四十話 エンプーサ四姉妹
唯の精神世界から現実に戻り一週間が経過した。季節は九月の上旬に差し掛かり、そろそろ面倒な中間テストの時期となる。
あまり学校を休むと単位も落としそうなので、遥は早く学校に行きたい気持ちになっていたのだが、回避できない「とある問題」が発生していた。
「ハルカ様っ! 朝ですのん」
「ぐぇっ……」
思わず遥は顔に似合わず腹の奥から変な声を上げた。きょとんとしているのは、腰まである金色のポニーテールを揺らしながら遥のベッドに馬乗りになる幼女──
彼女はエンプーサ四姉妹の末妹のフィーナと言う。何故彼女が遥の部屋に居るのかと言えば、【監視強化】なのだ。
ティエノフ家の吸血鬼達がこの日本で何かしようと企んでいる事は遥にも薄々理解出来るようになった。そしてその標的は間違いなく若き聖乙女の血。
聖なる血液は、ただ若い女性が持っているのではなく、古の時代に吸血鬼と何らかの関係性を持った女性に限局される。
「おお? ハルカ様、今フィーたんから逃げようとか考えてたでしょお?」
「……そんな面倒な事はしないよ。俺が逃げた所でフィーナには勝てないし」
フィーナの持つ力は、混血児の能力に作用するらしい。
初めてフィーナに会った時、遥は彼女から逃げだして学校へ行こうとした。それが叶わなかったのは、フィーナの持つ特殊能力のせいだ。
「また黒にゃんこになりたいかにゃ?」
「──結構です。でも、千秋にラインだけさせて」
さすがに一週間も学校を休んでいると現状が気になる。
千秋が学校を休んでいた間は「風邪」で突き通した事でも特に問題は無かったのだが、皆勤賞の遥が来ないのは教室もざわつく。
しかし二度に渡る精神世界への転移によって、遥自身は感じていなくとも相当肉体に負担がかかっていたらしい。
真っ直ぐ歩いているつもりでも歩けず、座ったつもりが空間の認識が出来なくて何度も尻餅をついた。
それでも「学校に行く」と言う遥の我儘を止める為にウィルではもはや無理だと悟ったらしい。
ウィルは最終的手段として、吸血鬼の特殊空間で過ごしている残りのエンプーサ達を呼び寄せた。
──それが、唯の精神世界から戻った晩の事だ……
遥の部屋に入ったリャナは後ろから、二人の妹を呼んだ。紹介されたエンプーサは二体。
しかしリャナと比べると、姉妹とは思えない程似ていない。
三女のメイサはセミロングの金髪に、一重の鋭い深紫色の瞳を持ち、この平和な日本では想像出来ないくらい戦闘に特化したハーフメイルを身に付けている。
あんな物騒な格好でウロウロされたら、それこそ平和を壊す争いの火種になりそうだ。
四女のフィーナはまだ幼稚園の少女の容姿で、腰まであるポニーテールを揺らしながら、くりくりした深紫色の瞳で見つめてくる愛らしい子だ。
紹介が終わった所で、遥は一人足りない事に気付く。
「次女は?」
「シエラは、夢魔を追跡しているので此処にはいません。ですが、ハルカ様は彼女にお逢いしておりますよ」
微笑みを浮かべたリャナがそう説明してくれるが、エンプーサは基本皆美人だ。
元々彼女達は人間を妖の力で惑わして生気を少しずつ奪い、最終的には自分だけの虜にするという種族だ。
例え人間の姿に化けても隠しきれない魅力があるのは種族によるもので、今遥の目の前にいる三体の女性達は皆美しかった。
そんな美しい存在に会った?
