五十一話 奏の精神世界 四
「僕に、妹?」
唐突に父から告げられたその言葉。
両親の仲は決して悪かった訳ではない。ただ、ほんの些細なすれ違いが大きくなり、彼らは子供よりも自分達の今後を選んだ。それだけのことなのだ。
「この子は佳代。今日から新しい母さんと一緒に住むから、仲良くするんだぞ」
「えっ……?」
姉二人は高校進学と共に寮生活を選び、家に帰ることはなかった。
奏は冷めきった夫婦関係の間に板挟みされながら中学を過ごし、少しずつ心を閉ざしていく。そんな中で浮上したのが、奏が中学二年の時に突然舞い降りた両親の離婚と再婚の話だ。子供達が知らない間に、書面上では既に二人は他人となっていたらしい。
──全てが終わった半年後に、母は突然家から出て行った。しかしそのことについて何の感慨も抱かなかったのは、両親ともに仕事人間で、家にいないことが当たり前となっていたからだろう。
化粧気のない母の代わりにやって来たのは、父よりも10歳は若いであろう綺麗に着飾った女性だった。彼女は小さな女の子を連れて我が物顔で家にやってきたのだ。
「あなたが、奏くんね。はじめまして、私は本藤翠。こっちは娘の佳代」
笑みを浮かべた『新しい母』とは仲良くなれる気がしなかった。見るからに派手なその風貌は、どうみても公務員で堅実な父を誑かしたようにしか見えなかったからだ。
奏ははあ、と小さく呟き、新しい母のスカートを引っ張る幼子に視線を落とした。
「佳代ちゃん、ね。僕は奏、よろしく」
「にーに……?」
彼女は一人っ子だから、兄という存在が嬉しかったのだろう。しかし奏には最近会っていないとは言え、姉が二人もいる。今更、こんなにも歳の離れた妹が出来たところで何の気概も湧いて来ない。
「にーに、かよと遊んでねっ!」
「うん。よろしくな、佳代──」
無邪気に微笑む、妹の笑顔が大嫌いだった。
────
『ハルカ様、精神体はある?』
いつもと違う精神世界の深部──。
先ほどシルフと共に入った奏の精神世界はまたセピア色だった。
先ほどの奏の目線が胸に刺さる。両親の勝手な都合に翻弄される子供達。けれども1つだけ違うことがある。今の奏は佳代ちゃんのことを愛しているはず。
この中学から高校までの間に一体何があったのだろう?
『さあ……人間は、思っていた以上に繊細な作りをしているのね。理解できない』
シルフはまるで他人事のようにそう話す。それも当然だ、彼女はあくまでウィルに頼まれて精神世界にいるに過ぎないのだ。まして、この深部に彼女が入ったのは、崩壊した奏の精神を共に救う為。
──実体はないけど、シルフには俺が分かるの?
『当たり前じゃん。今のように意識を飛ばして頂けたら十分よ。それに、フェリに見つかるのも厄介だし、ハルカ様は姿を見せない方がいい』
シルフは周囲を警戒すると、ケラケラ笑っていた面を引き締めた。
『ふぅん、彼の深部はなかなか奥が深いわね。また過去を覗き見出来るみたいよ?』
シルフが指した場所にはシャボン玉のようなものがふわふわと宙に浮いていた。
よくみるとあちこちにシャボン玉のようなものが浮いている。これが奏の記憶なのだろうか。だとすると──。
途端にパンッとシャボン玉の1つが弾けた。そこからは透明な液体ではなく、血生臭い匂いが充満してくる。セピア色であっても、それは鉄の匂い。間違いなく人間のものと悟る。
『──やばいわね、この子、自分の精神世界で死ぬ気だわ。彼の存在を一番留めてるものって何?』
シルフの言葉に、遥は思案を巡らせるが肝心な時に何も出てこない。まして、彼とはそこまで親しい間柄でもないのだ。
奏が現世に縛り付けられるものがあるとしたら、テスト勉強よりも大切にしている妹の存在以外は考えられない。
──佳代ちゃんだ。シルフ、佳代ちゃんとの記憶を!
『ふうん、あのチビちゃんね。風よ、思い出を運べ』
シルフの風によってシャボン玉が宙に舞う。通常であればその刺激で全部壊れてしまうであろうものは、シルフの風のバリアによって守られていた。
その中から1つのシャボン玉を見つけたシルフは、遥の前に大切そうに持ってくる。
『これよ、チビちゃんと、少年の記憶』
シルフにシャボン玉を差し出される。
──千秋や唯の精神世界に入った後なので今更と思われてしまいがちだが、他人の記憶にずかずか介入して良いとは思えない。かと言ってこのままでは奏が己の記憶を全て破壊して多分死んでしまうだろう。
しかし、奏にとって生きる全ては佳代ちゃんなのだ。その佳代ちゃん亡き今、奏を生かすことが果たして最良なのかどうか。
躊躇する遥の真意を悟ったシルフはわざと大きなため息をついた。
『いい? ハルカ様。フェリのせいで貴方のお友達は今まさに私たちの敵になろうとしてるの。フェリに食われるのを黙って見ているか、それとも貴方の手でお友達を助けるか』
このまま奏を放っておけば彼は死んでフェリに食われる。しかしここで行動を起こせば奏は救えるかも知れないが、彼の精神的支柱はもうこの世に無い。
──シルフ、奏を救うことが、奏の為になるのかな?
『バカねえ、ハルカ様はついに生き方も忘れてしまったのかしら? いい? 人間の一生は短いのよ、私らとは違う。大切なものを失ったからって、彼は命を落としてカヨさんに会えるとでも?』
精霊は魔力が尽きない限り無限の時を生きる。それと比較したらひとの一生など100年たらずだ。言葉を失った遥にシルフは言葉を続ける。
『神々は自分で命を絶ったものは赦さない。彼はここで死んだら、永遠に……死んでもカヨさんに会えないのよ?』
シルフの言葉で遥の中の何かが弾けた。
助ける為に精神世界に来ているんだ。人間の闇に耐えられるか? ウィルは必ずその質問わや投げかけてくる。それは遥の精神も壊れないよう心配しての言葉なのだろう。
決心がついたよ、ありがとうシルフ。
『それでこそウィル様の息子。さあ、この記憶から彼を引きずり出してフェリをとっとと追い払うわよ!』
シルフがシャボン玉に手を翳した瞬間、セピア色の視界が白く染まる。




