三十八話 青い薔薇の紋章 二
ウィル達が人間界の偵察を終えて戻ってきたのは、フェリが暗躍してから三日後の事であった。
始祖となった後も、ウィルは今までと変わらずこじんまりとした部屋をそのまま愛用していた。
手のひらを当てて音も無く扉を開ける。部屋の中で椅子に座り、本を読んでいた櫂は音に反応して顔を上げた。
「ただいま、カイ」
ウィルは羽織っていたマントを外し、それを椅子にかけた所で櫂の瞳から魂が抜けている事に気づく。
「カイ……?」
怪訝そうに彼を呼ぶと、櫂は再び顔を上げたものの一言も言葉を発さない。不吉な予感が胸を過ぎり、櫂の手首をぐいっと掴んでその色を確認する。
そこにはグレイス家の赤い薔薇の紋章と、その下には不気味な光を放つ青い薔薇の紋章が刻印されていた。
「くそっ……あの女狐め……!」
ウィルは血が滲む程唇を噛み締め、使い魔のティムを呼ぶ。珍しく荒げられたウィルの声に、何事かと驚いた他の使い魔達もバタバタ部屋の前までやってくる。
「ウィル、どうしたの?」
尋常ではないビリビリした殺気に、常に側にいるティムでさえも思わず声を顰めた。しかし、怒りが収まらないウィルの双眸は、沸々とこみ上げる怒りに震えている。
「フェリがカイの魂を殺した。……ティエノフ家の裏切り──この責任は全員で取ってもらおうか」
静かな殺意に満ちたその声音に、周囲の者達は思わず息をする事さえも忘れ、ウィルに魅入られていた。
そこに立っていたのは混血児・櫂の父親であるウィルではなく、残酷で獰猛な吸血鬼ウィリアム=グレイスだったのだ。
一方、櫂を完全に支配したフェリは、手鏡で怒るウィルを見つめながら舌舐めずりをしていた。
愛おしい男が自分を殺しに来る。好戦的なティエノフ家の吸血鬼達。抑えきれない高揚感に、フェリは身体をくねらせて喜んでいた。
「ふふっ。ウィルがあたしを殺しに来る。あのウィルがついに──始祖の覚醒。温いウィルが残酷な吸血鬼となってあたし達を導いてくれたら、人間界だけじゃなくてきっと──」
心酔しているフェリの部屋の空間が突然ぐにゃりと歪む。音も無くそこから出て来たのは、整った眉を吊り上げているノエルだ。
同胞の登場に一瞬だけフェリは不満そうに唇を尖らせた。
「フェリ、貴女は一体何をしたのですか!?」
普段声を荒げる事など無い彼が、我を忘れたようにつかつかとフェリの前まで歩き、彼女に食いつく。
「分かっているのですか? アスラがあのウィルに殺されかかった事を」
櫂には手を出さない。その代わりにティエノフ家の安全を保障する。始祖と交わした契約の事を言っているのだが、フェリは口元を緩めて素知らぬ顔をする。
「何の事かしら。あたしは何も関わっていない。だから、お前がウィルとどんな契約を交わしていようが知ったこっちゃないよ」
「貴女の行動は、ティエノフ家の──!」
そこまで言いかけた瞬間、フェリの長い爪がノエルの喉に食い込む。不意打ちにノエルは壁に身体を打ち付け、喉からは赤い血を滴らせた。
「がっ……」
「いいかい、ノエル──指図は受けない。あたしに命令出来るのはラグエル様のみ。尤も……ウィルがあたしを殺せるくらいイイ男になっていたら話は別だがね」
フェリ=ティエノフ。
彼女は元・人間の女であり、ラグエル=ティエノフが彼女の闇を気に入り、気まぐれで吸血鬼に引き入れた。何度も交わったフェリは念願の子を授かったのだが、ラグエルの血が強すぎて、産まれた子は直ぐに命を落としていた。
それからフェリは性格が変わり、自分が腹に子を宿せない分、狂った嫉妬により人間の子供を殺して食すようになった。暫くは大人しくしていたのだが、その標的が、いつしか混血児の櫂となった。
彼女はティエノフ家の当主であるラグエルと何度も交わっている為、他の吸血鬼より魔力も高く、特殊な青い薔薇を扱う事も可能となっている。
ずるりと壁から崩れ落ちたノエルを一瞥しながらフェリは鼻を鳴らす。
「あたしに指図するんじゃないよ。お前は黙ってアスラの面倒でも見ていりゃいいのさ」
「女狐め……」
ノエルは彼女に貫かれた喉を自己治癒しながら肩で呼吸を整える。彼から冷たい瞳を向けられても、フェリは全く気にする素振りを見せない。
これから起きるであろう争いを想像して気分が高揚している彼女は、カツカツとヒール音を鳴らし、愛おしいラグエルの部屋へと向かった。
同時刻──
櫂に埋め込まれた青い薔薇の種は精神まで侵食しており、ウィルの力ではどうする事も出来なくなっていた。
気休め程度の力しか無いが、彼を治療の間へと移し、経過を追う。薔薇の蔦はそれ以上皮膚から出て来る事はなくなったが、断続的に櫂が魘されたように声を荒げる事が増えた。
もはや、彼を人間界に戻す事も、此方で成長を追う事も難しい状況だった。人間界に堕ろす事は彼を半死人として扱う事になり、かと言って吸血鬼の世界で生活させる事は青い薔薇の木を成長させるだけ。
このまま彼を楽に屠るべきか、それともフェリの人形であっても生かしておくべきか。
「カイ……済まない」
透明なカプセルの中で苦しそうに呻き、まともな返答の無い息子に詫びても、彼の精神はもう戻らない。
後は、フェリが何か起爆をした瞬間、彼は薔薇の木へと変わる。吸血鬼達にとって、極上の餌として……
こんなつもりで華江と未来を語り合った訳ではない。彼女は、アスラに殺される寸前、ウィルの脳に直接語りかけて来た。
私達の、宝を守って──と。
双子の混血児を守る事。それが人間と吸血鬼の未来を変える道となるはずだった。
ウィルとしてもまさか、最近の人間界を視察している間に大人しくしていた筈のフェリが動くとは全く考えてなかったのだ。
何度目か分からないため息を付くと、治療の間に準備を整えたティムがやって来る。
「ウィル、いつでも大丈夫だよ」
「此処はお前に任せる。カイを頼む」
「オッケー。フェリはノエルよりも狡猾な女吸血鬼だし、ラグエルの寵愛を一身に受けてる。──気をつけてよ?」
「……分かっている」
頭に血が昇ると冷静さを欠いてしまうのがウィルの悪い癖であった。それを良く知るティムは、使い魔の身分ではあるが時折こうしてウィルに進言する。
少しだけ現状を受け入れ始めていたウィルは苦笑すし、ティムの小さな頭をくしゃりと撫でる。
「──始祖様に、武運を」
ティムは膝をつき、祈りを捧げる。こくりと頷いたウィルは空間を歪め、その姿を赤い霧へと変える。
まずは裏切り者のフェリを始末すべく、ティエノフ家へと飛んだ。