記憶を辿ると、炎の魔神の精神世界に黒いローブを身に纏った金髪の女に会った事を思い出す。
「まさか、彼女がシエラ?」
「そうです。彼女は変幻自在に自分の肉体を飛ばす事が出来る。精神世界に干渉できる唯一のエンプーサです。だから彼女に夢魔を見張ってもらっているのです。──再び、戦乱にならぬよう」
リャナはそう言うと、遥の部屋にフィーナだけを残してメイサを連れて部屋から出ていってしまった。
その意図が分からなかった遥はニコニコ微笑む幼女と対峙する。
「ハルカ様っ。今日からはフィーたんが身の回りのお世話を致しますねっ」
「はぁ?!」
──その日から、遥の自由は元気な幼女によって制限されたのである。
それが昨晩までの話であり、大分元気になった遥はもう一度学校に行くための計画を考えていた。
千秋へラインを飛ばし、学校の状況や、既に学校に行っている唯に異変が無いか訊ねる。
頼りになる友人からはすぐに返事が来て、学校は変わりないが試験範囲が広いという嘆きが込められていた。
「……フィーナ、俺の単位がまずい。だから、明日から学校に行かせてくれないか?」
「ダメです。ハルカ様のことはフィーたんが面倒を見るのです! それに、ウィル様から学校に行かなくてもいいと言われております!」
渋谷区の壊滅、とある大学は黒薔薇に支配され、日本の中枢はこの不可解な現象についての情報収集に帆走していた。
東京が化け物の侵略にあっている事はすぐに広まり人々の不安は増大。さらには地域の治安にまで影響を及ぼしていた。
それだけではなく、最近ではあちこちの保育園でも子供が神隠しに遭うという怪奇現象まで発生している。
保育園というキーワードに何かを察したウィルは、三日前からリャナ、メイサを引き連れて東京23区内をしらみ潰しに当たっている。
少しでも魔力の残り香を感じた場所を重点的に攻めているので、時間も相当かかっているらしい。
視察に行ったウィルはいつ家に戻るか分からない。
食事はリャナが定期的に準備してくれるので、このままフィーナと二人で過ごした所で何ら困る事はない。が、自分だけが知らない異常事態に胸騒ぎが拭えない。
「……フィーナ、今晩は一緒に寝ようか」
「はいっ! じゃあ、フィーたんお風呂沸かして来ますねっ」
エンプーサとは言え、フィーナはまだ小さい。多分、彼女があの年齢のまま時を止めたのは何か理由があるのだろう。
先に一階に降りて行ったフィーナの背中を見送り、遥は学校用の鞄と制服を片手に家を抜け出した。
「──ごめんな、フィーナ……」
これ以上自分だけ守られるのは辛い。それに唯は姉と離れ離れになったのに、学校で平然としているわけが無いはずだ。
遥はフィーナから逃げ隠れる為、千秋に今晩だけでも匿って貰えないか電話をかけた。
『お前も大変だなあ。吸血鬼の次は使い魔だっけ?』
からからと豪快に笑われてしまい、遥は電話越しだと言うのに不機嫌に眉を寄せた。
「……笑い事じゃないんだよ。フィーナに捕まると俺は猫にされるし」
『へぇ〜。それって何か困るのか?』
「猫で学校に行けないだろ! 大体単位もやばいのに、いつまでも自宅で待機なんかしてられないよ」
『真面目だなあ遥は。俺ん家はもう親父しかいねーし、何日でも気にしないで泊まっていけよ』
もう親父しかいない──その言葉に胸が痛む。
「……ごめん、千秋」
『ああ? 何でお前が謝るんだよ。ま、その使い魔ちゃんに見つからないようにな』
千秋に礼を述べて電話を切る。
急がないとフィーナに見つかるとただでは済まない。逃げ出した事で猫にされたままウィルが帰宅するまで拘束される可能性もありえる。
彼女達を止められる者は直接的な主人であるウィルのみ。
しかも彼らは脳内伝達を使うので携帯電話など持たない。これから千秋のところに行くと伝えたくても、遥にはウィルへ言葉を伝える方法が無いのだ。
鞄を抱えた遥は佐久間神社に向けて走る。交差点の先にある保育園が何故か閉鎖となっていた。
──ただでさえ待機児童が多いのに、保育園が次々に閉鎖されている。それも、ウィルが危惧していた何かなのだろうか。
遥は暗い考えを払拭するように頭を振り、信号が変わった瞬間、再び全力で走り出した。




