五話 閉鎖される渋谷区
東京都渋谷区。若者の情報発信の中心部であり、どんな時間帯でもこのスクランブル交差点は人が多い。ここはある意味観光名物のような光景だ。
平和な日常的光景を上空から見下ろす青年は、ふっと口元を緩めた。
「こんな狭い場所に、人間が密集するなんてな」
銀色に輝くフルートを片手に持った青年──アスラは、菖蒲色の瞳を紅に染めた。その瞳の色は、これから始まる殺戮を楽しもうとする少年のように輝きを増した。
「さぁ、可愛い半死人よ。この笛の音で踊れ…」
お前達が目指すのは、佐久間神社だ。
心の中でそう呟いたアスラは冷たい唇にそっとフルートを当てる。本来奏でられるはずの音色ではなく、その不思議な旋律とフルートから発せられるものとは明らかに違う音は、一部の人間達の鼓膜を刺激した。
「ぐ、あ、あああっ」
「な、に……これっ……!」
突然頭を押さえて蹲る人間が二人。
以前、アスラに“味見“された者達は、その特殊な音色によって半死人へ強制的に覚醒させられてしまう。
『グヲヲヲヲヲヲ』
男の方が先に変異した。
顔は土気色に変わり、目は灰色のまま虚空を見つめる。咆哮は既にひとのものではない。
「ひ、ひぃっ! ば……化け物っ!」
続いてOL風の女が頭を抑えながらよろよろと交差点を抜け、前方から向かってきた車を片手で押さえると足でフロント部分を蹴り飛ばした。
人間の蹴りとは思えない威力で、最初に掴んだ車はそのまま五メートル先の電柱に激突して大破。
突然止まった車に後続車が次々と衝突する。更に三台の車が連続で接触事故を起こし、その後も交差点を左折してきた車からのクラクションが鳴り止まない。
「おい! てめぇ何やってんだ!」
堪らず衝突した運転手が窓ガラス越しに怒声を上げる。
女はニタリと口角を吊り上げ嗤うと、バッグで窓ガラスを簡単に破壊した。
「ひっ……!」
長年の飢えを満たすように、女は抵抗する運転手の首筋に噛みついた。男の断末魔が闇に吸い込まれていく。だらりと力を失った男の車にそのまま窓から侵入して女は食事を続けた。
先に交差点で通行人に襲いかかった男は逃げる人間達の首を次々とへし折り、スクランブル交差点のど真ん中にぽんぽん放り投げた。死骸の山から両腕をブチブチと引き裂き、その肉を胃の中に突っ込み始めた。
渋谷駅周囲にいた人間達は、当然パニック状態に陥り、慌てて逃げる人の波と悲鳴が響き渡る。
地下駅は大混雑で警察も出動するが、その程度で手に負える相手では無かった。拳銃の発砲も許可されたのだが、相手は半死人なので下手な鉛玉では足止めにすらならない。
この惨劇で五人の警察官が命を落とし、車の衝突事故で三人死傷、そして十二人の哀れな通行人が喰われた。
この状況を作ったアスラは頭を抱えた。
「やはり半死人は知性が低い。お前ら、食事の前に俺の命令通り佐久間神社に行けっての」
フルートをそっとしまい、死体が転がる交差点の中央に降り立つ。
「邪魔だ」
アスラに睨みつけられてようやくグールは食事をやめて彼にひれ伏した。
『大地に眠る地神よ、我はアスラ=ティエノフ。今宵、この地を再び我ら吸血鬼のモノとする』
吸血鬼特有の言葉で地面に印を結ぶと、アスラが立っている場所から四方に黒い薔薇の蔦が広がった。
それは普通の蔦ではなく、巨大なひとつの生命体であり、まるで意志をもったように蠢き、建物を絡めると全て己の養分とした。
ズッズッ……と建物、地面、人、何もかもを剥がして蔦は膨れていく。
「な、何だこれは、うわあああっ!」
そして蔦から顔を覗かせた黒い薔薇は人間の血液を吸い尽くす。蔦はあるもの全てを吸収し、次々と黒薔薇を咲かせた。
血の匂いをもつものは全て黒い薔薇が吸収していく。栄養をたっぷり取り込んだ黒薔薇は大きな花弁をつけて、渋谷区区役所を中心に五芒星を描く黒い結界を作り出した。
「さあ、我々吸血鬼の革命の始まりだ……まずはこの土地から」
ひとつの巨大な作品となった黒薔薇は、長い蔦を空まで伸ばし、周囲の電柱も全て食い尽くした。
山手線及び、渋谷停車予定の電車は全てストップ。道行く車も全て薔薇の蔦に追突し、残った人間は全て黒薔薇に喰われた。
途端に静寂が訪れる。
数千人の人が駅の近くに居たはずなのに、今は誰の声もしない。
渋谷区が謎の結界により完全に閉鎖した事で、当然国も動く。このありえない状況を放送する為に数機のヘリコプターが渋谷区に近づいたが、縦横無尽に動く蔦にプロペラを壊されて呆気なく墜落した。
落ちたヘリは轟音と共に火花と黒い煙をあげていたが、それもまた黒い薔薇の養分と化した。
単純な人間達の行動にアスラはククッと笑い、指先から黒い薔薇を一本取り出して逃げようとしたヘリに突き刺す。
ハエ落としのように簡単に落ちたヘリをぼんやりと眺め、懐から遥と仲良く歩く男の写真を取り出した。
「さて、遊んでないで佐久間神社に向かうか。邪魔な騎士様を始末しないと厄介そうだからな」
アスラは食事に夢中なグールをそのまま放置し、黒い霧と共に閉鎖された渋谷から姿を消した。
◇
「うわああっ!」
渋谷区が閉鎖空間に覆われた夢を見た。それはあまりにもリアルで、全身から冷や汗が止まらない。心臓も早鐘を打っていた。
「ゆ、夢? き、君は」
「申し遅れました。わたくしは、ウィル様の使い魔、エンプーサのリャナと申します」
長い間母親を演じてきた事を詫びたリャナは、深紫色の瞳でこちらをまっすぐに見つめてきた。
彼女が着ている薄衣のローブは、多分この近くでは手に入らないものなので、やはり彼女がここの人間ではないと悟る。
そして何よりも今ショックなのは、ウィルが人間ではないことを、本人から聞けなかったことだ。
「わたくしは、ウィル様に命を救われた下等な魔物でした。それに命を与えてくださったのが、ウィル様なのです」
「あの……俺の両親は、吸血鬼なのか?」
「それは、わたくしからは……」
再び口籠る彼女。あくまで主人の言いつけ以上を語るのは許されていないようだ。
「千秋が心配だ……佐久間神社に行く」
「あとの事はウィル様にお任せ下さい。その為にわたくしが此処に残っているのですから」
リャナは薙刀のような物を構えてこちらに微笑んだ。
しかし胸騒ぎが収まらない。
日本から分断された渋谷区は、本当に夢だったのか。──それとも、これからアスラが行おうとしている【革命】への警告なのだろうか。




