四十六話 バイバイ
遥が一歩繭に足を進めた瞬間、佳代の両手から蜘蛛の糸が放たれる。それをグラディウスで切り裂きながら少しずつ二人に近づく。
『にーにを、ウバワナイデ』
「佳代ちゃん、話を聞いて」
遥の言葉も聞こえないのか、佳代はいやいやと頭を左右に振り叫んだ。
『ダメ、来ないで──』
彼女の声が不気味な音を放つ。声というよりは空気を震わせる何かの音だ。
思わず両耳を押さえて顔を顰めると、佳代は再び遥の手首に蜘蛛の糸を放った。一瞬のその隙に、両手首はしゅるしゅると糸に絡められる。
「くっ──」
『にーにを、誑かす奴は、コロス』
佳代の瞳が不気味に赤く光る。すると無垢な少女は小さな姿を青い霧に包みこみ、一瞬で妖艶な女吸血鬼へと変わった。
「佳代、ちゃん……?」
「ウフフ……貴方とは初めましてかしら?ハルカ」
吸血鬼は黒いブーツの踵を鳴らしながら、糸に四肢を絡められている遥にゆっくりと近づく。
「混血児の血──さあ、カイの為に死になさい」
「か、い?」
知らないその名前に遥は眉を寄せる。
そして女吸血鬼は遥の目の前に立ち、紅の瞳で妖艶に微笑む。
「お前には双子の兄がいるんだよ……カイはウィルの所為でクリスタルに封印されているのさ」
その説明に遥の瞳が見開かれる。双子の兄がいるなんて初めて聞いた話だ。
だからと言っていきなり登場した女吸血鬼の言葉を全て信用するつもりもない。
「カイはお前への憎しみで満ちている。本来は自分も人間として生きるはずだったのに、お前だけが母親の愛情を受けて育った」
封印されている記憶を辿ると、確かに自分を抱く母親の笑顔が浮かんでくる。
しかしそれ以上先の記憶がない。本物の母親の記憶は夢の世界と、たったそれだけだ。
最近まで一緒に生活していたのは、『母親の姿をしたエンプーサのリャナ』であり、本物の母親ではない。
「……お前は嘘を教えたのか、もう一人の混血児に」
「ふふっ。カイは素直に信用したよ、偽りの世界をね。お前が母親と一緒に過ごして幸せそうに成長していく姿を見せてやったのさ。──カイはハルカの所為で母親に捨てられたんだよとね」
あながち嘘とも思えないフェリの説明に遥は胸を痛める。もしも自分とそのカイという混血児の立場が逆だったとしたら──
遥はウィルと、そして仮初めとは言えリャナは良き母親を演じてくれたし、生活において何一つ不自由は感じていなかった。
一方のカイはどうだろう。右も左も吸血鬼の世界。頼れるものは無く、〈最悪の幻影〉を見せられてしまえば、それを信じてしまうだろう。例えそれが偽物であったとしても。
「お前の目的は何だ……! 何で、人間を」
「ハッ、愚問だねぇ、混血児。ウィルからまるで何も聞いちゃいないんだね。あいつの犯した罪と、我々の目的を」
確かに遥はウィルから聞いていない話が山のようにある。過去についてはウィルも語ろうとはしないし、自分もその話について言及するのが怖くて聞けないでいる。そのせいか、ウィルとの距離は縮まらない。
「ふふっ……まぁ別に知る必要もないさ。お前はここで死ぬのだからね」
フェリはそう言うと遥の頰を冷たい手でするりと撫でた。
──昨日のウィルの言葉を思い出す。
『いいか、ハル。万が一私が居ない時にフェリと遭遇した時はティムを呼べ』
『……ティム?』
『あとは千秋君に貰った御守りは絶対に外すな。絶対にだ……』
始祖と呼ばれ、敵などいないはずのウィルがあんなに動揺した顔を見せたのはそれほど彼女が危険なのだろう。
フェリの冷たい指先は少し下がり、喉下でピタリと止まった。
「何も知らないまま闇の中で眠りなさい……さあて、お前の血はどんな美味な味がするかね」
フェリは八重歯を覗かせると遥の首筋に唇を寄せた。このままでは噛まれる──そう思い遥がきつく眉を寄せた瞬間、首にぶら下げていた御守りが淡い光を放つ。
