!」
完全に吸血鬼の魅了に囚われ、身動きできない千里を突き飛ばす。その瞬間、ギラリと赤く光る大蛇の視線が愛菜を射抜いた。
ビシ、ビシ……
たったそれだけで、愛菜の体が少しずつ灰色に染まっていく。
「愛菜……!」
魅了から解放された千里は愛しい妻に触れようと手を伸ばした。
「ダメ! 私に触れると千里さんまで!」
「く、くそっ……蒼龍を召喚して……」
別の印を結ぼうと式神召喚札を取り出した千里の手を払う為に蛇の頭が飛んできた。
そして残りの七頭はそっと石化を始める愛菜の体を絡めとっていた。
「俺は気の長い男ではない。お前達に聞きたいことはただひとつ。ここに混血児の騎士がいるはずだ」
質問の意図がまるで分からない。混血児というのは吸血鬼と人間の混血だ。そんな不浄な存在がこの由緒正しき佐久間神社にいる筈がない。
「混血児だって……? 一体何のことだ」
眉間に皺を寄せる千里の心を一瞬で読んだのか、アスラは深く嘆息した。
千里は瞳を閉じて手の震えと恐怖を何とか抑え込んだ。あの吸血鬼、見た目は隙だらけなのに、化け物を一瞬で召喚する魔力、例え自分の持てる全ての式神を出したとて敵う相手ではない。
「──玄武、蒼龍!」
それでも、愛しい妻を化け物になんぞくれてやるつもりはない。二体の式神を同時に召喚した千里は手を返して術も反転させた。
「【反転・玄蒼憑依】」
召喚された式神は実体をひとつの線へと変化し、千里の身体を優しく包み込んだ。神々しい玄武の硬い鎧と、蒼龍の長剣が彼の前に顕現した。
元々日々の鍛錬を怠らない千里は、いつ化け物が来ても対応出来るように式神を同化させる術まで自力で編み出していた。
しかし、これは失われた【禁術】のひとつなので、代償として自身に相当負担をかけるものだ。式神へ提供するものは、命を半分ほど。
「はっ!」
襲いかかる大蛇の首を蒼龍の剣で斬り落とす。この剣で斬れぬものはない特殊な式神だ。
続けて高く跳び上がり、愛菜に巻きついた大蛇の首に剣を振り下ろすと、狙いとは違う首が千里に噛みついてきた。
しかし防御に特化した玄武の鎧が牙を弾き返す。一瞬、怯んだ隙に剣を振り下ろした。
これで二首。
残る六本の首は血走った目で千里を睨み、食い殺そうと奇声をあげた。
玄武の鎧は石化を弾くので、魔物の瞳に睨まれても千里の身体に変化はなかった。
そして式神と同化すると人間の速度を超える。
玄武は防御に特化し、蒼龍の力は剣だけではなく、相手に先読みの力を与える。
単純に相手の攻撃が読めるので、その一歩先の行動を取ることができる。故に相手の攻撃を躱すことが出来るのだ。
「面白いな、式神を同化させた人間は初めてだ」
「化け物に褒められても嬉しくはないな。愛菜を返してもらう」
時間は残されていなかった。愛菜の石化は太腿を過ぎ、両手も少しずつ変色している。
「はああ……!」
首を狙っても埒があかない。一か八か、大蛇が召喚されている魔法陣の中央を狙うことにした。
鋭い牙が肩口に向かってきた瞬間身体を丸めて死角に入る。
一瞬彼の存在を見失った大蛇は互いの首を見合わせていたが、その間に千里は吸血鬼の術を読み解こうと、魔法陣に描かれた紋章を脳内に叩き込んだ。
しかし、皮肉にも蒼龍の先読みが教えてくれた内容に絶望が千里を支配した。
この魔法陣を解読しても術者を倒さなければ、同じ化け物が再生され続けてしまうのだという。
「なんと……これでは」
「もう終わりか? 人間」
一瞬抵抗する気力を失った千里にアスラの捕縛術が発動した。彼ら吸血鬼の力を、人間が召喚した式神で読むことは不可能だ。
「く、そ……」
「千里さん!」
「愛菜……」
宙に浮かされた千里は見せ物のように大蛇に四方から噛み付かれた。六本の首に噛みつかれて流石の玄武の鎧も牙を弾く力を失った。
首筋、両足、両腕、そして脇腹。全身を襲う激痛に悶えてもアスラの術を解くことが出来ず、握りしめていた蒼龍の剣が虚しく地面に落ちた。
「あ、あぁ……千里さん……」
愛菜は目が見えずとも愛おしい人がボロボロに傷つき、この後の光景が視えていた。
「──神よ、私に今一度お力を……【ペトラ・カタストロフィア】」
両手が完全に石化する前に、何故か愛菜は石化の術速度を進行させて己を完全な石へと変えた。
石像と化した妻が視界に入り、千里は完全に抵抗する気力を失った。
「まあ、式神を二体召喚する力は褒めてやるよ。少しは楽しかったかな」
大蛇にこの戦闘力の高い血を飲ませるのは勿体無い。召喚したそれを大人しく神社の隅に待機させ、気絶した千里を腕に抱いた。
白い牙を覗かせ、彼の首筋に噛みつこうとした瞬間、左手の甲を貫く赤い薔薇が突き刺さった。
「──やっと来たか、ウィル」
口元に笑みを浮かべ、手の甲を貫いた赤い薔薇を抜きとる。茎が吸い込んだ自分の血液をペロリと舐め、上空に浮いている吸血鬼を見上げた。
始祖の吸血鬼が自分を殺そうとしている。彼に認められたい、いや、見つめられたい。あの瞳に、一瞬でも自分の存在を植え付けたい。
ウィルの瞳に囚われた瞬間、意識の根底まで侵されるような甘美な刺激が全身を襲った。
「ああ、あぁ……ウィル……その目だ。俺を殺せ」
始祖の吸血鬼は全てを凌駕し、例え同族であろうと魔力の違いで完全に魅入られてしまう。
宙に浮いたウィルは漆黒の手袋に隠していた赤い薔薇の紋章を浮き出させた。
「お前が犯した大罪。私がケリをつけさせてもらう」
凛とした静謐な声が闇を支配する。赤く染まった満月の中、佐久間神社周辺のみ空も茜色に変わっていた。
その異様な中で彼は両手を広げ、素早く魔力を練ると空間に白き魔法陣を空間に描いた。
「ウィリアム・グレイスの名において、【断界領域】」
彼が編み出した吸血鬼“戦闘用“の特殊空間は、佐久間神社を他者には見えない結界で包み込んだ。
音も、景色も、全て無と化す。
それは、通常の時の流れから、現実世界を完全に隔絶させた。