「ングっ……! まさ、か──」
異変を察し、遥から離れたフェリは忌々しいと舌打ちをする。彼女の唇からは焦がされたように白い煙が立ち上っていた。
一体何が起きたのかわからない遥は胸元で光る御守りに視線を落とす。それは邪気を払う光を放っていた。
「千秋の母さんが、守ってくれている」
千秋から学校で御守りを受け取った時も、アスラを追い払うことができた。友人のありがたい計らいに感謝しつつ、再びフェリを睨みつける。
「時詠みの巫女め……封印されてもなおその力を発揮するか……」
フェリは両手の爪を伸ばし、それを遥の首筋にピタリとあてがう。しかしその爪は見えない風の刃によってへし折られた。
「──でてきな、使い魔」
「やっぱりフェリの目は誤魔化せないか」
クスクスと笑うその声には聞き覚えがある。ウィルの使い魔と名乗ったティムだ。
彼は小さな子蜘蛛からいつもの少女の姿へと変化した。
「私を欺くなんてふざけたことを」
「まぁね。でも時間貰ったお陰でボクの目的は達成したよ」
少女の姿をしたティムは繭に包まれている奏と、遥の魔術によってシャボン玉のような空間に包まれている子供達を、それぞれ赤い霧で包み込む。
それは吸血鬼のみ使える霧なのだが、どうやら彼は〈特殊な力〉を使ったらしい。
「ふん──使い魔のくせに、禁呪を使うか」
「ボクが守るべき主人からの命令だから」
ティムはそう言うと、蜘蛛の糸に絡められている遥の四肢を解放した。自由になった遥はフローリングの上に身体ごと落ちる。
「ティム、君は……」
ティムは床に這う形となっている遥の頭をぽんぽんと撫でる。彼は何か覚悟を決めたような瞳を遥に向けた。
「今のハルカは、フェリには絶対に勝てない。だから、さよならだよ」
「え……?」
ティムの言うことが理解出来ない遥は動揺したまま瞳を丸くしている。
「ボクは〈体液〉さえあればどんなものにだってなれる。主人から頂いた一瞬だけ使える始祖の血。これでボクとフェリは異空間にさよならだ」
「バカな奴ねぇ、そんなハッタリが効くとでも?」
『我、ウィリアム=グレイスの名に置いて命ず』
ティムの声は既にウィルのものへと変わっていた。姿は少女だが、中身はウィルと同化している。
使い魔が主人の力を使うという禁呪は、使った対象の命を保障しない。
「うふふ、いいのかい? お前はウィルに一生仕えるのだろう?」
『──ボクが望むのは、ウィルの笑顔。それだけ』
使い魔として、ウィルに仕えて何百年。
人間の一生とは異なり、月日を数えるなんて面倒なことはしない。それに、ウィルと一緒に過ごす時間は楽しかった。彼はいつも人間界に行く時は自分を連れて行ってくれるから。
ティムは子育てをしたことがないウィルの為にエンプーサ達と協力して幼い遥のサポートを続けてきた。それこそ、すでに実態の無い自分の姿を少女、少年、青年へと変えて。
『さあ、牢獄は開かれた……消えよ、女狐』
「な、に……私は、私はまだ死ぬわけにいかない……! 絶対に!」
ティムの発動させた黒い異空間は、奏の部屋の壁を一瞬で吹き飛ばす。さらに空を黒く染めあげ、強い風と共にフェリを飲み込もうとする。
──刻の監獄──
「混血児!! お前だけは、絶対に──!」
異空間から出現した黒い念はフェリの四肢を拘束し、一瞬で飲み込む。
静寂が訪れた瞬間、奏の部屋から何も無くなっていた。
「ティム……?」
残ったものは部屋中に張り巡らされている蜘蛛の糸と、繭の残骸、そして壁に開いた巨大な穴──
それは決して夢ではなく、現実であると理解せざるをえなかった。
────
同時刻。千秋と対峙していた咲は、術者のフェリが消えた事で突然意識を失った。崩れ落ちた彼女を千秋が慌てて支える。
「なんなんだ、一体……」
ふと空を見上げると、遠藤家の上空に立ち込めていた暗雲は晴れやかな蒼へと変わっていた。




